瑠璃の昼行灯 零 16
五
眠れない。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
(刀って、人の体貫通するのね……)
瞼裏に浮かんだ光景に、紗雪はぐっと歯を噛みしめた。
胃がキリキリと締め付けられる。
あの後、紗雪は夢中で走った。
怖かった。一刻も早く、あの場から離れたかった。紫呉から遠ざかりたかった。
不審がる女中や下男に構わず、部屋に飛び込んだ。食事も風呂も断って、頭から布団を被った。
眠ってしまおうと思った。眠って、朝になれば何かが変わると思った。何も変わらないと分かりながらも、そう願った。
だが眠れない。
寝返りをうち、ため息をつく。
何度も何度も繰り返した。
だが眠りはやってこない。苛立ちと不安ばかりが募る。
紗雪は身を起こした。
虫の音が聞こえる。女中が雨戸を閉めに来てから、もう随分と経つ。
(あの子、どうなったのかしら……)
彼女を見捨てて逃げてきてしまった。
自己嫌悪に眩暈がする。
だが仕方が無いではないか。あの場にいれば、自分もああなっていたのかもしれないのだから。
だって怖かった。怖くて何も考えられなかった。
紗雪は大きく息を吐く。言い訳を繰り返す自分に嫌悪を感じた。
紗雪は首筋を撫でた。ちり、と小さな痛みが走る。
傷口はもう固まっている。そもそもあまり深い傷ではない。
小刀を突きつけた紫呉の黒い双眸。
あれは、捕食者の目だった。
鋭い眼光に身動きを封じられた。
その目が、紗雪だと認識した途端に緩んだ。
もし、捕えた相手が自分では無かったならば、紫呉はあのまま刃を突き立てていたのだろうか。
いや、紗雪だとしても、害を加えようものなら刺されていただろう。
あの少女のように。
『黒官が武具を作っていることを不思議に思わないかい? 武具開発の金は民の税金だ。その金で、人を殺す道具の開発をしているんだ。おかしいだろう』
悠一の声が耳に蘇る。
人を 殺す 道具を。
紗雪は強く頭を振った。
強く握られた手首が痛む。そこにはくっきりと紫呉の指の跡が残っていた。
(でも何で……)
何故、少女はあの場にいたのか。
何故紫呉に斬りかかったのか。
(考えたくない……)
理由なんて何だって良い。考えたくなかった。
眠ろう。眠ってしまおう。眠って、朝になれば、解決している。そのはずだ。
目を瞑る。
不安が押し寄せる。
(彼女は、私を護ろうとしてくれたの?)
紗雪が紫呉に小刀を突きつけられて。
その後、彼女は紫呉に斬りかかった。
紗雪の護衛として彼女がずっとついていてくれたのだとしたら、その可能性は高い。
(その彼女を、私は置いてきてしまったの?)
吐き気がする。
紗雪は庭に飛び出した。
膝をついて口を押さえる。吐き気が喉元までせり上がってくる。だが何も出てこない。ただ嘔吐くばかりだ。
吐瀉物の代わりに、涙が零れた。
涙は池に吸い込まれ、水面を揺らす。餌と勘違いしたのか鯉がぱくぱくと口を開けている。
揺れる水面には、満月が映っていた。ゆらりゆらりと揺れて揺れて、やがて水面は穏やかさを取り戻した。
暗い水面には冴え冴えとした満月がある。その満月が雲に隠れた。厚い雲に覆われ、月影すら感じられない。
(やっぱり、乾弐班は破天って事なの……?)
