瑠璃の昼行灯 零 14
私塾の終える時間まで、庵に滞在させてもらった。
途中、二人の少女や、初めて見る壮年の男性などが戻ってきた。
彼らとは挨拶以外に言葉を交わしていない。と言うのも、彼らは別室に籠ってしまい、紗雪には話すきっかけすら与えられなかったからだ。
あれから、縁側に腰をかけて取り留めのない話をした。
悠一は猫よりも犬が好きだ、という事。粒餡よりこし餡が好きだ、という事。雨の日は髪の癖が激しくなるからあまり好きではない、という事。
そんな、何でも無い会話が楽しかった。あっという間に時間は過ぎ、昼食を取る事すら忘れて、私塾の終了時間まで話していた。
帰りはまた、茶髪の少女が送ってくれた。相変わらず彼女は無表情で、会話の糸口が掴めなかった。別れ際まで一言も交わさず、気まずい時間が過ぎた。
だが、先日よりは短く感じた。彼女は怒っている訳ではなく、単に、彼女自身の性情で無口なのだと分かったからだ。
(……何か、悠一の為にできる事は無いのかしら)
表通りを歩きながら、紗雪は考える。
筆談、という手段も思いついた。
だが、もしかしたらどこかで見張られている、という可能性も有る。
影虎は何を言うな、何をするな、と名言しなかった。もし口外したならばどうする、とも言われなかった。
だからこそ怖い。
自分の行動が、どこまで許されているのかが分からない。
ただ在るのは、口止めされた、という事実だけだ。
駄目もとで言ってみよう、という簡単な話ではない。だって、言えば何をされるのか分からないのだから。
(臆病者)
胸に抱えた鞄に額を押し付け、紗雪は大きなため息を吐いた。
しかしこのまま、何もしないでいるのは嫌だ。何もしないでいると、悠一に危害が及ぶ事は確実なのだから。
だがいったい、自分に何ができると言うのか。
……何もできそうにもない。
無力感に、紗雪はもう何度目か分からないため息をついた。
それと同時に、腹が鳴った。緊張感の無いその音に、自分自身に腹が立つ。
空腹を主張する腹を撫でる。
そう言えば昼食を取っていない。朝食以降口にしたものは、悠一が出してくれた羊羹だけだ。
そりゃあ腹も空くだろう。どこか茶屋にでも寄って帰るかと、辺りを見回す。
すると、人ごみの中に見知った顔を見つけた。
相手もこちらに気付き、大きく手を振っている。
「さーゆーきー! どうしたのこんな所でー!」
笑顔で須桜は手を振りながら、こちらに駆けてくる。
紗雪も笑顔を返そうとしたが、時期が時期だ。乾弐班の面々に不審を抱いている今、胸中は複雑だった。
「ちょっと用事で。須桜こそ」
どうしたの、と続けようとしたのだが、飛びついてきた彼女の勢いが良すぎて、言葉の変わりに妙な呻き声が漏れてしまった。
「あたしは中央の本部まで行く所。何かこの前会ったのに、すごく久しぶりな気がするわ。元気してた?」
「あー……うん。それなりにね」
風邪で寝込んだり、落ち込んだりと、心身共に『元気』とは言いがたいが、とりあえずそう口にしておいた。
が、須桜は何やら腑に落ちない様子で、紗雪にしがみついたまま首を傾げる。
「ほんと? 何だかちょっと、疲れてそうな感じよ?」
「そうかしら? ……最近、ちょっと寝不足だからかもね」
鋭い友人に内心舌を巻きつつ、適当な理由を口にする。
よし、と須桜は紗雪の手を取り、歩き出した。須桜の背に揺れる兵児帯を目で追いつつ、紗雪は慌てて問う。
「え、ちょっと須桜。どこ行くの?」
