まほらに候 8
やがて市街に辿りついた。その頃には随分と痛みもマシになり、呼吸も楽になっていた。
どうやら朝市が開かれているようだ。数はそう多くないが、開かれた通りには、ぽつぽつと屋台が点在していた。
紫呉は汗を拭うがてら、襟巻きを引き上げた。この暑い爽月の最中に、襟巻きを巻いた紫呉の姿は異様に見えるのだろう。視線を感じた。
それで良い。己の風貌を記憶に留めさせるのではなく、己の服装の特徴を記憶に植えつけたいのだ。
こちらを撫でる視線に敵意は感じられないが、不可思議そうな表情を浮かべるその顔は、関わりたくないと言っているようだった。
果実売りの屋台の前に立つ女性は、紫呉と目が合いそうになると、さっと目を逸らして俯いた。そして左の手をぎゅっと、大事な物を護るようにして握りこむ。
その仕草の意味が気にかかった。
(……水晶?)
女性の覆う右の手の下、左の手の指にちらりと光る物が見えた。どうやら玻璃玉の指輪であるようだ。
次いで女性は、里の中央を振り仰いだ。そちらの方角に何があるのかは、紫呉も知っている。鼎宵殿だ。
だがどうして。
女性は鼎宵殿を振り仰ぎ、一礼した。そしてそそくさと立ち去っていく。
その女性につられたのかどうかは知らないが、周囲にいた者達も次々と、鼎宵殿を振り仰ぐ。煌く御殿を視界に留めるなり、彼らもまた一礼した。
意味は分からないが、紫呉もそれに倣って一礼する。
よく見れば、彼らはどこかに玻璃玉を身につけていた。指輪や腕飾り、首からぶら下げている者もいる。
顔を上げた。紫呉の事を胡乱な目つきで見ていた者達だが、紫呉の左の手首にもまた水晶の数珠が光るのを目に留め、ほっとしたような顔をしてみせる。その表情はどこか親しげですらあった。
道行く人々の中の一人がこちらにやってきた。まだ若い男だ。三十路ほどだろうか。彼は親しげに微笑みを投げかけながら、紫呉に向けてひらりと手を振った。
「なあ、おい」
彼の胸元にも、水晶の玉が光っていた。綺麗な球形に磨かれたそれは綾紐に通され、たくましい胸元で揺れている。
「顔色が悪いな。どこか具合でも悪いのか?」
彼はよく日に焼けた顔に、笑みを浮かべた。にっと剥いた歯が不自然な程に白かった。
紫呉は警戒して一歩下がる。敵意は感じられないが、警戒するに越した事はない。
周囲はこちらを気に留めてはいない。紫呉がここに現れる前と同じであっただろう、なごやかな空気で買い物を楽しんでいる。
「ん、どうした?」
周囲がもう紫呉の気にかけていないのも、この男が親しげなのも、きっと牙月のおかげなのだろう。
牙月は打刀の黒器であるが、変態を命じていない今は水晶の数珠の姿をしている。おそらくはその事が玻璃の民たちに、紫呉が共同体の一員であると思わせている。
牙月が水晶の姿であるのは全くの偶然であるが、これは好機なのかもしれない。
「その襟巻き、もしかして風邪でもひいたか? 喉を傷めたのか?」
親しげに笑む男に、紫呉は曖昧に頷いた。
「そうか、それは大変だったな」
男は腕を組み、かわいそうになあと言いながら数回うんうんと頷いた。
こちらを見る周囲の眼差しが、やけに和らいでいる。
――まあ、優しいこと。
――中々の男ぶりじゃあないか。どこの組の衆だろうね。
(組?)
聞こえる声音に、紫呉は耳を澄ませる。
――なぁに、優しいのは彼だけじゃあないさ。
――ああ、そうだねえ。
――この里はとても良い里。誰一人悪人などはおりません。
――この里はとても良い里。何一つ不満などございません。
満ち足りた声でささめき、彼らは鼎宵殿を仰ぎ見る。一礼して、身につけた水晶を愛しげに撫でさする。
その声にも顔にも、嘘はないように見えた。
「なあお前、どこの組の者だ?」
男は首を傾げた。
組とは、先程ちらりと耳にした『組』のことだろうか。
だがその『組』が何を意味するのか分からないのだ、迂闊な事は言えない。
紫呉は男の様子を上目に窺いながら、口をつぐんでいた。
「どうした、何故答えない」
男の声は笑んだままであったが、僅かに低まったようだった。笑みを浮かべたまま、男はこちらにじりじりと近づいてくる。
薄ら寒さを感じ、紫呉はまた一歩、距離を取る。
「どこの組の者だ?」
さやさやと、周囲にざわめきが生まれ始めている。
「どうして答えない」
男は尚も笑んだままだ。
「もしや」
ふ、と男の笑みが掻き消えた。
「不具か」
ざわめきが膨れ上がった。