火炎の淵 6
夏の愛染街は、常にも増して色濃く脂粉の香りが漂うようである。人いきれと欲の奔流に、紫呉は息苦しさを覚えた。
店先の紅提灯に、常夜灯の中を舞う蝶灯。それらの光を反射した川の流れが怪しく揺らめく。
川べりの柳を揺らす風は生臭さを孕んでいるようで、べたりとまとわりつくそれが不快だった。
甲高い客引きの声も、酔漢の赤ら顔も、手指に絡む袖引きの湿った肌も、どれもが癇に障った。暑さとはこうも人を尖らせるものかと、紫呉は己の狭量に辟易した。
橋付近の混雑を抜ければ、少しばかり人の流れはマシになる。ほうと息を吐いて、紫呉は目的地へと足を向けた。
目指す透蜜園のある通りは、ここよりもずっと閑寂だ。そのくせにどこよりも猥雑で卑猥な空気を漂わせているのだから、不思議なものである。
角を曲がる。ふいに視界に飛び込んできた色彩に、紫呉は思わず足を止めた。
小路の奥の暗がりの、白茶けた地面に広がる黒い髪。白の薄物。それに散らばる紅の血痕。白い肌にも色とりどりの痣が覗く。まるで打ち上げられた鯉のようだと、呑気な感想を抱いた。
街娼が悪い客でも引いたか。それともどこかの店の娼妓が逃げ出したか。
見て見ぬフリをするのが得策だが、さてどうするかと首を捻っていると、件の人物が目を開けた。
見覚えのある緑色だ。だが思う人物ならばこんなドジは踏むまいと
だが、その緑色の目が紫呉を見るなり何とも嫌そうに歪んだので、やはり思う人物なのだと頷いた。
紫呉は側にしゃがみ込み、顔を覗きこんだ。
「何をしているんですか、浅葱」
浅葱は何か言いたそうに唇を動かした。しかし言葉を紡ぐに至らず、舌打ちだけを残して浅葱は意識を手離した。
ざっと見る限り、致命傷には至っていない。だがここに放っておくわけにもいくまい。それにそもそも、浅葱に会いに自分は透蜜園へ向かっていたのだ。
紫呉は浅葱の肩に腕を回し、助け起こした。確かここの近くに連れ込み宿が有ったはずだ。
とりあえずはそこで応急処置だ。
浅葱の怪我は、ほぼ打撲傷だった。そうひどいものではないが、しばらくは安静にしていた方が良いだろう。
そこらで適当に買った安物の薄物に着せ替え、汚れた薄物は丸めて浅葱の枕元に置いておく。ひとまずはこれで安心だ。
かかった薬代やら着物代やら宿代やらは、後で請求する事にしよう。……到底払ってもらえるとは思えないが。
薬を買うと共に買ってきた夢水(冷やした水に果汁で香りをつけたもの。夏場は夏蜜柑が主流)で喉を潤し、毛羽立った畳に腰を落ち着ける。
安堵を感じてようやく、己が焦燥だの恐怖だの心配だのを抱いていたのだと実感した。薄い壁ごしに聞こえる嬌声に覚える苛立ちに、人心を見出すなんて我ながら馬鹿げている。
浅葱の眉は苦しげに顰められていた。怪我の痛みと、打撲による発熱もあるのかもしれない。
浮かぶ汗を濡らした巾で拭い、額に置いてやる。そうすると少しばかり楽になったようで、眉間の皺が薄まった。
やがて薄い瞼が持ち上げられ、ゆっくりと目が開かれた。浅葱は緑の瞳に紫呉の姿を映すなり、どうしようもなく嫌そうに眉を顰めた。
「……あんたが助けたの?」
「はい」
「何で?」
「何故、ですか。浅葱に会いに行く途中で、怪我をしているあなた自身を見つけたもので、思わず」
「……何でぼくだって分かるんだよ。ぼくの変装が下手みたいで腹立つなあ……」
疲れた声で言う。浅葱はごろりと寝返りを打って背を向けた。
浅葱と接するようになってさほど年月は経ていないが、紫呉は一度たりとも同じ姿をした浅葱を見た例が無い。生業に起因しているのだろう。
浅葱は愛染街三指の娼館の一つ、透蜜園の商品である。『色』と呼ばれる存在だ。
透蜜園の売り物は二つ。『華』と呼ばれる、芸と春を売り物にする者。『色』と呼ばれる、情報を売り物にする者。この二つである。
