まほらに候 9
耳を打つざわめきは嫌悪感で満ちていた。そそくさと立ち去る者もいれば、遠巻きにこちらを窺う者もいる。
男は紫呉に向かって、にゅうと手を伸ばしてくる。
紫呉は身を引いた。それが気に食わなかったようで、男は眉をきりきりと吊り上げる。
(どうする)
逃げるべきか。それとも、男の好きにさせるべきか。
男の作る影が、覆いかぶさるように頭上に降ってくる。襟巻きを引き上げて顔を隠し、紫呉は上目に男の様子を窺った。
笑みの隙間から零れる、やけに白々と光る男の歯が気味悪かった。伸ばされる手に、唾を飲み込む。
途端、後頭部に衝撃を感じた。力強くがしりと掴まれ、そのまま前のめりに頭部を倒される。
「申し訳ございません」
後ろから、女の声がした。
女によって強制的に礼を取らされた格好のまま、紫呉は疑問符を飲み込み、横目に女を窺った。紫呉の頭部を押さえつけたまま、女もまた、深々とお辞儀をしていた。
男が舌を打つ音がした。女はゆるゆると上体を起こす。それに伴い後頭部を押さえつける力が緩み、紫呉もゆっくりと体を起こした。
女は二十七か、八といったところだろうか。線の細い華奢な姿をしているが、纏う空気はいかにも鉄火肌である。
長く伸ばされた茶色の髪で、女の顔は隠されていた。きゅっと引き結ばれた唇は赤く、婀娜を感じさせる。
女は汗ばむ首筋に貼りつく髪を疎ましげに指先で払い、前髪越しに紫呉を見やった。その視線は鋭いが、敵意は感じられない。
男は、じろじろと無遠慮な視線を女に注いでいる。女は男の視線にたじろぐことなく、地面に視線を落とし、ピンと背筋を伸ばしていた。
「お前も不具か」
男は鼻を鳴らし、にたりと笑った。上から下まで視線で女を舐めまわし、女の前髪をぐいと掴んだ。女は呻きを漏らす。
無抵抗の者に何をするのだと、紫呉は男の手首を反射的に掴んだ。男の顔から笑みが消える。
憤怒の形相を浮かべ、男は紫呉に向きなおった。
「生意気だな」
発する声に、先程までの親しげな響きは無い。紫呉は咄嗟に女を背後に庇った。
「不具のくせに」
低く唸る声は揺れ、焼けた顔は怒りに赤黒く染まっていた。ただならぬ様子の男に、判断を誤ったかと紫呉は歯噛みする。
「何故、不具が
男の視線が紫呉の手首に落とされる。そこには牙月が在った。男は目を剥き、牙月に手を伸ばしてきた。
その手を紫呉は払う。唸る男の声は低く、ひどく獰猛であった。紫呉は男の様子を窺いつつ、目配せをして女に逃げるように促がす。
女は迷った様子で、男と紫呉を見比べている。男が拳を硬く握り、振りかぶった。
紫呉は屈んだ。ごう、と拳が風を切る。地に手をつき、足払いで男の体勢を崩す。砂埃を舞い上げて、男が倒れた。
立ち上がる紫呉の手を、女は掴んだ。赤い唇には笑みが浮かんでいる。前髪の向こう、覗き見える瞳は楽しげだ。
「行くよ」
こっちだ、と女は紫呉の手を引いて走り出す。背を男の罵声が追うが、女は止まる事無く駆けた。
可能な限り周囲の地理を目に焼きつけながら、紫呉は手を引かれるままに走った。右に左に小路を抜ける。
やがて辿りついた外れの地で、ようやく女は紫呉の手を離した。息を切らしながらこちらを見上げ、ばんばんと肩を叩いてくる。
「いやあ、なかなかにすっきりしたよ」
あはは、と高く笑い、垂れる汗を拭う。
周囲は閑散としていた。乾いた地面の上をかさかさと音を立てて、枯れ草が風に舞う。
ぼろけた小屋が点在している。人の気配は感じるが、皆一様に警戒しているようで、肌にひりひりと痛い。
「ねえ、アンタ」
上がった息も落ち着いた頃、女は紫呉を見上げて首を傾げた。
「もしかして口がきけないのかい」
そういうわけでは、と否定する前に、女は言葉を継ぐ。
「それ」
と、紫呉の左手首の牙月を指差した。
「口がきけなくなる前に貰ったもんなんだろ? 口がきけなくなったのは最近かい? 分かるよ、そんなにすぐには聖玻を手離せないよねえ。アタシもそうだったさ。右目無くしてしばらくは、手離せなかった」
矢継ぎ早な女の言葉に、紫呉は口を挟む隙を見つけられずにいる。
