哭雨 9
「……暇だ」
己の発した声が、禊場に大きく響いた。こだました声はすぐに消えてしまい、しんと静けさが満ちる。
紫呉は一つ大きく息を吐き、同じくらい大きく息を吸い込んでから、水に潜った。
支暁殿の禊場である。
瑠璃天井ごしに差し込む光を受けて、泉は蒼く澄んでいる。水面だけではない、水中も水底も、全てが蒼く染め上げられていた。
それは瑠璃天井のおかげだけではなく、水底に沈んだ瑠璃の玉のおかげでもある。
紫呉は玉を一粒拾い上げ、浮上した。水面から顔を出すなり、頭を振って水を散らす。
泉の中央に位置する小島に上がり、社の隣に腰を下ろした。拾い上げた粒を社に供える。
これで三つ目だ。紫呉は禊の為にと着替えた白の単の裾を絞り、ついでに袖も絞って水気を切った。
ごく小さな、古びた社だ。奥を覗き込む。何も見えない。祭神の偶像も無く、そこにはただぽっかりとした暗闇が有った。
正式に桔梗の名を継いだ者のみが、倉稲魂とまみえる事を許されていると聞いている。眷属の稲荷はそれ以外の者の前にも時折現れると聞くが、どうやら今日はいないらしい。
まあ、嘘か真かは知れぬ。伝承だ。月の桔梗の話と、同じ水準の話である。
頬に張り付く濡れた髪が鬱陶しい。紫呉は髪をかきあげてから、後ろに両手をついた。
社の隣には木があった。ちょうど己の背と同じ高さくらいだろうか。広葉樹だ。
木には、瑠璃の玉が生っている。時折実が落ちては泉に転がり、ぽちゃんと軽い音を立てていた。
紫呉は足元に転がってきた瑠璃を摘み上げ、ついでに社に供えておいた。
別に、水底の瑠璃を社に供える事が禊の作法というわけではない。単に紫呉が暇つぶしにやっているだけだ。
そもそも、禊に正式な作法も手順も無いのだ。ただ、この場に在る事が禊となる。だがそれではあまりにも暇すぎるので、水底から瑠璃を拾っては供えているのだった。
「ひーまーだ」
もう一度声を発するが、やはり返ってくるのは己の声のこだまのみだ。
折りよく木から落ちた粒が泉に転がり、ぽちゃんと音を立てた。何だか馬鹿にされたようで腹が立った。
紫呉は小島の縁に座り、足をつけた。特に意味も無くぱしゃりと跳ね上げる。散った雫が波紋を描いた。
それをぼんやりと見おろし、紫呉は何度目になるとも知れぬ溜息をついた。ずるずると足先から滑り落ちるようにして、泉に体を浸す。
仰向けになって水面に浮かび、瑠璃天井を見上げる。美しかった。
だが暇な事には変わらぬ。紫呉は途方に暮れた。
二影は拓也の件を調べてくれている。まあ暇をしていたとしても、ここには如月の血筋の者と、祭事・殿内諸事を司る紫官の長のみしか入れないから、相手をしてくれと望んでも無意味なのだが。
由月は政務にでかけていったし、仮に紫官長が来てくれたとしても、それはそれで気をつかってしまうし困りものだ。
皆、成すべき事をしている。自分が今成すべき事は禊に全力を注ぐ事なのだろうが、その禊が何もせずにここにいる事を指すのだから、何をできようはずも無い。
どうせ時間を持て余すのなら素振りでもするかと思ったが、牙月は応えない。そんな事の為に使うな、と言いたげだ。全く、わがままな奴だ。大人しく従っていれば良いものを。
紫呉は出入口側の地面に上がった。腰を下ろし、泉に足を浸す。
濡れた単が気持ち悪い。帯を解く。肌に張り付く衣に難儀しながら、単を脱いだ。
適当に丸めて、ぎゅうと絞る。どうせ自分しかいないのだから、下着も脱いでしまっても良いのでは、と思ったところで背後の戸がキィと開いた。
