流動する虚偽 8
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三
柔らかな光を須桜は瞼越しに感じた。目を覚まし、身を横たえたまま周囲を見回す。
(……朝)
久しぶりの、だが見慣れた右影舎の自室の天井だ。
寝転んだままうんと伸びをし、力を抜く。ごろりと寝返りを打ち目を閉じた。無意識に心臓の有る左側を下にして眠っていた事に気付き苦笑する。
ここ数日、須桜は赤官の野外演習に参加していた。演習の後半は負傷者が増えてきた為後方支援に徹していたのだが、前半は須桜も前線に出て戦っていた。その際に得た傷はまだ治っていない。浅いものなので、そう気にするものでもないのだが。
雀の囀りが心を安らげてくれる。誰にも邪魔をされない、この安穏としたまどろみが心地良い。弐班の屯所を発つ際にくすねてきた紫呉の足袋を片手に、須桜はうとうとと惰眠を貪った。
塹壕や木の上でもない清潔な布団。ふわふわの布団からは土や火薬のにおいではなく太陽の匂いがする。物音や気配に緊張する事も無く、四肢を伸ばし体を休められる事がこれほど有難いとは。
それに手には武器ではなく愛しい主の足袋だ。頬ずりをすれば、実に気持ち悪そうな顔をする紫呉の顔が容易に想像できて、須桜は思わず小さく声をあげて笑った。
と、廊下を歩く足音が聞こえた。極力足音を立てぬよう忍び足でこちらに近づいてくる。
従来ならば気がついていなかったかもしれない。だが演習で連日の緊張を強いられ過敏になっていた神経は、耳ざとく足音を察知した。
足音は須桜の自室の前で止まり、音を殺してすすすと襖が開く。敵意は無い。僅かに薬草の香りがした。
目を開けるのも億劫だ。須桜は足音の主を無視する事にした。
が、それが間違いだった。
「……っいったぁああ!!」
ぐいと手を掴まれ傷口にぬちゃりと何かを塗りこまれる。
「わはははは馬鹿め惰眠を貪っているのが悪いむしろ感謝しろ青生の治療が受けられるのだからな!!」
「こんの……アホ兄貴……!」
煎じた薬草を塗りこまれた傷口がじんじんと傷む。須桜はゆっくりと身を起こし、こちらを指差して笑っている兄を睨みつけた。
青生の頬は薬草の汁で汚れていた。隈も目立つ。どうやらここ数日眠っていないようだ。元々は白いはずの医療着は薬草で汚れ妙な色をしている。指先も汚れていた。
「何なのよもう……ゆっくり寝させてよ……」
「おお怖い怖い馬鹿が怒ったぞ」
「馬鹿はどっちよ……」
青生が手にする擂鉢を奪おうと手を伸ばす。しかし青生はひらりとそれを避け、目的は果たしたとばかりに部屋を出て行こうとする。
無性に腹が立った。せっかく人が心地良く眠りを堪能しているというのに無理やり起こし、挙句の果てには馬鹿呼ばわりだ。
須桜は布団を跳ね除け青生の背を追った。須桜の追跡に気付いた青生が全速力で廊下を駆ける。
「わはははは追いつけるものなら追いついてみろ!」
ひらひらと手を振る青生が腹立たしい。
しかし何故こんなにも足が速いのか。引き篭もりのくせに。引き篭もりの薬草薬品医療オタクのくせに。
「ぅお?」
「捕まえた」
だがここは常日頃身体を鍛えている須桜が勝った。青生の襟首を掴み、須桜はにたりと笑う。
「離せ離せ馬鹿者兄を何だと思っている!」
「アホか馬鹿だと思ってる」
「何だと馬鹿にしているのか!?」
「そうよ」
襟首を掴む須桜の手から逃れようと青生はじたばたともがく。伸びた爪が肌を掻くが、そう簡単に解放してやるものか。
「さーてどうしよっかなー」
歌うように言えば青生は頬を膨らまし、手にしていた擂鉢を振りかぶった。
「離せこの馬鹿妹め!」
投げつけられた擂鉢を須桜は反射的に受け止めた。その隙に青生は駆け出している。
「あ、ちょっと兄貴!」
中身がほぼ入っていなかったのが幸いか。須桜は擂鉢を脇に置き、青生を追いかける。
廊下の角を曲がったところで、青生はこちらを振り返りにやりと笑った。犬歯で親指を噛み切る。