違うと信じたい。
だが信じられない。
(悠一……)
会いたい。
抱えた膝に顔を埋める。閉じた瞼の裏に、悠一の笑顔が蘇る。
甘いながらも爽やかで、それでいて柔らかくも凛とした、雅やかでありながらも親しみの持てる、人懐っこい顔立ち。
自分の理想そのままの容貌。
『姫計画』遂行の為の、身分も申し分ない。
だがそんな事は関係無しに惹かれた。一目見て心奪われた。
外見と立場。
きっかけはそれだった。
だが、何度か話すうちに彼自身に惹かれていった。 優しくて紳士的で。
その優しさが万人に向けられているのでは無いのかと、頭を悩ませた。
誰にでもあんな風に甘い言葉を囁いて、雅な仕草で先導して。自分だけではないのだろうと、そう思いながらもやはり嬉しかった。
にこにこと柔らかな笑顔が崩れるところを見た。
彼の抱え込んだ悩みを、苦しさに顔を歪めて吐き出していた。
悠一は言ってくれた。
自分の抱えたものを紗雪になら分かってもらえると思った、と。
青官長の娘なら、分かってくれるんじゃないかと。
現金な話だが、この時ばかりは自分の父が青官長で良かったと思った。
だって、自分がただの十七歳の少女ならば、悠一は気にも留めなかっただろうから。
きっかけは何だって良い。
出会って、話して、側にいたいと思った。
もっと知りたいと思った。悠一もそう思ってくれていたら、と思う。
(……会いたい)
顔を上げる。満月はまだ雲の向こうだ。
(悠一は、無事なのかしら)
はたと、紗雪は思った。
悠一の『影』の少女は殺された。
悠一の居住まいも知れている。
不安が波のように押し寄せてくる。
紗雪は立ち上がった。
長靴を履いて、裏口から家を抜け出す。
必死で駆けた。夢中で交互に足を動かした。
(何でもっと速く走れないの)
すぐに乱れる呼吸。痛みを訴える脇腹。思い通りにならない自分の体に苛立ちを感じた。
色濃い不安が体中にまとわりつく。
動悸が激しい。
頭皮と頭蓋の隙間に氷を埋め込まれたような、そんな心地だ。
早く、早く悠一に会いたい。無事な姿を一目見たい。
だが俥を捉まえようにも、こんな夜中には走っていない。
(もっと早く気付いてれば……)
自分の荒い呼吸が耳につく。
辺りはしんと静まり、風と虫の音が響くばかりだ。
腿の筋肉が急な運動に引き攣る。
紗雪は足を止めた。
頭痛がする。
肺が痛み、ひどく咳き込んだ。涙が滲む。
上手く息が吸えない。呼吸の度にひゅう、と喉が音を立てた。
それでも足を前へ前へと動かした。駆けて、止まって、歩いて、駆けて。その繰り返しだった。
(お願い、無事でいて)
脳裏に少女の姿が蘇る。
少女の白い着物に広がった鮮血。力なく落ちた腕。
黄昏の庭に倒れ伏したその姿が、悠一の姿にすり替わる。
強く頭を振って、その光景を消し去った。
やがて、表通りが近づいてきた。
がらんとした通りは、昼間の喧騒を感じさせない。静寂が広がるばかりだ。
通りを駆け抜け、庵へと向かう。門戸を押し、玄関口へと向かった。
庵から少し離れた場所で、紗雪は足を止めた。
弓張提灯のぼぅやりとした灯りが周囲を照らす。
庵の周囲には人々が集まっていた。老若男女ざまざまだ。合わせて十名ほどか。見たことの無い顔ばかりだ。
その中に、黒髪を短く切った少女の姿を見つけ、ほっとした。たとえ敵意を抱かれていたとしても、知った顔がある事に安心を感じた。
悠一の姿もある。腕を組み、周りの声に耳を傾けている様子だ。
(良かった……)
怪我をしている様子は無い。ほっと胸を撫で下ろす。
だがいったい何があったというのか。
人々は紗雪に気がついていない。
声はこちらまで届かないが、彼らは皆神妙な顔をしていた。
近づき辛くまごついていると、ふと顔を上げた悠一と目が合った。
彼は大きく目を見開き、驚いた顔をしている。隣の青年と二言三言言葉を交わし、こちらにやってきた。
