瑠璃の昼行灯 零 15
教師の声が耳を通りすぎていく。声は聞こえているのだが、何一つ頭には入ってこなかった。右から左へと、薬草学の講釈が流れていく。
紗雪は文机に肘をつき、ぼんやりと教本の文字を追った。
今日の授業はこのコマで最後だ。朝からずっと、この調子だった。
先日、母に叱られた。何故私塾に行かなかったのか。いったいどういう了見だ、と。
教師から家に連絡が行ったのだろう。忘れていた。自分は他ならぬ青官長の娘なのだ、という事を。
その青官長の娘が、無断で私塾を休んだとなっては、身を預かる教師としても黙っているわけにはいかなかったのだろう。
母にはぐちぐちと文句を零されたが、しかし教師からは何のお咎めも無かった。すみません、と頭を下げると、君にも色々有るんだろう、と笑って許された。
(青官長のご息女様だものね……)
あまりご機嫌を損ねてはいけない、との判断か。
現に今、こうしてぼんやりとしていても、彼は咎めない。先程からちらちらと視線を投げかけているから、紗雪が聞いていない事には気づいているのだろう。
他の生徒も、こちらを見ている。そして教師を見る。何も言わない教師を見て、もう一度こちらを見て、鼻を鳴らす。
面白くないのだろうな、と人事のように紗雪は思った。
普段、身の入らぬ生徒には、教師はきちんと注意する。
だが、紗雪にはしない。そりゃあ面白くないだろう。
他の生徒がそう感じるだろう、と紗雪は分かっていたから、今まで真面目に私塾に通っていた。真面目に授業を受けていた。
そして結果を出してきた。
そうするとまた、流石は青官長のご息女だな、と褒められた。嬉しくも何とも無かった。
「……分かりません」
話を聞き流していた紗雪だが、悔しげなその声は耳に残った。
例の、告白騒動の男だ。
今日もまた派手な袷に身を包み、大きな体を小さく丸めている。
「そうか、じゃあ他の者に……」
ふと、彼と目が合った。意地悪げに口が歪められた。
「先生。坂崎さんなら分かるんじゃあないですかね?」
にたにたと野卑た笑みを浮かべる。聞いてなかったお前が悪いと言いたげだ。
教師は困惑していた。
ここで紗雪に恥をかかせてはまずいという思いと、他の生徒の手前も有る、という二つに板ばさみになっているのだろう。
紗雪は一つため息をついて、黒板を見た。話の内容は聞き流していたが、全く聞いていなかったわけでは無い。
「先生、それらの薬草の効能でよろしいでしょうか?」
「あ、ああ……」
「山椒の効能は殺菌、抗菌、回虫駆除など。桔梗は気道粘膜の粘液を分泌させるため喉の炎症に効果的です。また、水虫にも効果があります。葛の葉は胃腸、貧血、便秘を助け、根は葛根湯の主原料となります。葛根湯は麻黄・生姜・大棗・桂皮・芍薬・甘草を煎じた漢方薬で、悪寒、口の渇き、熱、肩こり、下痢、嘔吐などに効能が有ります」
しん、と教室に沈黙が落ちた。紗雪の声ばかりが響く。
「麻黄は咳を治め、去痰剤となり、生姜は健胃剤、発汗剤に。大棗は強壮剤として用います。桂皮もまた健胃剤として用いられ、また香辛料として調理に使われる事もあります。芍薬の根は鎮痛に。甘草も同じく鎮痛に、それから、鎮咳剤としても使われます」
見開かれていた男の目が、悔しげに細められた。
「きょ、教本をそのまま読んで……」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。
紗雪の文机に開けられた教本は、教師が示す頁とは別の頁が開けられていた。
ち、と大きく舌を打つ。頬が朱に染まっていた。
「あ、ありがとう坂崎君。その通りだ」
では続ける、と教師は咳払いをして、教本を捲った。
