火炎の淵 7
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橘莉功は自他共に認める面倒臭がりだ。
そんな彼が壱班に、ひいては鳥獣隊に所属しているのも、元を辿れば面倒だったから、というのが根っこにある。
というのも、橘兄弟の父は現・赤官長である。それに縁したのか何なのか、跡継ぎ様は橘兄弟に「駒になれ」とおっしゃった。聞けば、前・赤官長である柊さん家の悟殿とその息子にも同じ事を言ったとか。
面倒臭がりである莉功がそれを呑んだのもまた、面倒だったからである。跡継ぎ様に逆らうのも面倒だったし、将来の進路を考えるのも面倒だったのだ。
なのでまあ、言われるがままに壱班の試験を受けて合格し、壱班しか持ちえぬ情報を跡継ぎ様にご報告してきた。跡継ぎ様にご満足して頂けているのかどうかは知らないが、まあ、とやかくは言われていないのでそう悪くない働きをしているのだろう。
そんなこんなで幾年が過ぎ、いつの間にやら壱班では部隊長の肩書きを得た。跡継ぎ様の弟君とも縁が出来たり何だので、日々そこそこ楽しく? 上手く? ……まあ、日々そこそこに生きている。
そんな莉功が、家庭菜園という趣味を得たのもまた、面倒臭がりな性格に因るものだ。休日にわざわざ外出して買い物するのが面倒だったのだ。持って帰るの重いし。
なので野菜だけでも自分で育てるかと思った次第なのだが、やってみるとこれが意外と面倒臭い。しかし何だか楽しい。瑞々しい良い茄子や、瑞々しい良い胡瓜を収穫していると、胸に湧くものがあった。
これが達成感というものかと、莉功はどことなく客観的に感じていたりもした。
まあそれはともかくとしてそんなこんなで、今夜は同僚と愛染街の飲み屋に立ち寄ったのだった。同僚の愚痴に付き合ったり、同僚の長い前髪を貶したり、何やかんやしているうちに楽しい時間は過ぎた。
二件目行くか、いや今日は帰る、という会話を経て、莉功は同僚と別れた。
どうするかねえ、一人で飲むのも何だかなあ、でも微妙に飲み足りん気もするしなあ、とか色々考えつつ街をぶらついていると、バカに遭遇したのであった。
ようよう兄ちゃん金出せや。分かりやすい口上を述べるバカを目の前にして、莉功はやはり面倒だと思っていたのだった。
「あー……、すみません。金無いです。全部使っちゃいました」
当然嘘である。
「あ!? ざけた事言ってんじゃねえぞ眼鏡野郎が! 痛い目みてえのか!?」
「……あー……、痛いのは嫌だけどもさあ」
分かりやすいバカだなあ、と莉功は半ば感嘆していた。
(どうするかねえ……)
適当に金を渡してお帰り頂こうか。それとも適当に殴られて満足していただこうか。
それとも、適当にぶちのめしておいて痛い目みせて差し上げようか。
どれも面倒だ。超逃げたい。
壱班の任や鳥獣隊の任は、金という益が発生するから頑張れるのであって、こういう何の得にもならない事で頑張るのは、何ていうか、ものすごく損した気分になるというか何というか。
(助けて彰司ー)
先程別れた同僚に心の中で助けを求めても、もちろん届くはずもない。
(……やっぱ無傷で帰れるのが一番かね)
出した結論に頷き、莉功はバカの無防備な足元に視線を落とした。転ばせて顔踏んで逃げる。よしこれで行こう。
「ちょいとアンタたち」
お。
「そこでナニやってんだい」
「何だあ!? 外野が口出しすんじゃ、ね、え……?」
バカの言葉が尻すぼみになるのも分かる。
バカの視線の先には、おと……おんな? がいた。
やたらと華美に結い上げられた髪に、やたらと華美で豪奢な柄の薄物。
それは良い。派手好みなのだろうな、と思う程度だ。
だが薄物を纏ったその体躯は、実に屈強だった。逞しかった。ガチムチだった。
何より目を引くのは、割れた顎だった。割れた顎には、白粉でも隠しきれない青髭が見えた。
バカが怯んだ。気持ちは分かる。
「アタシのシマでナニをやらかそうってんだい」
ひ、と息を飲んでバカは小さくなる。気持ちは分かる。莉功だって怖い。何で酒瓶持ってるんだろうこの人。
「く、くそっ。覚えてやがれ!」
分かりやすい捨て台詞を吐いて、バカはばたばたと走り去っていった。
ふう、と目の前のオカマ……いや、ケツ顎……いや、恩人は一息ついて、莉功に向き直った。
「アンタ大丈夫かい」
「あー……、はい。どうも、ありがとうございます」
「いや、良いのさ。最近バカな輩が多くてね、困ったもんさ」
よ、と掛け声をかけて恩人は酒瓶を肩に担ぎ直した。何で凶器持ち歩いてんだろうこの人。いや、それは自分達もだけど(黒器的な意味で)。
「ああ、これかい? ちょっと仕入れに行ってきたのさ。今日は客の入りが多くてね」
いやありがたいもんさガハハハハ、と豪快に笑って、恩人は酒瓶で肩を軽くトントンと叩いた。重くは、……ないんだろうなあ。莉功はぼんやり恩人を見上げる。
「ああそうだ、アンタ。良かったらウチで飲んでいかないかい?」
「え」
嫌だ。
「あー……。どうしましょうか、ねえ……」
「これも縁ってもんだ。ホラ、行くよ」
莉功が答えるのを待たずに、しかも既に何やら行く事に決定しているらしく、恩人は肩で風を切ってずんずんと歩いていく。
逃げたい。このまま知らない顔をして逃げ去りたい。
いやでも怖い。それは何か怖い。このケツ顎……いや、恩人を怒らせてはいけない気がする。何となく。
ちょー面倒くせー、と心中で呟きつつ、莉功は恩人の後を追った。
「アタシは宮子ってんだ。アンタは?」
「えーと……。橘、です」
「ヤダ下の名前は教えてくれないのかい? アタシとアンタの仲じゃないかい」
「……あー…………。莉功、と、いいます」
「さっきから緊張してんのかい? カワイイ坊やだねえ」
怖いよう。
とか何とか怯えているうちに店についた。
『倶楽部・
でかでかと掲げられた煌めかしい看板に、莉功は眩暈がする思いだった。
やはり内装も煌めかしく、そのくせ照明は妙に艶かしく薄暗く、何か、何だ。帰りたい。
席に案内され、莉功は縮こまって座った。宮子はそれじゃあ、と声をかけて奥に去って行く。
よっ女将!
宮子はあちこちから上がる歓声に手を振って応えている。人気者であるらしい。
何故こうなった。
莉功は膝の間に頭を落とす勢いで、どんよりと俯いた。
「お待たせ致しました。あら、初めて見るお顔ですわね」
やだよう、裏声気持ち悪いよう。
莉功の隣にオカマ……お姉さん(仮)が腰を下ろした。莉功はゆっくりと顔を上げて、
「初めまして、呉子と申します」
固まった。
そりゃもう固まった。
「………………………………………何やってんの、紫呉くんや」
どうにかこうにか、それだけ言った。