「つらかったろうねえ」
そう言って女は切なげに微笑んだ。明確な同情が感じられて、どうにも申し訳ない。
だが、否定するのはいけないと直感している。女は、紫呉が
どうやら男の言っていた『不具』とは、何らかの身体的機能を欠いた者を示すようだ。そしてこの玻璃の里においては、忌まれた存在であるらしい。
聖玻、と男は牙月を指して言っていたか。
そういえば、朝市を行く人々は皆どこかに玻璃玉の飾りを身につけていた。あれが、聖玻なるものか。
(なるほど)
だから、水晶の姿をした牙月を身につけた紫呉を、共同体の一員だと見なしたのか。女の姿を見回した男が彼女を不具と見なしたのも、彼女がどこにも玻璃玉を身につけていないからだろう。
女の口振りからすると、玻璃の里の民は皆、聖玻を与えられている。だが不具なる者には与えられない。生の途中で身体機能を失った場合は聖玻を手離す必要があり、不具と見なされる。
(胸糞の悪い仕組みだな)
――この里はとても良い里。誰一人悪人などはおりません。
――この里はとても良い里。何一つ不満などございません。
民は満ち足りた声音で、そう言っていたが。
「ほら、見ておくれよこの目」
女は長い前髪を手で除けた。
「せっかくの別嬪が台無しだろ?」
からからと笑ってみせる。しかし、その笑顔が痛々しい。
女の右目には大きな傷があった。眉の中央から目を抜け下瞼に至るまで、目を潰す刀傷が走っている。
「前の男が最低な奴でねえ。酔っ払って、斬られちまったんだよ。で、それがちょうど運悪く……、おっと」
女はきょろきょろと周囲を見回した。
「……ま、ここなら平気だろうがね」
紫呉の肩に手をつき、僅かに背伸びをして耳に口を寄せてくる。
「今の焔様に代替わりして、しばらくの時でね。不具、不具、って急に除け者さ」
馬鹿らしい話だよ、と鼻から長く息を抜く。
という事は『不具』なる存在が生みだされたのは、八重が日生焔を継いでからのことか。
だが何故だ。
何の必要があって?
「偽焔様、だからかねえ」
まるで紫呉の心を読んだかのように、女が言った。
「八重様は、焔様として欠けてる自分がお嫌なんだろうさ」
確かに、八重の容姿は日生の血に連なる者としては異端だ。
日生の者は、皆一様に黄金に輝く髪と、太陽を思わせる赤い
だが、八重の髪は黒。目も黒だ。だから彼女は、正統な後継であるにも関わらず、焔の名を継ぐ事が無かった。弟である与四郎に、焔の座は譲られたのだ。
そして与四郎の死後、八重は焔の座に着いた。与えられるはずであったその名を、ようやく名乗る事を許された。
だが、里の民に謳われた名は『偽焔』。
「だから、欠けてるアタシたちも、排除したいんだろうさ。……って、勝手にアタシはそう思ってるんだけどね」
風が女の髪を揺らす。隙間から覗く右目の傷が、痛ましい。
「そうでも思わなけりゃ、納得なんてできないさ」
乱れた髪を手櫛で整え、そうだろう、と女は微笑んだ。
その笑顔が悲しくて、紫呉は思わず傷口に手を伸ばす。つらかったろう、と女は紫呉に言ったが、本当につらかったのは彼女自身であるだろうに。
前髪の向こうで、女は目を丸くした。そしてぷっと吹き出し、そのうちには腹を抱えて大笑いを始めた。
「あっははは! アンタ、結構タラシだねえ!」
滲む涙を指先で拭い、女は笑い転げる。
そんなに笑われるような事をしただろうかと、紫呉は首を傾げた。
ひいひいと息を継ぎ、いやあ悪い悪い、と女は紫呉の肩をぽんぽんと叩いた。
「アタシは
あー笑った笑った、と夢緒はまだ喉を震わせている。
何だか釈然としないが、紫呉は乞われるままに己の名を爪先で土に書こうとして、やめた。屈んで、指先で書く。その隣に謝辞の言葉も沿える。助けて下さってありがとうございます。
それを目にした夢緒は、また腹を抱えて笑い出した。
やはり釈然としない思いで、紫呉は首を傾げた。
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