「何か甘いものでも奢ったげる」
「って、あんた仕事は? 平気なの?」
「平気よ。そんなにすっごい急ぎ、って訳でも無いから。あ、ここで良い?」
と、立ち止まった須桜が茶屋を指差す。
問うておきながら、紗雪の了解を得る前に須桜はずんずんと茶屋に入って行ってしまった。
案内された席につき、向かい合わせに腰を下ろした。
「こうやって紗雪と二人でお茶するのも、何だか久しぶりね」
「そうね。最近、無かったわね」
須桜は椅子に両手をつき、ぷらぷらと足を振っている。
注文を取りにきた少女に注文の品を告げ、用意された番茶に口をつける。
「ね、今の子がしてた前掛け可愛くない? ヒラヒラしてて」
少女の背中を指差し須桜が言う。
「紫呉が着たら良いのに」
「壱班に捕まるわよ」
「あれ一枚で」
「むしろあんたが壱班行ってきなさい」
「今から行く所だけど」
「ちょうど良いわ。ちょっと更正してもらいなさいよ」
「えー?」
不服そうに口を尖らせる須桜だ。
運ばれてきた団子に楊枝を突き刺しながら、紗雪は呆れた声音で言った。
「何かあんたと話してたら、自分がすごくまともな人間な気がするわ……」
「紗雪はまともでしょ?」
「いや、まあ、そうなんだけどね……」
「あたしもまともだけど」
「それは無い」
須桜は愛らしく頬を膨らませる。
いつもの会話だ。いつもの須桜だ。何もおかしいところなんてない。
そんな彼女を疑わしく思っている自分の方が、おかしいのではないかと思った。
須桜は片肘をついた。
細い手首の、紫水晶の数珠がきらりと光る。
「……ねえ、須桜」
低まった紗雪の声に、羊羹を咥えたまま須桜は首を傾げる。
「それって、黒器なのよね……?」
紗雪の視線を追い、須桜は自分の手首を見下ろした。
そっと数珠を包み込み、こくりと頷く。
「この前ね、私、……紫呉が黒器を使ってるところ、初めて見たの」
「いつ?」
「この前の、雨の日。偶然、その場に居合わせたのよ」
「雨の日……。……ああ、あの日ね」
頷き、須桜は視線で先を促がした。しかし、聞いたは良いが、何を聞こうとしていたのか、紗雪は考えていなかった。
沈黙が落ちる。
もぐりもぐりと羊羹を咀嚼しながら、須桜は自分の黒器を指先でいじっている。
「刀、だったでしょ?」
「あ、うん……。そう、だったわ」
「『牙月』って言うのよ、あれ」
そう言った須桜の目は、冷ややかだった。敵意を含んでいる。
黒器はそれぞれに名前を持つ。
名を支配する主人に従い、黒器は姿を変ずる。
「あたし、牙月の事あんまし好きじゃない」
「え……っと、……何で?」
「紫呉に従順じゃないもの。確かに黒器としては一流品だけどね。でも凶暴だし獰猛だし、何か嫌」
黒器は、主を選ぶ。持ち手が黒器を選ぶのではなく、黒器が主を選ぶのだ。
実際に黒器を手にした事のない紗雪には分からないが、手にした瞬間、名が分かるという。
その名を知り、黒器を従属させた者のみ、黒器を自由に操る事ができる。
黒器は普段装飾品の姿をしているが、主の要望に応え、武具へと姿を変ずる。
また黒器は、それぞれに性格を持ち、装飾品や武具以外にも姿を持つという。それは人型であったり、また獣の形でもあるとの事だ。
黒器の声を聞き、本性を見る事ができるのは、従属を誓った主だけだ。
そう、教本に書いてあった。
「確かに、一流品で、優秀なんだけどもね。耐久性とか、切れ味とか」
「切れ味……」
宙を舞った、男の手首を思い出す。
