火炎の淵 8
「あら、嫌ですわ。他の女の名前を呼ぶだなんて、ひどいお方ですのね」
「いや……。いやいや。…………え?」
「もう間違えないで下さいませね。わたくしは呉子と申しますわいだだだだだ」
「あ、やっぱ痛いんだ。夢とかじゃないんだ」
思いっ切り頬を抓る。地声で痛がるソレは、莉功の手を引っ掴んで頬から手を離させた。
「ひどいお方……。初めて会ったばかりですのにこんな仕打ち……」
ソレは頬を押さえ、情感たっぷりに呟いた。頬が赤く染まっている。いや、思いっ切り抓った所為だが。
「で、何でこんな事やってんだお前さんは」
「嫌ですわ、女に過去を聞くだなんて無粋ですわよ(紫呉裏声)……と口では言いつつも呉子は己に興味を抱く若い異性に対し、熟れた肉体の奥に欲の炎が点るのを感じていた(紫呉地声)」
「え、何」
「というのも、夫が呉子を娶ったのは家名に惚れた故だ。呉子自身には何ら興味を抱いていない。褥を共にしたのは初夜ただ一度のみ。以来呉子ははしたないと知りつつも、熟れた肉体を持て余し日々を虚しくすごすばかりだった。このまま夫に愛されず女の性を終えても良いのか……。そう思った呉子は貞淑という名の鎖を引きちぎり、新たなる扉を開いたのだった……。第一部完(紫呉地声)」
「あ、第一部なんだ」
「第二部は夫と酒屋と米屋の間で揺れ動く呉子の心情を描きます」
「呉子さん三股かよ」
「仕方ありません。人妻ですから」
「世の中の人妻に謝れ」
「さて、何を飲まれますか?」
「何でこの状況で普通に酒すすめられんの? 鉄の心臓なの?」
「照れ隠しですよ。言わせないで下さい、恥ずかしい」
「うっせーよ、この全力バカ」
「さっきから痛いですよ。呉子に暴力を振るうのは夫だけで結構です。他の男には優しくされたい」
「黙れ全力バカ。水割り。麦で。お前さんは水でも飲んでろ」
「嫌ですよ。同じものをいただきます」
「あーはいはい。もう何でも良いよ面倒くさい」
不器用な手つきで水割りを作るのを、莉功は頭痛を堪えて眺めていた。
結い上げた黒髪(鬘)だの、後れ毛の具合だの、衣文の抜き具合だの、ちょっと疲れた感じの濃い目の化粧だの、何か、バカだなこいつと思う。全力でバカだ。全力バカマだ。
「……で? 何でこんな事してんの……」
「嫌ですわ、先程説明したではありませんの。何も聞いていらっしゃいませんのね」
「裏声もう良いから。人妻ごっこももう良いから」
「…………、まあ、何やかんやと有ったんです」
「何がどう何やかんや有ったらオカマになんの」
「端的に言えば用心棒的なアレです。莉功殿こそ、何故ここにいらしたんですか」
「俺も何やかんや有ったんだよ……」
「なるほど。目覚めたわけではなかったんですね」
「目覚めてたまるか」
「目覚めても良いんですよ。ほら、あちらにいるのが期待の新人です」
と、指差された先を見て、莉功は脱力した。
微妙にださい眼鏡に、高い位置で二つに括られた長い髪(鬘)。やはり濃い化粧。でもこちらは呉子さんと違って、色気よりも可愛らしさを前面に押し出そうとしているらしいのが窺えた。きもい。
「……何あれ」
「虎子りんです。虎子りんは虎子りんであって虎子りん以外の何者でもないようにみせかけて、実は同時に虎子りん以外の何者かであったりもします」
「……へえ」
気の抜けた相槌を打つしかない莉功の視線の先で、客と談笑していた虎子りんが、ふいにきゃあと声を上げた。きもい。
「もうっ、こりんのおっぱい触ったでしょおっ」
「えー、でもー、虎子りんはー、お婿さんを探しにこりん星から来たんだよねー」
