火炎の淵 16
やがて朱窟にたどり着いた。明らかな阿片中毒者が周囲をうろうろしていて、実に物騒な雰囲気をかもしている。店の前の朱色の花の愛らしさが、より一層物騒さに拍車をかけるようだった。
朱窟の脇の細い通りから馴染んだ声が聞こえてきて、紫呉はそちらに視線をやった。
浅葱の姿があった。薄汚れたなりをして、男物の薄物をだらしなく着付けている。今日は鬘はかぶらず、化粧もほどこしていない。
「だから、そんなにすぐは来ないって最初に言ったじゃん」
壁際に立つ浅葱の周囲には三人の男の姿。宮子の店に押し入ってきた輩たちだった。
「っつったって、もう何日経つと思ってやがる!」
「だからさあ、ぼくは最初に言ったって言ってるだろ? そんなにすぐは来ない。もしかしたら来ないかもしれない。それでも良いって言ったのはあんたたちじゃないか」
壁際に追い込まれているらしい浅葱だが、窺える態度はいつもの浅葱らしく不遜であった。
浅葱は宮子の店で用心棒をしていた。その際にバカな連中に袋叩きにあった、と言っていた。
となると、浅葱に乱暴を働いたのは槙たちという事になる。が、槙たちは気付いているのかいないのか。
浅葱自身は、その事に関しては特に気にかけている様子は無かった。常の通りの生意気な態度で、男達と対峙している。
歯噛みして唸る男達――槙と浩志と昭夫だったか――をよそに、浅葱は呆れたと言いたげに、頭部を壁に預けるようにして仰向いた。
そのまま首をぐるんと巡らした浅葱と、目が合った。
一瞬だけ目を瞠った浅葱だが、すぐに猫のように目を細めて笑った。
浅葱の様子に気付いた男たちが、一斉にこちらを見る。
あ、と声を上げた男たちの顔に凶悪な喜色が広がるのを見て、紫呉は悟った。
誘き出されたのだ。紫呉が浅葱に会いにくるであろう事を見越して、浅葱は紫呉の居所を(来訪を、か?)売ったのだ。
「ようやく会えたぜ。呉子さんじゃあねえですか」
「……覚えていてくださいましたのね。嬉しゅうございますわ」
裏声を作って、紫呉は三人を見やった。
にやにやと笑いながら、三人はこちらに寄ってくる。
正直な感想は『よく分かるな』だった。あの時は化粧もしていたし、まず出で立ちからして今の姿とは全く違う。
浅葱の方を見れば、浅葱は路地の奥へと走り去っていくところだった。
振り返ったその顔には笑みを浮かべていた。浅葱は全く悪いと思っていない笑顔で、唇だけでごめんねと呟いた。
裏切られた、という思いが湧き上がる。
浅葱は『色』だ。情報を糧に生きる浅葱はただ商売をしただけだ。そう分かってはいるものの、やはり腹は立つ。
いや。浅葱に対してというよりも、己の甘さにほとほと呆れてしまう。
何となく嫌な予感はしていたのだ。紫呉に用があるならば呼び出さずとも、透蜜園で待つなりすれば良いだけなのだから。
槙たちはばきぼきと固めた拳の骨を鳴らして、分かりやすい物騒さを演出していた。尖った気分そのままに、紫呉は三人を睨み上げる。
「それで、いったい何が目的です。ただの憂さ晴らしですか?」
いちいち裏声を作って話すのも面倒だ。紫呉は常の声音で問うた。
紫呉の尖った視線と硬い声音に、一瞬槙は怯んだ様子だった。だがすぐに立ち直し、咳払いを一つしてから続ける。
「分かってるなら話は早ぇじゃねえか、呉子さんよ」
恥をかかせてくれやがって。
がなって胸倉に手を伸ばしてきた槙の腕を、紫呉は軽く払った。
「それはそれは。わざわざご苦労さまです」
確かに、恨まれるだけの事はした気がする。だがわざわざ情報屋を雇ってまで紫呉を呼び出すだなんて、手間が込んでいる。
莉功が偶然店にやってきたあの晩以外も、紫呉たちは店に入っていた。槙たちも数回訪れた。その度にあれやこれやと手を使って追い払ってきた。
……確かに、まあ、恨まれるだけの事は色々とした気がする。
憤怒に顔を赤く染め、口角から泡を散らしながら槙は拳を振りかぶった。すいと避けて、紫呉は槙の膝頭を足裏で蹴り飛ばす。
濁った悲鳴をあげ、槙はうつ伏せに倒れた。折れてはいないだろうが、しばらくは使い物にならないだろう。