浅葱が同じ格好をしないのは、愛染街を泳ぎ回り、情報を得る為なのだろう。性別や年恰好を覚えられずいた方が、より深くまで潜れるから。
「で?」
「で、とは?」
「何が目的? 意味も無く親切にされても気味悪いだけだよ。ぼくに恩を売って、それでどうしたいわけ?」
「それだけ話せるなら僕も一安心です。しばらくは痛むでしょうが、きっと治りも早いでしょう」
「ちょっと、聞いてんの?」
「よろしければ痛み止めも差し上げますよ。馬鹿みたいに苦いですけど、効能は保証します」
「聞きなよ、腹立つんだけど。何なんだよ」
「親切を無下に扱われて、少しばかり腹が立ったもので」
浅葱は肩越しにこちらをちらりと見やった。物言いたげな目つきをしている。
「…………別に、助けてくれなんて頼んじゃいないよ」
「そうですね。僕が勝手にした事です」
「恩着せがましいんだよ。ほっときゃ良いだろ」
「浅葱でなければ捨て置いていましたよ」
被害者のフリをした加害者なんて、愛染街には多々いるのだ。手を差し伸べたはずが、最終的には見ぐるみを剥がされたという話はザラである。
「……ほんっと、恩着せがましい……」
浅葱は憎々しげに呟いた。視線を戻し、薄い布団に丸まる。
「それはそうとして、その怪我はどうしたんですか? 何が有ったんです?」
「タダでぼくから情報買う気? 教えてほしけりゃ出すもん出しなよ」
「……本当に、ご無事そうで何よりですよ」
金貨を数枚浅葱の枕元に滑らせる。浅葱はそれを握ると、ようやくこちらを向いた。
「別に大した話じゃないさ。知り合いの店で小遣い稼ぎがてら用心棒をしてたら、バカな連中に疎まれた。そしたら帰り際に袋叩きにあった。それだけ」
浅葱はごそごそと起き上がり、紫呉の手元から夢水を取った。口に含むと、口中の傷に沁みたのか目を瞑って低く唸る。
「で、そもそもは何の用だったのさ。ぼくに何か聞きにきたんだろ?」
紫呉は軽く握った拳を顎にあてがい考える。
もしかしたら、浅葱に暴力を振るった連中と、影虎からの報告にあった連中は、一つの線上に在るかもしれない。
店に現れるならず者達からすれば、用心棒の存在は疎ましいだけだ。排除したいと考えるのも頷ける。
「最近、馬鹿げたならず者達が幅を利かせているそうですね」
「ああ、その話?」
「何か詳しい話を知っていたら教えて頂きたいのですが」
「だったら、ぼくが用心棒してた店紹介してあげるよ。バカ達けっこうしょっちゅう来るよ。ぼくもこんなで用心棒も手が足りない。店もちょうど良いだろうさ」
どう? と浅葱は大きな目を猫のように細めた。
「そっちも悪い話じゃないだろ。ぼくに恩も売れる、生の現場も見れる。何だって生の方が具合は良いだろ?」
「
だが、確かに悪い話ではない。紫呉の心が是に傾いたのを見てか、浅葱はニと笑って手の平を見せた。
「仲介料。当たり前だろ?」
「……まあ、こうくると思っていましたよ」
数枚金貨を握らせ、ついでに痛み止めも渡しておく。……苦いだなどと忠告してやらなければ良かった。少しばかりの意地悪を以てしてそう思う。
「まいどあり。今後もご贔屓に」
「こちらこそ」
ついでのついでだ。膏薬も手渡しておく。めちゃくちゃに沁みるとは、黙ったままで。
ふいに視線を転じた浅葱は、最初に着ていた薄物が汚れているのを目にして浮かない顔をした。
「ところで浅葱」
「何」
汚れた薄物を広げる浅葱から、紫呉はツイと目を逸らした。
「……下着は付けた方が良いのでは」
「やだよ、嫌いだもん。締め付け感が嫌い」
くるくると薄物を丸め、浅葱は事も無げにのたまった。
「…………このド変態が」
思わず悪態が漏れた。浅葱はけらけらと笑っている。
**************************************************