視線を感じた。男がこちらを睨んでいる。
怨まれる筋合いは無い。全て自分の勉強不足が招いた事だ。
睨まれても怖くなかった。昨日の、紫呉の視線の鋭さに比べれば。
大きく息を吐き、紗雪は両肘をついて俯いた。
すごいね、と隣の席の少女が小声で賞賛をくれる。苦笑しつつ礼を述べた。
すごくなんか無い。紗雪はただ、教本をそのまま覚えただけだ。
教えてほしいのはこんな事ではない。教本に答えのある事項では無い。
考えても考えても、答えは出なかった。
何故昨日、少年は離れろと言ったのか。
何故紫呉は怒っていたのか。
答えは教本のどこにも書いていない。
誰か教えて欲しい。答えが欲しい。
(もう嫌……)
考えたくない。
全て納得できる答えを、誰かに教えて欲しかった。
もうこのまま、何も見なかった事にしてしまいたい。
自分は悠一には出会っていない。
庵にも行っていない。影虎にも遭っていない。口止めもされていない。
自分は何も知らない。そういう事にしてしまいたかった。
このままいつもと同じように私塾に通って、試験を受けて、受かって官吏になって、黒官になって黒器を造って。
そして良い相手を見つけて『姫計画』を成し遂げるのだ。
(……無理、ね)
知らないフリはできない。
表面上は取り繕えたとしても、この先自分は後悔するに決まっている。
もし自分が何もせず、悠一が消えてしまったとしたら。弐班の面々が消えてしまったとしたら。
きっと自分は後悔する。
いや、『きっと』じゃない。『絶対』だ。
だって知ってしまった。
知らずにいれたらと思うが、知ってしまったのだ。もう戻れない。
自分に答えを与えられるのは、紗雪自身だけだ。
何もせずに、後悔はしたくない。
西日が障子越しに差し込んでくる。それを見やり、教師は教本を閉じた。
「よし。じゃあ今日はここまでにしよう」
言い終わるのを待たず、紗雪は広げた教本を鞄に詰めた。
足音も荒く、私塾を飛び出す。教師は唖然としていたが、気にしていられない。
乾弐班の屯所へ向かう。
誰がいるか分からない。紫呉がいてくれたら、と思う。
昨日できなかった話をするのだ。そして、昨日の理由も聞くのだ。
背に浴びる西日が暑い。長く影が伸びる。それを踏んで紗雪は足を踏み出した。
怖い。確かめるのは怖い。そして不安だ。
だが、確かめずにいるのも怖いし不安だ。
どうせ同じ不安ならば、知っておきたい。
このまま、真綿のようなぼんやりとした不安に絞め殺されるのは勘弁だ。
息切れを感じた。
紗雪は足を止め、呼吸を整える。壁に手をついて、何度か深呼吸を繰り返した。
巾で汗を拭い、乱れた髪を手櫛で整える。
意を決するように、もう一度大きく息を吐き出した。
日が暮れる。白月が昇り始めた。空の端には残照。
屯所の門戸をくぐる。黒豆が庭で鳩を追いかけていた。
紗雪は庭を突っ切り、縁側へと向かった。
縁側の沓脱ぎへと続く飛び石を踏んで歩く。
(……どうしよう)
紫呉がいた。
だが彼は縁側で眠っている。
柱に背を預け、片膝を抱え込むようにして眠っていた。腕を通さずに、肩には羽織をかけていた。
閉ざされた障子戸の隙間から、彼の私室がちらりと見えた。あちらこちらに紙が散らばっている。手紙だろうか。
(起こしちゃって良いのかしら……)
ぴくりとも紫呉は動かない。
黄昏時の灯を受けて、彼の髪が複雑な色に染まっていた。
そっと、紗雪は足を踏み出した。
肩を叩こうと、ゆっくり手を伸ばす。
その手を掴まれ、紗雪は息を呑んだ。
ぎりりと指が手首に食い込む。
手を引かれる。
体勢を崩し、縁側に紗雪はしたたかに膝を打ち付けた。
目の前には黒の双眸。獰猛な光。
もう片方の手には、
