哭雨 11
三
眠い。
紫呉は大きく欠伸をした。すれ違った女性に咎める視線をよこされ、少しばかりバツの悪い思いをする。
紫呉は街中に在った。
舞台に続く道には屋台が立ち並び、人で溢れかえっている。あちらこちらの屋台から、絶えず客寄せの声が上がっていた。
屋台からは香ばしい匂いや甘い匂いが漂い、食欲を刺激された。幼い子供が母の手を引き、飴をねだる姿に思わず頬がほころぶ。
活気づいた空気に、自然と心が躍った。昼過ぎまで降っていた雨もやみ、雲間からは青空が覗いている。遠くに暗雲が立ち込めているが、祭が終わるまでは何とかもってくれそうだ。
紫呉はまたも欠伸をした。
こうも眠いのは、祭当日の今日まで昼夜逆転生活を送ってきたからだ。
夜は、政務を終えた由月に舞の稽古をつけてもらっていた。おかげでろくに睡眠できぬまま朝を向かえ、そのまま禊場に向かうはめとなった。
昼間は禊場で、うとうとと過ごしていた。そのおかげで暇を持て余さずに済んだので、まあ、有難いと言えば有難い事ではある。
だがその所為で、昼間眠って夜起きる、という風に癖づいてしまった。昼間の眠気を耐えて眠らず、僅かに得た夜の睡眠時間だけ眠れば良いのだが、それはなかなかに難しい。
弐班の任や鳥獣隊の任で、不寝番を務める事もある。数日間寝ずにいる事もある。
だがそれは緊張下での事。危険な環境下で気を張り詰めているからこそ出来る事だ。危険に晒される心配のない、安穏な状況下で寝ずにいるのは至難の業だった。結局眠気に負け、いけないと思いつつも昼間はぐうぐうと眠りこけてしまった。
それにしても兄には恐れ入る。兄とて睡眠は充分でないだろうに、疲れを見せる事無く政務に精を出しているのだから。睡眠不足という不利を背負って尚、昼間の兄はいつもと同じく完璧に優美で優麗であった。
だが眠気の所為か、稽古をつけてくれていた夜は常よりも意地が悪かったように思う。眠い眠いと言いながらも手を抜くこと無く、厳しく――厳しすぎる程に指南してくれた。……おかげで手首が痛い。何度も扇で叩かれたからだ。
少しばかり腹が立つが、まあ良い。無様な舞を見せるわけにはいかない。何しろ、民は舞手を跡継ぎ様だと思っているのだから。
こみ上げてきた欠伸を、今度は噛み殺した。滲んだ涙を拭い顔を上げると、人ごみの中に知った顔を見つけた。
向こうも紫呉に気がついたようで、明らかに嫌な顔をする。
失敬な、と思うと同時、ここまであからさまに嫌われると何だか愉快な気持ちになってくる。
紫呉は精一杯にこやかに笑って手を振った。瞬時に背を向ける彼を追いかけ、逃げられぬようがっしりと手首を掴む。
「ご機嫌麗しゅう、洋殿」
「は、離しなさい! 私はあなたに用などございませんよ!」
「まあ僕だって無いんですけどね」
「ならばお離しなさい!」
洋はぶんぶんと掴まれた腕を振る。しかし力で紫呉に叶うはずもなく、ただの徒労に終わった。
それでも洋は諦めず、何とかして紫呉の手を解こうともがいている。面白い。
「ああもう、さっさとお離しなさい!」
洋は必死になって、手首を掴む紫呉の手を引っ張っている。顔色が元々悪い所為か、赤黒いというか、赤紫というか、何とも珍妙な顔色になっていた。
これ以上は少し執拗に過ぎるか。紫呉は大人しく洋に従い、手を離した。代わりに、逃げられぬよう袖を摘む。
洋はぜいぜいと荒い呼吸で、半眼になってこちらを見おろした。灰緑の瞳には、呆れと諦めの色が浮かんでいる。
「……お離しなさい。逃げや致しませんから」
「洋殿は何故ここに?」
「人の話をお聞きなさい。私は版元に給金を頂きに参った帰りですよ。むしろ何故ここにいるのかと問われるのは、あなたの方ではございませんか」
と、いう事は、由月に代わり紫呉が舞手を務める事は洋も知っているのだろう。
洋は袖を摘む紫呉の手をぺいっと払い、ずれた眼鏡を押し上げた。
「まあ別にあなたがどこで何をしようと、私には全く関係ないのですがね。そして全くもって興味も無いのですがね」
ならば聞くな。
「ああ、そうです。これをご覧なさい」
洋は懐から読売を一枚取り出し、紫呉の眼前に掲げてみせた。猫背を伸ばし胸を張り、得意げに眼鏡の縁をいじっている。
読売は今日の祭の記事だった。いつものように、如月の情報も掲載されている。
記事曰く、現在如月の長男は病に罹り本調子ではないとの事。だが病を押し、懸命にも舞手を務める、との事。
「感謝なさい。これでいくらあなたが無様な事をしようとも、彼の御仁にご迷惑をかける事にはなりません」
なるほど、一理ある。
舞を観ている者は、今回の舞手が紫呉だという事を知らない。由月だと思っている。いつも完璧に美しい舞を見せる跡継ぎ様が、何かしらの失態を見せたら不自然に思うだろう。
だがこうして先手を打って、病だと報じておけばそれも不自然なことではなくなる。病ならば仕方がない、と思ってくれるだろう。
「感謝するのですね。ですがこの記事に甘えないで下さいよ。失敗しても良いと申し上げているわけではありません」
「もちろんです。僕が完璧に役をこなせば、にいさ、……あとつ、…………、……御仁も、病を押してここまでされるとは、……すばらしい、と、…………」
言いさしてちらりと洋を窺えば、洋はやれやれと言いたげに眼鏡の縁をいじりながら首を振っていた。
「あなた」
「はい、すみません。公私を混同し兄と呼ぼうとした事も、洋殿が周囲を慮り跡継ぎ様と呼ぶのを控えたのも考慮せずそう呼ぼうとした事も、僕が悪いです。すみません」
洋に言われる前に、言われるであろう事を全部述べれば、洋は馬鹿にしきった表情でふんと鼻を鳴らした。
「本当にあなたは迂闊ですねえ。いずれ必ずや痛い目を見ますよ」
「はい、ご忠言ありがたく」
今回の事は自分の失態である。洋の言う通りだ。
洋は胸をそらし、鼻高々にぐだぐだと息巻いている。
自分が悪いのは承知だが、いい加減鬱陶しいと思っていたその時だ。
「あっ! あーにきー!! こんなとこで何してるんだぜー!?」
崇の声がして、人ごみの向こうに手ぬぐいを巻いた頭が見えた。