思わず須桜は足を止めてしまった。
青生は親指から垂れる血で、須桜と己を分断するように床に一線を引く。
「来るなよ来たらどうなるか知らんぞ」
青生は須桜を指差しにやにやと笑っている。
(……失敗した)
青生が指を噛み切った時に足を止めず捕獲すれば良かったのに。己の失態に須桜は舌を打った。
御影の女の血は治癒の効果を持ち、男の血は自在に薬を作り出す。故に青生自身が薬草を煎じ薬品を作り出す事は、単なる彼の趣味だ。彼自身の血が薬草畑であり薬品庫でもあるのだから。
「さあさあどうする爆発させてやろうかそれとももう一度眠らせてやろうか」
親指を圧迫し止血しながら、青生は得意げに笑う。須桜の反撃はもう無いと察したのか、青生は高笑いと共に身を翻し去っていった。ついでに馬鹿めという捨て台詞も残していった。
(……むかつく)
須桜は乱れた髪をさらに乱し、大きく嘆息した。
眠りを阻害され治療と言う名の攻撃を施され、かつ馬鹿呼ばわりだ。全く、朝から気分が悪い。
とりあえずもう一度眠ろう。眠って、青生のおかげで無駄に得てしまった疲れを癒そう。
そう思い、来た道を引き返そうと須桜は振り返った。
「ぷ」
しかし柔らかな何かに顔を埋める事になり、足を止めた。
「女の子がこんな格好をして、はしたないわよ?」
「
彼女の豊満な胸から顔をあげ、須桜は喜びに顔を輝かせる。
影亮は優雅な仕草で須桜の乱れた夜着にすっと手を伸ばし、大きく開いた胸元を合わせた。
「ありがとうございます。どうしたんですか? あ、兄に何か用でしょうか」
「そう。困った事にあの馬鹿に用事なの」
やれやれと言う様に影亮は目を伏せて首を振った。
女性にしては低く落ち着いた声音にすらりと高い身長。しかしそれらが彼女のたおやかさを損なう事はなく、むしろ彼女の魅力の一つとして影亮に色を添えていた。
焦げ茶の髪は、銀の髪飾りで綺麗に纏め上げられている。縁の無い眼鏡の向こうには、少し垂れ気味の橙の眼が有った。
ちなみに彼女の眼鏡には度が入っていない。幼い頃不思議に思い何故だと尋ねたところ、馬鹿たちを直接見たくないから、という答えが返ってきた。馬鹿たちとは青生と、そして由月の事である。
甘い容貌をしている影亮だが、醸す雰囲気は怜悧で厳格だ。しかし彼女が優しい事を須桜は知っている。
草薙影亮二十四歳。彼女は影虎の姉だ。
「あの、用事ってすぐに済むものですか?」
「どうして?」
「えっと、影亮さんが良ければ後で調練に付き合ってほしくて……」
駄目ですかと見上げれば、影亮はくすりと笑って須桜の背後に回った。
「影亮さん?」
背後を振り返ろうとすると、前を向くようにと軽く押し戻される。須桜の乱れた髪を整える手が優しく快い。
どうやら三編みにされているようだ。影亮の意図が分からず、須桜は首を傾げた。
「これを」
と、須桜の髪の先に結ばれた結紐を影亮は撫ぜた。
「私が奪ったら私の勝ち。須桜が私の髪飾りを奪ったらあなたの勝ち」
振り返れば、影亮は自分の髪飾りを指で示して笑っていた。
「期限は日が落ちるまで。黒器も薬も使って良いわ。どう?」
「……影亮さんは?」
「私? 須桜はどうしてほしい?」
「…………使って下さい」
黒器も忍具も使用した影亮に勝てるわけが無いと思いつつ、須桜は進言した。
影亮は自分を殺しはしないと知っている。卑怯な考えだとは思うが、主から離れてまでして鍛えに戻ってきたのだ。命の保証のついた、格上の相手と戦う機会などそうそう無い。影亮には悪いが利用させてもらう。
「分かった。可能な限り手加減はしないようにするわ」
「……嫌な言い方」
「ふふ、これくらいの挑発に乗ってちゃ駄目よ?」
ぽんぽんと軽く頭を撫ぜられる。
「それじゃあ、第一野外演習場で」
また後でね、と影亮は身を翻す。
彼女の残した甘い芳香がふわりと香った。
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