確かに切れ味は良かった。切れ口も綺麗だった。肉の断面も、骨の断面も見えた。
そこから、赤い赤い血が零れ出していた。白茶けた地面に広がり、雨に滲んだ。
それでもまだ血は止まらない。溢れて溢れて、線となって、地面を這っていた。
「あああああごめんね紗雪ぃ。楽しい話じゃないわよね」
「謝らないでよ。話題振ったのは私なんだから」
「でも顔色悪いわよ?」
「……そう?」
「うん。はい、これ飲んで」
と、湯のみを手渡される。胃に温かいものが滑り落ちる。
紗雪はほっと一息ついた。
頬が温まる。ああ、血が引いていたのだな、と実感した。
「でも、紫呉が黒器発動させてるなんて珍しいわね。えー……雨のあの日って事は、壱班の格好だったでしょ?」
「うん」
「制服の時は、だいたい警棒で済ませちゃうんだけど……」
「結構、危なかったからかしらね……。相手は爆弾、持ってて、それで、そいつの手首を、こう……」
「無茶な事するわね。人には無理するなって言うくせに」
ぷりぷりと憤慨しながら、須桜は羊羹の最後の一切れを口に放り込む。
「ねえ須桜。……須桜は何で、弐班に入ろうと思ったの?」
「紫呉の側にいたいから」
何を今更、とでも言いたげに、須桜はきょとんと目を瞠った。
紗雪もまた、須桜の即答振りに、瞬きを繰り返す。
「で、でも……。迷ったり、しなかった? 怖いって、思わなかった?」
危険な仕事だ。現に、須桜の白い肌には、いくつか傷痕が残っている。
それに、人を傷つける事、武力を行使する事に、何のためらいも感じないのだろうか。
「そりゃあ、怖くないって言えば嘘になるけど……。紫呉の側にいれない事の方が、あたしは怖い」
迷いの無い、真直ぐな瞳だ。
直視していられず、思わず紗雪は俯いた。
「……あんたはほんとに、紫呉の事が好きなのね……」
呆れと、僅かばかりの皮肉を込める。
気にした様子も無く、須桜は陶然と微笑んだ。
「そうね、好きよ。大好き。喰い殺したいくらい」
白い頬が桃色に色づいている。
須桜は胸元で、まるで祈るように指を組んだ。
「でも、恋じゃないの」
目を伏せる。長い睫毛の影が頬に落ちた。
「もう、病気ね」
ふっと、笑みを漏らす。自嘲の声音だった。
脳裏に想う相手を描いているのだろう。切なげな声、切愛の笑み。思わず紗雪は見惚れた。
溜まった唾を飲み込むと、ごくりと喉が音を立てた。
「……じゃあ、もし……。もしも、よ? もしも、紫呉が、その、悪い事をして、追われるような事になったらどうする……?」
そう。
例えば、如月に、弓を引いたり。
「例えば?」
「えっと、そうね……」
瑠璃の民を敵に回すような事……。
「あ、下着泥棒とか」
「あたしのをあげる」
「あげんな。って、違う。そうじゃなくて……」
例が悪かったか。
良い例が思い浮かばず、紗雪は首を捻る。
そうねえ、と須桜は唇に指を添えて、考える素振りだ。
「やっぱり、側にいる」
「それで、その、……須桜まで憎まれちゃっても?」
「うん」
「……私が、追う立場になっちゃったら? 紫呉に、もし、敵対しちゃったら?」
須桜は、眉を寄せて虚空を見上げる。
「んー……。紗雪の行動にもよるけど……」
「って、言ったら……」
「追うだけなら、良いけど。でももし、紫呉に刃を向けるって言うのなら」
須桜は言葉を切って、手首ごと黒器を握りこんだ。
「戦うわ。苦しまないように殺してあげる」
優しい笑顔だった。
今までに見てきた須桜の笑顔の中でも、一番に優しい。慈母を思わせた。
