火炎の淵 9
莉功はぐったりと
「莉功殿? どうしました? 浮かない顔をしていますね。昨夜は瑞々しい良い茄子の出てくる淫夢でも見ましたか?」
黙れ全力バカ。
もう突っ込むのも面倒だ。心底帰りたい。
向こうではすお郎さんと荒くれ達が口論の真っ只中だ。音でびびらせる作戦なのか、荒くれはやたらと辺りの長椅子やら机の脚やらを蹴飛ばしている。
だがすお郎さんはそれしきでびびるタマではない。少しも引かず応戦していた。むしろその口汚さに莉功が引いた。
「ふざけんじゃねえぞ!」
いい加減ぶち切れたのか、荒くれが側にあった酒瓶を引っ掴み、机に叩きつけた。派手な音がして、きゃあと野太い悲鳴が上がる。
酒瓶の破片がこちらまで飛んでくる。鋭利な硝子を視界に見とめたものの、莉功は咄嗟に動けなかった。
あー、当たるかなー、とぼんやり考える。呉子さんも避けろよ当たるよ。
しかし破片はこちらに届く前に地面に叩きつけられた。虎子りんが蹴り落としたのだ。
「……もう怒ったぞ〜」
裏声で言いながら虎子りんは眼鏡を外した。しかし近くで見たらより一層きもい。化粧濃いな。
虎子りんは眼鏡を投げ捨て、荒くれにびしりと指を突きつける。
「悪い淫獣は許さなぁい! トラッキーナの刈りの時間だにゅ!」
荒くれはぽかんとしていた。まさしく「え」って顔をしていた。気持ちはすごくよく分かる。
虎子りん……いや、トラッキーナ? え、何どういう事。まあ良い。影虎(仮)は胸元に手を突っ込み、取り出した何かを荒くれに投げつけた。
「な、何しやがる! 何のつもりだ!!」
「細かく千切って甘辛く煮付けておかずの一品にするつもりだにゅ!」
「そんなつもりで!?」
投げつけられたにせちちの中身(こんにゃく)を手に取り、荒くれが叫ぶ。
荒くれが苛立ちに任せてぶん投げたこんにゃく(丸い。何かに包まれている)は莉功にぶつかり、ぼるんと跳ねた。
「……トラッキーナって何」
荒くれを締め上げるトラッキーナをぼんやり眺め、莉功は呟く。
「説明しましょう。トラッキーナとは虎子りんのもう一つの人格で、眼鏡を外すと表に現れるのです。悪い淫獣を見ると辛抱たまらなくなって、悪い淫獣の股間のタンポポを刈る為に現れるのですよ」
「……何でタンポポ?」
「種が遠くまで飛ぶでしょう。タンポポだけに」
「最低だよ」
もうやだこいつら。
「ところでお怪我は?」
「ねえですよ……」
虎子りんだかトラッキーナだかが護ってくれたおかげだ。まあ護ったのは莉功ではなく呉子さんなのだろうが。
「ならば結構」
と、呉子さんは立ち上がった。楚々とした足取りですお郎さんの元に向かい、すお郎さんの手をそっと取る。
「怪我をしていらっしゃいますわ」
先程の酒瓶の破片が当たったのだろう。すお郎さんの手の甲には血が滲んでいた。
「……ヘッ、これしきよォ、アンタが旦那から受けた傷に比べりゃ屁でもねェさ」
すお郎さんは呉子さんの手を柔らかく除け、渋みを含んだ笑みを浮かべる。役者だな。
「何だてめえは」
散々トラッキーナに小突き回された荒くれが、呉子さんにガンを飛ばす。
呉子さんは弱々しく胸元に手を添えて、哀願するように荒くれを見上げた。お前さんも役者だな。
「もう乱暴はおやめくださいませ。わたくしに出来ることなら何だって致しますわ。ヤギの物真似だって致しますわ」
「何でヤギの物真似で許されると思うんだよ! 苛立ちしか生みださねえよ!」
「んだとコラ、あん!?」
すお郎さんが色めき立って荒くれに掴みかかる。
「呉子さんヤギの物真似めちゃくちゃうめぇぞ!? 鹿の物真似だってめちゃくちゃうめえぞコノヤロー」
「いえ、鹿はあまり自信が……」
「鹿はあんまり自信がねェそうだよコノヤロー」
「ひどくどうでも良いよ!」
ほんとにな。
「てめえらよくもコケにしやがって……」
わなわなと荒くれが拳を振るわせる。気持ちは本当に良く分かるが、台詞がいちいち小物くさい。
「畜生、覚えていやがれ!!」
出口を目指して荒くれの
何というか、小物大将とでも名付けたい気分だ。小物なのに大将とはこれいかに、……って別に上手くねえよ俺。
「やだぁ、虎子りん怖かったぁー」
眼鏡をかけ直した虎子りんが身をくねらせる。俺はお前のノリノリっぷりが怖い。
すお郎さんが手の甲の治療をしている横で、呉子さんはすお郎さんに望まれてヤギの物真似を披露していた。上手いのが腹立つ。
それはそれはもう大きな溜息をついて、莉功は長椅子にさらにぐったり沈みこんだ。
拝啓、十九の弟へ。
炎熱のみぎり、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は大変お世話になっております。
さて、兄さんは、お前が次男殿を嫌う理由が少しだけ分かったような気がします。
こいつらマジうぜえ。