「相も変わらず、汚い体をしているねお前は」
閉じた扇を口元に添え、呆れた顔で由月は言った。
「暇そうじゃないか」
「……多分に暇をしておりますよ」
我ながら、棘のある声だ。
暇だと思っていたし、誰か来てくれないかとも思っていた。
しかしいざこうして来てくれると、何だか自分の思いを見透かされたような気がして、つい楯突くような物言いをしてしまう。
由月は紫呉の隣に腰を下ろした。一応の礼儀だ、紫呉は腕を通さぬままに単を肩にかけ、傷にまみれた体を隠した。
由月が胡坐する。滅多に姿勢を崩さぬ兄が、自分の前では力を抜いていてくれる。
それを嬉しく思うと同時、何となくその感情を表に出すのも恥ずかしいような気がした。
「兄様を尊敬します」
その所為か、普段以上に平坦な声が出た。
「ほう?」
由月は優雅な仕草で首を傾げた。何を今更、と言いたげだ。
「よくもまあ、祭事の度にこんな暇な事をされていらっしゃいますね」
「たまには心を無にして、水にたゆたうのも悪くは無いさ」
由月は微笑んで、撫でるように水面に指を滑らせた。
そういうものなのだろうか。それを解さぬという事は、きっと自分は未熟なのだろう。
紫呉が絞った単に腕を通した時だ。背後の戸口が、コンと鳴った。
誰かが訪れたようだ。立ち上がった紫呉を、由月は咎める目で見た。
「その格好で行く気かい」
確かに、人前に出るに相応しい格好ではない。
「まあ、ここに来るのは近しい者ばかりでしょうし」
紫呉が今ここにいる事を知っているのは、近親の者ばかりだ。良い顔はしないにせよ、まあ許してはくれるだろう。わざわざ着替えるのも面倒だ。
紫呉は適当に帯を締めて、戸を開けた。
「っはは、すげえ濡れ鼠」
ひょいと片手を上げた影虎が、思わずといった調子で吹き出した。
「どうしました?」
「や、良いよそこで。床濡れるし」
影虎は、戸の外に出ようとする紫呉を制した。
「ちょっとマジで忍んでくるから。預かっといてくれよ」
言いながら、影虎は左手首の数珠を外した。黒曜石のそれを受け取り、紫呉は影虎を見上げる。
「祭までには帰るよ」
それじゃあ、と踵を返そうとした影虎を、紫呉は呼び止めた。手招きして、こちらに来るよう誘う。
何だと首を傾げる影虎の額に、口づけを落とした指先で如月の紋を描いた。
「月の加護があらん事を」
本来ならば血で紋を描くのが正式な法式だが、これから忍ぶと言っている相手に血のにおいをつけるわけにもいかない。
「いってらっしゃい」
「……祭までには帰るよ」
影虎は額を押さえ、ふ、と笑った。
背を向けた影虎を、今度は呼び止めなかった。
紫呉は戸を閉め、掌の数珠を握る。
黒器を預けていったという事は、危険な場に忍ぶという事だ。
もし命を落とした際、黒器を身につけていると身元が割れやすい。それを防ぐ為だ。
行き先を言わなかったのも、もし死亡した時に紫呉に類が及ぶのを防ぐ為。知らなければ知らぬ存ぜぬ関係ないを、貫く事も可能だから。
家族には行き先を告げているのだろうが、聞く必要は無い。影虎は帰ると言ったのだから。
そしてこの黒器は、帰るという彼の決意の証。ならば自分は、それを信じて待つだけである。
紫呉は黒曜石の数珠――清姫を左の手首に嵌めた。パチパチと爆ぜては異を唱える清姫を、逆の手で握りこむ。
「大人しくしていろ」
清姫が肌を食む。流れた紫呉の血に、嬉しそうに呼応する牙月に腹が立った。
垂れた血を拭う紫呉を横目に、躾のなっていない犬だと由月が笑った。