哭雨 8
由月の私室は、一片の乱れも無くきれいに片付けられている。少しでも乱せば兄の不興を買いそうで、緊張に体が強張った。
部屋の隅には、影亮が疲れた面持ちで座していた。由月を見上げた視線は、随分と恨めしげである。
影亮は口を利くのも億劫だと言う様に、無言で書状を由月に突きつけた。影亮の視線を笑顔でいなし、由月は書状を受け取った。
影亮は口元に苦笑を貼り付け、三人に会釈した。立ち上がり、足早に退室する。
声をかけられる雰囲気ではなかった。とにかく、疲れきっている様子だった。
須桜は気遣わしげに影亮の背を見送っている。
「座りなさい」
はっとして、紫呉は由月のもとに足を運んだ。
折り畳まれた書状を渡される。
紫呉は下座に正座して、それを両手で受け取った。背後に座した影虎と須桜が膝行して近寄り、紫呉の手元を覗き込んだ。
書状を開こうとするが、何かが糊になっているのか中々上手く開けられない。
紫呉は破らぬように気を払い、慎重に書状を開いた。
「……これはまた」
念入りなものだ。
赤黒く染まった書状は、どこまでも禍々しい。
血文字に目を注ぐ。文として成り立っていない。めちゃくちゃに文字を並べているようだった。
文字は紙の全てを覆い尽くしており、一見したところ何を訴えたいのか分からない。
二枚目、三枚目も同じだ。びっしりと血文字が敷き詰まっている。
「それが原書。こちらが写しだ」
由月の手から、数枚の書状を戴く。血文字から墨になっただけで、随分と見やすくなった。
原書と写しを、四人で囲んで見つめる。
「……誤字が有りますね」
文書中の『如』と『月』の文字が誤って書かれている。
「よく気付いた」
由月が誇らしげに笑った。
「そしてこれが、誤字に朱を引かせた写しだ」
由月は先程影亮から受け取った書を、文机に並べた。
「……ご苦労さんだな、亮ねえ……」
書を覗きこんだ影虎が、苦笑いした。
あの疲れた様子からすると、一晩かけて朱を引いていたのかもしれない。もしかすると、写しの作成も影亮がしてくれたのだろうか。
「……お命頂戴致します 破」
修正版に浮かび上がった文字を、須桜が読み上げた。
由月は扇で口元を隠し、肩を揺らして笑う。
「面倒な事をするわりには、面白みが無いだろう?」
だが、と由月は言葉を切って目を伏せた。
「この執念は褒めてやる」
伏せた目も、声も優しげではある。だが含まれる冷ややかさに、部屋の温度が下がったような心地がした。
「同じ書状が各地の壱班に届いていた。中央森の各所にも打ちつけられていた。写しではなく、全てが血文字だった。ご苦労な事だ」
影虎が原書を手にして、陽に透かした。
「字のとこが所々破れてる。それに掠れてる。針で書いたかな」
「ああ。森の入り口に落ちていた書状には、ご丁寧に血で汚れた針が包まれていたよ。それから、剥がした爪も包まれていた」
須桜が肩を竦め、気持ち悪そうにわきわきと手指を動かした。
「爪は全て親指のもの。十ほど有ったかね」
思わず紫呉は、己の手指をさすった。
「……これは、確かに、……要警戒用件ですね」
「臆したか?」
「まさか」
由月の揶揄の声に、紫呉は反射的に言い返した。由月は満足げに笑う。
「おそらくは、時宜からするに里炎の縁筋の者だろう。組頭達を処刑した折に、こうなる可能性は有るだろうとは思っていたが、これほどに求心力が有ったとは以外だった。誤算だな」
由月はこちらを向いて、軽く頭を下げた。
「お前には迷惑をかける。すまない」
「……ぃ?」
紫呉は慌てた。意図せず変な声が出た。
兄が自分に頭を下げるなど、というより、人に頭を下げるなど目を疑う光景だ。
影虎と須桜も同じ気持ちのようで、どうしたものかと顔を見合わせている。
紫呉は無意味にあわあわと泳がせていた手を己の膝頭に落ち着け、由月の顔を覗き込む。
「あの」
何を言おうと決めて口を開いたわけではない。接穂が見つからず、結局は口を引き結んだ。
由月は肩を揺らしている。笑っているようだった。
由月が頭を上げる。閉じた扇で、疑問符を浮かべた紫呉の額を突いた。
「お前は、慌てると途端に幼くなるね」
拍を取るように、ぺしぺしと脳天を軽く叩かれる。
突かれた額を押さえ、紫呉は憮然とした面持ちで視線を背けた。由月は楽しそうに笑い声をあげている。
「そう不細工な顔をするものではないよ。……ああ、そうだ。言い忘れていたね」
由月は扇を逆の手に持ち替えた。今度は扇ではなく掌で、紫呉の頭をぽんと撫でる。
「おかえり。久しぶりに会えて嬉しく思うよ」
ぱち、と瞬く。
由月は穏やかな笑顔で紫呉の頭を撫でている。
紫呉は首を振って手を振るい落とした。
腹が立つ。面倒ごとを押し付ける為に呼びつけたくせに。
文句の一つ二つ言ってやろうかと思っていたのに。意趣返しの一つ二つしてやろうかと思っていたのに。簡単に絆される自分の単純さに腹が立つ。
「……ただいま戻りました」
紫呉は押し殺した低い声で、小さく呟いた。
せめてもの反抗に、自分も嬉しいとは告げずにおいた。