ざわ、と、背筋を悪寒が走った。
冗談で言っているのではない。本気だと、その目が語っていた。
「でも何で?」
と、須桜は小首を傾げる。
ほっとした。先程のような、凄みは無い。
「いや、……どれくらい重病なのかしら、って、思っただけ」
笑って誤魔化し、紗雪はお茶で唇を湿らせる。
須桜の反応からは、紫呉が悠一に対して何か企みが有るのかどうか分からない。須桜もだ。
背を、冷たい汗がつたっていくのが分かった。
団子を噛みしめる。味なんて分からなかった。
(……でも、まだ聞いておかなきゃいけないわ)
ねえ、と努めて明るい声で呼びかける。
「須桜は、如月様にお会いした事が有る?」
「如月様? って、桔梗様?」
「うん。とか、そのご家族とか……」
両肘をついた須桜が、不思議そうな顔をしている。紗雪はただの世間話だ、といった口ぶりで続けた。
「どんな方なのかしら、って思ったの。この前ね、読売を読んで、それで色々と書いてあったから……」
んー、と唸りながら、須桜は頬を支える両手の拳の間に沈んでいく。せっかくの愛らしい顔が台無しだ。
「基本的に治持隊……って、ああ、治安維持部隊で会えるのは班長だけだから」
それに、と更に沈む。不細工だ。
「会うっていうか、見える、くらいな感じだしね」
ならばもし、影虎が乾弐班の班長だとするならば、悠一の顔を見た可能性は有る、という訳だ。
それに影虎は、紗雪が悠一と会っている事を知っているし、悠々館の前で影虎は悠一の顔を確認している。
もしあの後、跡をつけられたとするならば、あの庵の場所も知っていておかしくない。
班長は誰なの、と確認してしまいたいところだが、それを聞いて良いのか躊躇われる。もしこの会話を、どこかで聞かれていたらと思うと恐ろしい。
今までの会話を反芻する。不審なところは無かっただろうか。
(……何が駄目なのか分からないから、不審も何も無いけれど……)
不安に包み込まれる。もし聞かれていたら。もし、今までの会話の内容ですら禁則なのだとしたら。
背筋が冷える。口が渇く。緊張に体が固くなっているのが分かる。
しかし、確かめておきたい。誰が悠一に害意を抱いているのか。
もしそれが分かったとしても、悠一に伝える良い手段は思いつかない。
だが、それはおいおい考えれば良い。知っていなければ、伝える事も何も出来ないのだから。
今自分ができる事はそれくらいだ。
役に立てるかどうかも分からないが、何もしないでいるのは嫌だ。悠一の助けになりたい。
そうだ、これは紗雪にしかできない事だ。あの庵で、影虎に遭った紗雪にしか。
悠一は言っていた。
内部の者が漏らしたのかもしれない、裏切り者がいるかもしれない。その目星は、まだついていないのだろう。
可能性として考えられるのは、乾弐班の面々。
(でも……)
ぼんやりと店の外を眺めている須桜の横顔を見やる。
(もし、弐班の皆が本当に破天だったとしたら、私はどうすれば良いの……?)
そしてその事を悠一に伝えたとしたならば。
彼らは捕まるだろう。罪状によれば極刑もあり得る。
悠一の安全はひとまず確保される。
だが、弐班の皆には、もう、会えなくなってしまう。
今まで親密に過ごしてきた。その彼らを、失ってしまうのは嫌だ。想像しただけで、胸にすうすうと冷風が抜けていくような心地がする。
だが伝えないでいると、悠一の安全は保証されない。
(……次男様がもし死んでしまったら、里はどうなるの?)