それが、己の首筋に突きつけられている。
「……紗雪……?」
紫呉の目が大きく見開かれた。
手首を掴む力が弱まる。
紗雪はその場に崩れた。
カラン、と音がした。紫呉が小刀を取り落とした音だった。それはくるくると、床に舞っている。
やがて、ぴたりと動きを止めた。
「あ……。すみま、せん……」
呆然とした紫呉の指が、紗雪の首に伸ばされる。
痛みが走った。
「すみません……」
紗雪の首から紫呉は手を離す。その指先が血で濡れていた。
紗雪は、自身の首筋に指を触れさせた。
ぬるりとした感触。
指先を確かめると、赤く染まっていた。
血だ。
「嫌……っ」
紗雪の手首を掴む紫呉の手を振り払う。
小刀に血がついていた。
紗雪の血だ。
首を押さえる。
痛い。
掌が濡れた。
「嫌ぁ……っ!!」
紗雪は汚れた掌を袷で拭った。
「紗雪……っ。大丈夫です、落ち着いて」
腕を掴まれる。
「……っ離して!」
振り払う。
体が震えていた。
寒い。いや、暑い。分からない。汗が流れた。
紫呉は呆然と目を見開いている。
己の掌、小刀、そして紗雪を見やって、ぐしゃりと顔を歪めた。
「……すみません……。すぐに手当てを
不自然に語尾が切れる。
紫呉は動きを止めた。
じっと息を潜めたまま、視線だけを庭に流す。
その目が鋭く細められた。
紗雪は首を傾げる。
その紗雪の眼前に、何かが降ってきた。
「え、何」
布だ。
紫呉が舌を打つ音が聞こえた。
頭から覆いかぶさる様にして降ってきた布をどける。紫呉の羽織だ。
足音。
衣擦れの音。
鞘走りの音。
顔を上げた紗雪の目に、二つの影が映りこんだ。
「ぐぅ……っ……」
紫呉に口を押さえられ、少女は呻く。
その癖の強い茶色の髪には、見覚えが有った。
少女の震える手から、小刀が滑り落ちる。乾いた音を立てて転がった。
少女の腹から、何かが生えている。
柄だ。
(柄って何の)
背から刃が生えていた。
刃は赤く濡れている。
「ひ」
悲鳴が喉に張り付いた。
少女は己の腹を貫く刃に手を伸ばした。
紫呉は黒器を抜き、血を払う。
逆の手で少女の胸倉を掴み、少女を突き飛ばす。
どさ、と鈍い音を立てて、少女は庭に崩れた。
少女の口の端から血が流れていた。血走った目で紫呉を睨めつけている。
「狙いは何だ」
冷ややかな紫呉の声。
少女は答えない。いや、答えられないのか。
喉元で悲鳴が暴れている。
だが音にはならず、紗雪はただ、短い呼吸を繰り返した。
仰向けに転がる少女の腹。そこから、じわりじわりと染みが広がっていく。地面に血が広がる。赤黒い水溜りができた。
少女は荒い呼吸で、ただ紫呉を睨むばかりである。
その呼吸が、ふいに途切れた。
腹の傷に伸ばされていた手が、力無く落ちる。少女の体が断続的にびくりびくりと揺れている。
血は止まらない。
「……し、死んじゃった、の……?」
紫呉がこちらを向く。
「何で……? 何、どういう事なの……?」
紫呉は何も言わない。
体が震える。
歯の根が合わない。
「紗雪」
ふいに名を呼ばれ、紗雪は大きく肩を竦めた。
震える手を掴まれる。
息を呑んだ。
「誰にも何も言うな」
紫呉の視線は少女に注がれている。
少女は動かない。
紗雪の震えはとまらない。
異様に早い心音が、耳のすぐ側で聞こえる。こめかみが脈打っている。頭が痛い。
紗雪の手首を掴む紫呉の手は熱かった。
そりゃあそうだ。この厚い皮の下には、血が流れているのだから。
血が。
紗雪は無我夢中で手を振り払った。
「……人殺し…………っ!」
悪寒が体中を這い回る。
紗雪の全身をざわりざわりと舐め回していた。
紫呉は三日月のように目を細めた。
そして一言呟く。
――その通りです。