「で、でもっ、えっちぃのはだめなんだもん!」
ぶん殴りたい。虎子りんも客も二人ともぶん殴りたい。
「…………おっぱいあんのお前さん達……」
「にせちちですよ。僕は入れてませんけど。虎子りんの中の人が呉子さんは貧乳でいこうぜー、って言ってましたから」
「……何でお前さん達そんなにノリノリなの……」
「やるからには全力でやりますよ」
「あー……、そう……」
もう何でも良いや。
とりあえず莉功は水割りを口に含み、酒に逃げる事にした。
ようやく渡された冷えたおしぼりが気持ち良い。微妙に今更な気もするが。
呉子さんも同じく水割りを喉に流し、何やら疲れた風情で嘆息した。
「おや、お疲れ?」
「慣れない事をしていますから」
「慣れてたら嫌だよ。つか用心棒? って、例の最近の何やかんや?」
「ええ、例の何やかんやです」
ここ最近、いわゆるならず者たちが幅を利かせている、という話だ。壱班でもその話は良く耳にする。
「……莉功殿」
「んー?」
「莉功殿は、奪うと言われたら何を想像されますか」
「んー……。金・地位・女、かな。どれも持ってないけど」
「なるほど」
呉子さんは少しばかり笑みを浮かべたようだった。
「何でまた?」
「……いえ。わたくしの夫に横恋慕をする女がいるのですわ。その女が、わたくしに宣戦布告をなさいましたのよ」
「ま、呉子さんも浮気してんだからおあいこじゃね?」
「そうですわね」
「……呉子さん、脚開いてんよ」
「あら、お恥ずかしいわ。はしたない」
呉子さんは開いていた脚を閉じた。
きっと、呉子さんの話をしていたのではないのだろうと莉功は思う。声は真剣で、どことなく切羽詰った響きをしていた。
(やだねえ)
また面倒ごとを抱え込んでんのかね。
まあ莉功の知った話ではない。巻き込まれたくない。面倒だ。でもまあ、できる限りのお力添えならば致しますよ。
と、口には出さずに考えていたらだ。
店の入り口の方でガシャンと派手な音がした。
なーなーなーなー、何回言ったら分かるんだよー。悪い話じゃないだろ? 悪い奴らから守ってやるって言ってんだよ? でも流石にタダじゃあこっちもつらいって話だ。分かるだろ?
「……あー……。分かりやすいバカって、ほんと分かりやすいねえ……」
「そうですね」
洋盃を傾けつつ、様子を見守っていたらだ。
「ちょいとアンタたち!」
野太い宮子の声がした。
「何回来ても無駄だよ! ウチはアンタらみたいなバカどもに払う金はないんだ!」
よっ女将!
拍手喝采が上がる。
「つか、仕事しなくて良いのかよ用心棒」
「僕達よりも頼りになる用心棒がいますから」
と、指差された先を莉功は見やった。そしてやはり、脱力した。
「おうおう兄ちゃん達よォ、てめェらこそ何回言ったら分かるんだコノヤロー」
くっちゃくっちゃと香草を噛みながら、ドスの利いた声でソレは全力で喧嘩を売っていた。
長い髪は前髪もろとも後ろに撫でつけ、一つに結わえている。黒眼鏡の奥の目は非常に剣呑で、元の愛らしさの欠片も無かった。
小さな体躯にはだらしなく男物の薄物を纏っている。覗く晒しはガラの悪さを助長させるのに一役買っていた。
「…………何あれ」
「すお郎さんです。すお郎さんはすお郎さんであってすお郎さん以外の何者でもないようにみせかけて、実は同時にすお郎さん以外の何者かであったりもすると見せかけてやはり、すお郎さん以外の何者でもありません」
「…………へえ」
もう相槌を打つのも面倒臭い。
全力バカばっかりだ。
帰りたい。