想像もつかない。
ただ、漠然とそれはいけない、としか考えられない。
『もしも、……もしもだよ? 百人の命が、人質を一人差し出す事で救われるなら、迷いながらも人質を差し出すだろう? ……けれど、その人質が施政者であることは、けして無いんだ。何故なら等価ではないから。天秤にかければ、百よりもその一のほうが重いから。……そんなの、おかしいじゃないか』
悠一はそう言っていた。施政者の命と、民の命は等価ではないと。
そしてその事に、嫌悪を抱いていた。
だが真理だ。
如月の命と、民の命。ひいては破天の命。
護れと言われたら、如月を選ぶ方が正しいのだろう。
「紗雪? うーん、やっぱり元気ないなあ。甘い物摂取もしたのに」
身を乗りだして須桜は紗雪の頭を撫でた。と言うよりも、押さえつけた、と言った方が正しいか。
「え、す、須桜? 何?」
「注入。あたしの分の元気を、こう、ぐーっと」
言いながら、須桜はぐいぐいと頭を押さえ込んでくる。
「い、痛いって」
「元気になーれーい」
「あいだだだだだだだだ痛いってば」
須桜の手を掴んで、頭からどけさせる。
「も、平気だから。元気だから」
「そ?」
「うん。これ以上貰ったらあんたの分が無くなるわよ」
「そしたら紫呉から吸い取るもの」
「紫呉が枯れるわよ。何にせよもう大丈夫だから。ありがとうね」
須桜は頷いて、にこりと笑った。
「良かった。紗雪の元気が無いと、何かあたしまで寂しくなっちゃうもの」
ずきりと、胸が痛む。
こんなにも須桜は自分の事を気遣ってくれているのに。その須桜を、自分は疑っているのだ。
「あたしね、今まで同年代の友達とかいなかったから。こうやってお茶したりふざけたりできるのって、すごく楽しいの」
須桜は照れくさそうに髪をいじる。
「何かあたしにできる事有ったら言ってね? めいっぱい頑張っちゃう」
ぐっと、両手の拳を固める須桜だ。
紗雪は鼻の奥の痛みを堪え、笑った。頬の筋肉が不自然に引き攣った。
「ありがとう。頼りにしてる」
喉が詰まって、声を出しにくかった。涙の滲んだ目を隠すように、紗雪は窓の外へと顔を逸らした。
須桜は立ち上がり、唸りながら思いっきり伸びをする。
「よっし。じゃあ、お仕事いってくるかな」
店の少女を呼び寄せ、代金を支払う。
その隙に、紗雪は滲んだ涙を手の甲で拭った。ついでとばかりに、須桜は少女に前掛けの購入店なども聞いていた。
「ごちそうさま。……ていうか、聞いてどうするのよ」
「えー? 今のところは何もしないけど、今後もし何かしようってなった時に、知っておかなきゃ何もできないじゃない?」
「まあ、そうだけどもね……」
暖簾をくぐりながら、はしゃぐ須桜を横目に見やる。
「では行ってきます! 気をつけてね」
「うん。須桜こそ」
敬礼の姿勢を取る須桜に、紗雪も敬礼を返す。
それじゃあ、とひらりと身を翻した須桜の小柄な背は、あっという間に表通りの人波に飲まれていった。
手を下ろし、紗雪は片手で額を覆う。
頭痛がした。
(私も、須桜の事は好きよ)
一番の友人だと思っている。何でも気がね無く話せるし、沈黙も気詰まりでは無い。相談事には真剣に耳を傾けてくれる。
少々変態臭いが(時折真剣に気持ち悪いと思わないでもないが)大事な友人だ。
たまに、可愛らしすぎて卑屈に思う時もある。隣を歩くのに気後れする事もある。
それでもやはり、大切な友人だ。
その彼女を、自分は疑っている。それがつらい。
どうにかして、今の状況を脱したい。
弐班の面々を、友人を疑っている、という今のこの状況から逃れたい。信じたい。乾弐班は破天ではないと、そう思いたい。
だが、今の状況では、そう言い切れる確固たる証拠が無い。むしろ、疑わしく思う部分の方が多い。
(……そうだ)
疑いを晴らしてしまえば良い。
破天ではないと、そういう証拠を見つければ良いのだ。
今自分にできる事。それは、乾弐班が本当に破天なのか探る事だ。
もし本当にそうだったとしでも、その時自分がどうするかは、またその時に考えれば良い。
