火炎の淵 17
槙の身体をざっと検分する。かっと見開かれた目は苦悶の色を浮かべたままだ。紫呉は瞼を下ろしてやった。
もしかしたら今頃、浩志と昭夫は仲間の下に駆け込んでいるのかもしれない。手勢を連れて、またここにやってくるつもりかもしれない。
そうなると諍いは避けられない。派手な争い事は避けたいが、仕方がない。槙を放置するわけにはいかない。
それに諍いを聞きつけて、私服で巡回中の壱班がこちらにやってきてくれるかもしれない。その際に、槙の身を壱班に預ければ良いだろう。
その案に納得しかけた紫呉だが、すぐに穴に気がついた。これは浩志と昭夫が舞い戻ってくるのが前提の仮説だ。二人はただ逃げただけで、戻ってくるつもりはないのかもしれない。
結局、途方にくれるしかない。片膝をついていた紫呉は、そのまま座り込んでしまいたい気分だった。
いつの間にやら月は色づき始め、夜は色を濃くしている。
いっそどこかに槙を隠しておくか。その間に、誰かしらと接触を図ろうか。もうしばらくすれば、隠すのに適した月明かりも届かぬ暗闇も生まれるだろう。
「……おやおやまあまあ」
ざ、と砂をかく足音に顔をあげる。
「あ、だいじょぶ。さっきの二人は部下に追わせました」
「莉功殿……」
「いわゆる一つの潜入調査中です」
紫呉が問う前に莉功は答えた。
唐突に現れた見知った顔を、紫呉は呆然と眺めていた。
ああ、そうか。この地域の規制を強化する事になっていたのだった。莉功は嫌がっていたが、結局は担当になったのか。
だらしない足取りで莉功はこちらにやってくる。着流し姿の彼は、周囲を見回して苦笑した。
「やだねえ、ここの奴らは。人が死んでるってのに見向きもしねえ」
「いつからここに?」
「ついさっき。あっちの方から、何かいざこざしてんのがちょっとばかし見えただけ」
あっちの方、と莉功は南を示す。
「なーんか、急性中毒って感じだな」
槙の側に膝をつき、莉功は言った。眼鏡の向こうの目つきは鋭く、流石は仮にも乾壱班の一部隊長だと思わせる。
「何かのヤクでもやってたかね。場所的にゃ阿片なんだろうが……。ま、早計かもしれんけど」
顎をさすりつつ、莉功はくまなく槙の身体に視線を走らせる。
冷静な莉功を見ていたら気分が落ち着いてきた。ほっと息を吐く。
「助けられましたよ……」
両膝に両の肘を乗せ、その間に紫呉はぐったりと頭を垂れた。
「部下にゃ壱班の連中つれてくるように言ってるから。そのうち誰かしらがこっちに着くっしょ。それまでは善良な一般人のフリだわな」
フリをするまでもなく、周囲は全くこちらを気に留めていない。痩せた男が少しばかり離れた場所で、壁に手をついて吐瀉しているのが見えた。
眼鏡を指先で押し上げてから、莉功はこちらを向いた。
「んで合流後は取調べ付き合ってくれよ。一応は参考人だし」
「非常に不本意ではありますが……。仕方ありません」
紫呉と槙の死は無関係である事は知っているとはいえ、莉功も壱班としては調書を取る必要がある。
ふと感じた事があり、紫呉は首を傾げた。
「莉功殿は、僕が殺したとは思わなかったのですか?」
「や、だってお前さんが殺るなら斬るっしょ」
「確かにそうですね」
信用があるのだか無いのだか。紫呉は僅かに苦笑を浮かべる。
と、慌てたようなばたばたとした足音が聞こえてきて、二人は揃って顔を上げた。
駆け寄ってきた青年は莉功を見とめるなり呼びかけようとしたのだが、すぐに口を閉じた。部隊長、と呼びかけたのだろう。
「すみません……っ、二人を、見失ってしまいまして……」
息を切らして報告する彼に、莉功はにべもなく言った。
「ふーん。見つけるまで戻ってこなくて良いよ」
ほれ行った行った、と追いやるように手をひらひらさせる。敬礼を取りかけた青年だが、やはり途中で潜入調査中だという事に思い至ったのかそれも取りやめ、軽く一礼してから踵を返した。
「ま、壱班の皆さんがくるまで取り調べごっこでもしよっか」
さて、と言葉を切って、莉功は紫呉に向きなおる。
「被害者との関係は?」
「……用心棒と、それに撃退された者、の、関係? ですかね?」
いざ槙と己の関係を聞かれるとどう答えたものか。胡乱な紫呉の返答に、莉功はぽんと手を打った。
「ああ、何か見た顔だと思ったら。あん時の小物大将か」
納得なっとく、と莉功は頷いている。
「あー、だから喧嘩売られてたんだ?」
「はい。わざわざ情報屋まで雇って、僕を誘き出してくださいました」
「ま、お前さんらを恨みたい気持ちは分からんでもないよ」
莉功はどこか疲れたような顔で、苦い笑みを漏らす。
「じゃあ次。被害者の死亡時の詳細は?」
「呼吸が困難な様子でした。泡を吹いて、痙攣して……」
莉功は一つ頷き、むうと唸った。
「やっぱ何かのヤクの急性中毒かね。それか何か持病が有って急な発作」
もしくは、と言葉を切ってから莉功は言った。
「何かの毒か」
「毒」
低い声で紫呉は繰り返す。