「どうしたの? こんな時間に……」
声音に困惑が感じられた。
「あ……ごめんなさい……。その、心配で……」
「心配?」
悠一が首を傾げる。紗雪は口ごもった。
『誰にも何も言うな』
紫呉の言葉を思い出す。途端、つかまれた手首の痛みが蘇った。
「え……っと……。悠一は無事か、確かめたくて……。それで……」
「ぼくが?」
「そう。悠一は」
『は』に特別な重みを置いて伝える。
悠一は紗雪が何を言わんとしているのか悟ったのか、眉根を寄せて頷いた。
「うん……。ぼくは、無事だよ」
と、笑みを浮かべた。ぽんと軽く肩を叩かれる。
「……ここには戻ってこないのかな?」
省かれた主語に首を傾げる。
だがすぐに意味を察し、紗雪は俯いた。少女はここには戻ってこない。
「うん……。二度と」
「そうか……」
悠一は拳を顎にあて、固い表情で何かを考えている。
「ちょっと待ってて」
踵を返し、悠一は一団へ戻る。何かを告げると、一団からざわりと声があがった。
そしてすぐにこちらに戻ってくる。
「誰がってのは……」
紗雪は首を振った。
「言えないか……」
紗雪の首筋の傷に視線が落とされる。
悠一の口振りからすると、少女の安否を彼らは知らなかったようだ。
ならば何故こんな夜中に集まっているのだろうか。
疑問が顔に出ていたのか、悠一は紗雪に向き直り、苦しげに眉を引き絞った。白い喉元がごくりと上下する。
「……兄が死んだようだ」
「え」
「確認は取れて無いけど、そう、知らせが入った。それで皆ここに集まってきている」
「嘘……」
嘘じゃない、と悠一は首を振る。
「兄は最期まで立派だったそうだよ」
語尾が震えた。
「……犯人の目星はだいたいついてる。まだ捕えてはいないけれど」
犯人。
つまりは、瑠璃の跡継ぎ様を殺した人間。
如月の人間は支暁殿で暮らす。
跡継ぎ様が死んだ(いや、殺された)となると、その支暁殿で殺されたという事だ。
つまり犯人は、赤官の厳重な警備を潜り抜け侵入したか、それとも。
(立ち入りを、元から許されているか)
まさか。
浮かんだ顔を、首を振って消す。
(でも……やっぱり……そういう事なの?)
悠一の住まう庵に侵入した影虎。
悠一の『影』の少女を殺した紫呉。
(違うって、思いたいけど……)
だが思えない。
思い返せば、紫呉は破天の男を捕えなかった。悠々館の前で、初めて悠一と出会った、あの直後の時の事だ。
私服での過度の武力行使は褒められたものではない、と紫呉は言っていたが、すぐ側に壱班がいるのだ。その壱班が追いつくまで、そう長く時間がかかるとは思えない。その短い時間ですら破天の拘束を避けたのは、彼を逃がす為ではなかったのか。
(でも)
先日、里炎組が起こした事件の折、彼は傷を負っていた。包帯の巻かれた痛々しい姿はまだ記憶に新しい。
(やっぱり、自作自演って事……?)
背に傷を負ったと、紫呉は言っていた。
そうだ。思い出せ。
背に傷が有るのならば、何故あの時平気な顔をしていた?
紗雪が雪斗の家を訪れた時の事だ。
紫呉がやって来た。雪斗と戯れていた。そして背を踏まれていた。
だが平気な顔をしていたではないか。
それに、あの時雪斗は何を言おうとしていた?
紫呉が来ていなかったら、何を言おうとしていたのだ。
『お前、あんましあいつらと仲良くしねえ方が良いんじゃねえの?』
何故雪斗はそんな事を言った?
『だってあいつら……』
その先を邪魔するように、紫呉は現れた。
それに悠々館の息子は、何と言っていた?
離れろ、と言っていた。
(……破天、だから…………?)
ぐらりと、体が傾ぐ。肩を掴まれて支えられた。
ふいにざわめきが聞こえた。悠一が首を傾げる。
「…………いち、逃げろ! 見つかった!」
ざわめきが膨れ上がる。
「早く逃げ」
語尾は悲鳴に消えた。
「あなたが悠一殿ですね」
聞き馴染んだ声に紗雪は息を呑んだ。