槙は膝を抱えるようにして身もだえている。周囲は一分の興味も示さない。こちらを見る事もなく、歩み進んでいく。
「僕は今、機嫌が悪いです」
倒れた槙の側頭部を踏みつけ、紫呉は言った。そのまま浩志と昭夫を見やれば図らずも威嚇代わりになったようで、二人は息を呑んで後ずさる。
「……そうですわね。草履の裏でも舐めて頂けるなら、許して差し上げてもよろしいですわ」
言いながら紫呉は首を捻った。
違うな、呉子さんはこういう感じじゃない。もっと、こう、何だ。清楚で幸薄げで、でも何となく色っぽい感じだ。多分。
まあそんな事はどうだって良いのだ。
「先程の者から、僕のどんな情報を買ったのですか?」
ぐっと体重をかけると、槙は脚を除けようとして呻きながら手を伸ばしてきた。紫呉は一度脚を除け、その手を蹴りつける。
今度は手を庇ってのたうつ槙だ。紫呉は再度、頭部を踏んで動きを封じた。
「早く答えないとこのまま砕きますよ」
もちろんそんなつもりは無い。ただの脅しだ。槙たちが買った情報に興味が有った。ひいては、浅葱が売った情報に。
それはつまり、浅葱が己の事をどこまで知っているかという事でもある。浅葱に出自身分は明かしていないが、浅葱は腕利きの情報屋だ。もしや、という思いもある。
「そこの二人でも結構」
浩志と昭夫は二間ほど距離を取り、こちらを窺っている。睥睨すれば怯えた表情ながらも口を開いた。
「お、お前の名前を聞いて、ここに呼び出させた。それだけだ」
じりじりと後ずさりつつも、昭夫はどこか勝ち誇ったような顔をしていた。
「それを聞いてどうする。なあ、乾壱班の紫呉翔太さんよ」
昭夫はこちらに指をつきつけ哄笑する。
「お堅い壱班のお方があんな場末でカマたあ笑えるな! な、言いふらしてやろうか? な? 世間サマはさぞ嗤ってくださるだろうさ!」
「どうぞお好きに」
大口を開けてあざ笑っていた昭夫が、口を開けたまま固まった。脅そうと思っていたのだろう。あてが外れて申し訳ないが、吹聴されようとも、どうでも良かった。
むしろ都合が良いとも言える。愛染街に住まう後ろ暗い者は、壱班の潜入調査と捉えるだろう。ナリを潜められては掴みづらくも有るが、大人しくしていてくれるならそれも良しだ。
それよりも紫呉は、先程の昭夫の言い分に心中頷いていた。
なるほど。浅葱は、紫呉が乾壱班の紫呉翔太であるという事までは知っているのか。
良い腕だ。次に会った時は、存分に賛辞を奉じるとしよう。
昭夫を盾にするようにして及び腰になっていた浩志が、ふいにびくりと大きく肩を跳ね上げた。
ぶるぶると震える指でこちらを示す。――いや、槙を指し示している。
それに促がされるように視線を足元に転じれば、槙は泡を吹きながら痙攣していた。
様子がおかしい。紫呉は脚を除けて槙の側に屈んだ。
赤い眼球は飛び出し、舌を突き出すようにして槙は喘いでいる。呼吸がうまくできていない。
処置を、と思ったが遅かった。槙は生命活動を停止した。痙攣する手をとり脈を計るが、命の脈動は感じられない。
「殺しやがった……」
わななきながら、昭夫が言った。
馬鹿を言うなと思ったが、二人は転がるようにして走り去って行く。
追うべきなのかもしれない。が、このまま槙を放置するわけにもいかない。
困った。どうするべきだろうか。とりあえずは、壱班に連絡をつけるべきだろうか。
だが壱班に連絡をつけるにしても、一度はこの場を離れる必要がある。槙の遺骸を放置していっても良いものだろうか。
それとも、槙を背負って行くか? いや、人目につきすぎる。いくら他人に興味を示さない愛染街とはいえ、流石に死体を負ぶっていれば気にかけるだろう。朱窟付近の人間たちが異常なのだ。槙が死亡した今も、先程と同じように無関心なままだ。
自分が下手人ではないのだし、槙の死亡は不慮の事故だ。負って壱班まで連れていくこと自体は構わない。だが目立った末に、周囲に顔を覚えられるのは不味い。
さて、どうしようか。
紫呉は途方に暮れる思いだった。