哭雨 10
紫呉はぼんやりと己の掌を見つめた。長時間水に浸かっていたおかげで、指先に皺ができ、皮膚は柔らかくふやけている。
支暁殿の紫呉の私室である。露台に面した障子戸は開け放っており、そこから日暮れ時の赤い光が差し込んでいた。
ふいに、さきほどから響いていた篠笛の音がやんだ。
「疲れた……」
部屋の隅の壁に背を預け、笛を奏でていた須桜がぐったりと手足を投げ出す。
「しばらく吹いてないと異様に疲れるわねー……。特に腹筋」
須桜は目を瞑り、腹を撫でている。
奉納舞の際、須桜は楽隊に参加する予定だ。普段由月が舞う際には、須桜の母である
「んー……。……、よし」
頬をパンと叩いて気合を入れた須桜が、笛を構えた。姿勢を正し、すうと大きく息を吸う。
空気を裂くように、高く笛が鳴る。
楽に関しては、紫呉は門外漢である。巧拙は分からぬ。だが、力強い音色だと感じた。
紫呉は傍らに置いていた扇を手に取った。閉じたそれを、ゆっくりと開いていく。
手が攣りそうだ。ひとまずやめにし、手首をぷらぷらと振る。
奉納舞は幼い頃からずっと観ているし、所作はほぼ完璧に覚えている。そこそこには舞える自信があった。
問題は扇の扱いだ。基本の開閉にすら難儀していた。気が重かった。
笛の音が掠れる。須桜は唸りながら、笛を口元から離した。
「どうしました?」
「何か上手くいかない。……ちょっと母さんのとこ行ってくるわ」
須桜は立ち上がり、紫呉の部屋を後にした。
徐々に遠ざかる軽やかな足音に耳を傾けつつ、紫呉は開いた扇を掌に打ち付けて閉じた。もう一度、ゆっくりと開いていく。
筋が痛むが、堪えて開いた。須桜は頑張っている。ならば自分だって頑張らねばなるまい。
……とは思うものの、やはり手が攣りそうだ。
口を曲げて、手を揉み解す。いったい何が悪いのだ。
誰かの助力を借りたい。政務が終われば稽古をつけてやると兄が申し出てくれたが、終刻までまだ時間がある。
とりあえずは気分を変えようと、紫呉は露台に出た。
組んだ腕を欄干に預け、夕日に濡れる稜線に目を据える。
赤く映える雲が流れていく。雲々の隙間から零れた光が、風に揺れる木々を照らしていた。
太陽が稜線に沈んでいく。鴉が群れを成して飛んでいく。
太陽が姿を消した。尾根伝いに残照が光っている。一番星が瞬いていた。
遠く見える人家に、ぽつぽつと灯りが点り始める。煮炊きの煙が立ち上っていた。
支暁殿を囲む森に放たれた蝶灯が、灯を纏い始める。黒く夜に塗られた森の中を、ひらひらと羽ばたいていた。
夜の帳はゆうるりと下ろされ、風に散った雲間から覗く白月が里を見下ろしていた。
己の祖先が開き築いたこの里は、今なおこうして美しい。
胸にふつふつと湧き上がる情動を、人は誇りと呼ぶのかもしれない。
今になって、書状を送りつけてきた破天に怒りが湧いた。
奴らは、この里に背こうと言うのだ。この里を築いた如月に叛こうというのだ。
愚かしい。
命を奪ってどうする。その先はいったいどうするつもりだ。如月に取って代わり里を治めようとでも?
馬鹿げている。
紫呉は、足音がこちらに近づいてくるのにふと気がついた。須桜の物ではない。須桜よりもっと体重のある者の音だ。
足音は複数だ。音の持ち主が誰か気付き、紫呉は室内に戻った。拝跪して待つ。
襖が開かれる。
「また書が来ていた。お前も見るが良い」
体温をまるで感じさせぬ、冷ややかな声音だ。
通りざまに投げ捨てられた書状が、紫呉の眼前にひらりと落ちる。
「虫風情が調子に乗りおって」
自分に向けられているわけではないのに、吐き捨てられた声が重く肩に圧し掛かるようだった。
書はまたも血文字で綴られていた。前回のようにまだるい手法で破天の理を唱えている。
「疎ましい。どれだけ喚こうとも虫は虫よ」
「……ご壮健で何よりです」
父上。
欄干に背を預けた父に向き直り、紫呉は頭を垂れた。
父――第十二代如月桔梗
「お前も無事なようで何よりだ。手駒は多いに限る」
父は目を伏せ、腕を組んだ。風を受け、袖が翼のようにはためく。
短く切った夜色の髪に、鋭く切れ上がった一重瞼。瞳は一見黒に見えるほどの、深く濃い藍色である。
真一文字に結ばれた薄い唇が、仏頂面に磨きをかけていた。
父に似ているとよく言われる紫呉だ。確かに目鼻立ちは父譲りである。若い頃の雅由を見ているようだと、影虎の叔父である影鷹に何度言われただろうか。
だが自分には父のような、滲み出る威圧感は無い。そこにいるだけで相手を萎縮させるような、圧倒的な覇は持ち合わせていない。
「あらまあ。もっと素直に心配していたと申し上げれば良いものを」
背後から伸びてきたしなやかな指が、紫呉の肩にそっと触れる。
「元気そうですね、紫呉」
「母上も。…………」
続けて何か言おうとしたのだが、相応しい言葉を見つけられず紫呉は口を噤んだ。
隣に座した母――
上品に結い上げた豊かな黒髪。濃紫の瞳は深く澄み、優しげな色を湛えていた。
白い肌には重ねた年月が刻まれているものの、生来の美貌は決して損なわれる事無く、今も母の支配下に有る。
二人とももう五十に手が届くというのに、随分と若々しい。髪には白いものがまじり始めているが、それを補っても余りある若々しさを感じさせた。
母の言葉に、父は眉根を寄せる。不機嫌な顔がより一層不機嫌に見えた。母は面白がるように、袖口で口を押さえて笑っていた。
「それにしても、本当に手が込んでいる事」
書状を拾い上げ、母が言った。
「くだらんな」
父が嘲る。見るのも馬鹿らしいと、深い藍の瞳が雄弁に語っていた。
いつの間にやら背後に来ていた兄が、母の手から書状を抜き取り笑って言った。
「そう仰らず。愚かなりに意匠を凝らして下さったのですから」
隣に並ぶと、やはり由月はよく母に似ている。柔らかで上品な物腰といい、柔らかさの奥に秘めた冷ややかさといい、実にそっくりだ。
紫呉は由月に手渡された書状に目を凝らした。
見るうちに、怒りが湧き上がる。
誤字の位置は前回と違うものの、やはり訴えは同じだ。
『お命頂戴致します 破』
実に愚かしい。
父の命も母の命も兄の命も、己の命だってくれてやるつもりなど毛頭無い。
無論、里の命も。
「虫など、潰せば良いだけの事」
「……ほう」
父が唇に笑みを刷いた。そして、く、と喉を鳴らす。俯き、肩を揺らして笑った。
その笑いが伝染したかのように、由月も扇で口元を隠して笑う。
「あら、乱暴ですこと」
呟いた母の台詞は咎めるものだったが、声音はその真逆、紫呉に同意を示していた。
「それが、如月に叛いた報いかと」
紫呉は書状を投げ捨てた。ひらひらと空を舞った書状は、やがてかさりと音を立てて畳に落ちた。
完全な夜を迎えた空に、色づいた月が皓々と輝いていた。