白なのか黒なのか。それをはっきりさせなければ、何もできない。ただ疑わしく思い続けるだけで、苦しいばかりだ。
ただ、どこで監視の目が光っているか分からない。くれぐれも慎重にならなければ。
影虎に口止めされた事は、確実なのは影虎があの庵にいた、という事。その事だけは決して口外してはいけない。
他には、厳密には何も口止めされていない。だからこそ逆に、許されている行動が明確では無く動きづらいのだが。
(でも、どうにかしなきゃ)
紫呉と話をしてみたい。紗雪は弐班の屯所へと足を向けた。
空は西日に染まり始めている。
途中、俥に呼び止められたが断った。道ですれ違う可能性も有る。何せ、須桜も――影虎も中央付近で出会ったのだから。
辺りを見渡しながら、足早に表通りを抜ける。
鴉がどこかで鳴いている。だんだんと太陽は山際に吸い込まれ、空は徐々に夜の色に染まりつつあった。
太陽の反対側、白い月があった。月は太陽が姿を消した頃に色づき始める。
うるさいほどに鳴いていた鴉の声はやがて止み、虫の音が響き始めた。通りに並ぶ石灯籠に灯が点り始める。
私塾の前を通る時、学友に出会わないかとひやひやしたが、誰にも出会う事無く通り抜ける事ができた。
辺りの店の提灯にも灯が点り始める。通りは家路を急ぐ人々で溢れていた。
ふわりと、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。悠々館の前で、店主が餅を焼いている。土産にと並ぶ人々の列ができていた。
そろそろ夕飯時を迎えようとしている。店内はいつもより人が少ない。女将さんが片付けをしているのが見えた。
と、軽く肩を叩かれ、紗雪は振り返る。
「お疲れ様です」
そこにはいつも通り無表情な紫呉の姿が有った。
「あ、うん……お疲れ様……」
ぎこちない笑みを浮かべて紗雪は言った。
これから紫呉に会いにいくところだった。丁度良い。話をしたいと思っていた。だが、予期せぬところで出会ってしまい、頭が上手く回っていない。
紫呉は制服を着ていない。もう仕事を終え、屯所へと戻るところなのだろうか。
「……今日は、もうお仕事終わりなの?」
「とりあえずは。また夜に呼び出しが有るかもしれませんけどね」
「じゃあ、これから屯所に帰るところ?」
「はい。本部からの連絡待ちです」
紗雪は鞄を胸元に抱えた。
顎先を鞄に埋め、上目に紫呉を窺う。
これから少し時間を貰えないだろうか。話を聞きたかった。
そう思い、口を開こうとした時だ。
「待て!」
少年の声がした。
知らない声だ。いや、聞き覚えは有る。だが、聞き馴染んだ声ではない。
声のした方向を振り向くと、悠々館の息子が、切羽詰った表情で立っていた。
「は、離れるんだぜ」
彼の琥珀色の目が怯えに揺れている。
意味が分からない。
離れろ、とはどういう事だ?
紫呉を窺う。
ぎくりとした。
紫呉の真黒い双眸は、明らかな怒気を含んでいる。
細められた視線の先には、少年の姿があった。
少年はぐっと息を詰め、紫呉の鋭い視線から逃れるように店内へと踵を返した。
紫呉は鋭く舌を打つ。
息を呑んだ。
(怖い)
鞄を胸に押し付ける。
知らず紗雪は後ずさっていた。
その足音に、紫呉がこちらに向きなおる。
「……あ、私、帰るね」
紗雪、と呼び止める声がした。気付いていないフリをして、紗雪は駆けた。
(何で)
離れろとはどういう事だ。
紫呉のあの反応はどういう事なのだ。
何故。
どうして。
そればかりが頭の中を駆け巡る。
意味が分からない。
「お帰りなさい、お嬢さん」
家の玄関の前、下男がほうきを片手に掃除をしていた。
新顔だ。短く切った銀の髪に、細い縁の眼鏡。父が先日連れてきた。もしかすると、彼が悠一の言っていた『護衛』なのかもしれない。
「……もうやだ……」
もう嫌だ。何も考えたくない。
不思議そうに首を傾げる彼を置き、紗雪は自室へと走った。一人になりたかった。
何故、どうして、もう嫌だ。
そればかりが脳内を占めていた。