流動する虚偽 18
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腹に当身をくらわせた少女の体がずるりと沈む。打刀をとりあえず脇に置き、紫呉は少女の帯を解く。そして背で両の手を纏めて縛りあげた。
少女の足袋を脱がして丸める。顎を掴んで口を開けさせ、丸めた足袋を口に詰め込んだ。目を覚ました時に舌を噛ませぬ為にだ。
紫呉は少女が落とした小刀を拾い上げ、少女を縛る帯の隙間に差し込んで小刀を隠した。
四方を囲んでいた垣は、もうほとんど取り払われている。客も四散し、一所に集まる事は避けられた。
騒動も混乱も未だ治まっていないものの、一抹の安堵を感じて紫呉はふうと息をついた。その拍子に頬の傷が痛み眉を顰める。
あの時、自分は確かに影虎を殺すつもりでいた。殺されてなるものか、失せろ、脳裏に有ったのはただひたすらにそればかりだ。
(……阿呆か)
傷に指を触れさせる。ちりりと痛む。
『良いか。黒器を手にするって事は、常に人殺しの道具を持ち歩くって事なんだぞ。その気になりゃあ、いつでもどこでも誰でも殺せるって事なんだぞ』
『お前は本当に抗いきれるか? 人の血のにおいに、肉を断つ感触に、その愉悦に抗いきれるのか?』
『覚えておけ。怒りに呑まれるな、恐怖に呑まれるな、悦楽に呑まれるな。怒りも恐怖も悦楽も捻じ伏せて支配しろ』
何度も笑われた。まるで餓狼のようだと何度も揶揄された。
いつか自分をそう諭した人は、今はもういないけれども。
彼の人の名を心中で呼び、紫呉は己を恥じた。
傷の上から頬を叩き、気を引き締める。丁度その時、背後でパンと破裂音がした。
悲鳴が満ちる。煙が流れてくる。
紫呉は片目を瞑り、辺りを見回した。煙と涙で霞む視界に、包丁を手にぼんやりと突っ立つ男が映った。
男はうつろな視線を、あちらこちらに彷徨わせている。男の視線が負傷した女性を捕らえた。にたりと笑って、男は女性の元へふらふらと歩み寄る。
呼吸を最小限に抑えていても尚、煙に喉を突かれて咳がこみ上げてくる。肌もぴりぴりと痛む。
咳と痛みを堪え、流れる涙と洟を乱暴に拭う。打刀を拾い上げ紫呉は男の側へ駆け寄った。
女性は足を挫いたのか、蹲って動けないでいる。その上煙に目をやられ男の接近に気付いていない。
男は痛みも、流れる涙も洟も気にならぬようで、紫呉の姿を視界に捉えるなり「動くな」と叫んだ。
「この人を殺すよ」
「……その前に僕があなたを殺します」
「あは、ははは、それは、願ったり」
咳き込みながら男は、手にした包丁を己の手首に何度も滑らせた。
「……自分で死ぬのは、面倒だし、でも、今日のこの勢いでみんなと一緒なら大丈夫だと思ったけどやっぱり面倒だし、誰かを殺してそしたらきっとぐちゃぐちゃになって死ねるかなあと思ったけどそれもやっぱり面倒だし、……はは、痛い」
言いながら男は、何度も何度も手首に刃を滑らせる。浅い傷が無数に生まれる。
「死なせてよ。覚悟は出来てるよ」
「……覚悟、ね」
つい思わず嘆息しようと息を吸ってしまい、紫呉は派手に咳き込んだ。涙を肩口で拭う。男は「早く」と急かす。
男は手首に赤い線を描いては笑っている。薄く血の滲む手首を包丁の背でなぞり、満足げに笑っている。
男は暗い目でちらりとこちらを窺い、もう一度「早く」と言った。
言い終わらぬ内に、紫呉は大きく踏み込んだ。男が目を見開く。
「ひ」
抜き身の打刀を横様に払い、男の首に滑らせる。根元から切っ先まで刃を滑らせ振りきるが、血は出ない。
男は首を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「刃は潰してあります」
「……ぁ、……ぁあ……」
「残念でしたね、死ねなくて」
ついいつもの癖で血を払う動作をしてしまい、無意味だと気付く。刃は潰してあると、今し方自分が言ったばかりではないか。
男は何度も首をさすっている。だらしなく開いた口から唾液を垂らし、首をさすった掌を見ては血が付着していない事を確認し、また首をさすり傷が無い事を確認する。
紫呉は男が落とした包丁を拾い上げ、男の前に片膝をついた。
投げ出された男の掌に、それを突き立てる。
「……ひ……っぎぃ、あああああ、ああ痛い痛い痛いいいい!!」
包丁に縫いとめられた掌から、じわりと血が滲んで広がる。
痛い痛いと繰り返し、男は包丁を抜こうと手を伸ばす。だが抜こうにも痛みが先走るのか、指先を柄に触れさせるだけで、男は震えてばかりいる。
「ぬ、抜いて、抜いてくれ! 痛い、痛いぃ死ぬ、死んでしまう!!」
「死にたいんでしょう?」
「あ、あああ違う違う、痛い、助けてくれ、早く、早く抜いてくれ痛い痛い痛い、嫌だ死ぬ、死ぬ……っ」
蠢く指先がまるで虫の足のようだと紫呉は思った。
伸ばされた手を払いのける。
「勝手に死ね」
男に背を向け、紫呉は今尚蹲ったままでいる女性に肩を貸した。
いつの間にやら空の赤は、黒の羅を重ねたように彩度を落としている。
それにしても妙だ。
背後で喚いている男もだが、先程気絶させた少女からも、誇天特有の薄ら寒い狂気は感じなかった。
少女はめちゃくちゃに小刀を振り回して叫んでいただけだった。誇天の思想に被れたというより、ただ自暴自棄になっていたように思える。
誇天も組によりそれぞれ色が有るから、一概におかしいと決め付けられないが、しかし確かな違和を感じた。
(……まあ良い)
考えるのは後だ。
今はとにかくこの場を終結させる必要がある。その前に、女性を安全な場所へ運ばなければいけない。
だというのに。
「感涙せよ! 日々の安寧に感涙し讃え跪き咽び泣け!」
邪魔だ。
男は鉈を振り回し辺りを威嚇している。
この後はどうせ、お決まりの自決だろう。彼ら曰く、日々の安寧を知らしめる為との事だが、迷惑なばかりである。
死にたければ好きに死ねと思うが、周りを巻き込むのは鬱陶しくてならない。
男が勝手に死んでくれるのを待とうかとも思ったが、そう悠長な事も言っていられない。
男の振り回す鉈が、周囲の混乱を助長させている。
女性をとりあえず離し男をどうにかすべきか、それとも別の道を行くべきか紫呉は迷った。
が、人ごみの中に知った顔を見つけ、紫呉はほっと息をついた。
「無理やり泣かせてそんなに満足?」
須桜は手に竹竿を持っていた。垣に使用していた竹だろう。
須桜はこちらに目配せし、顎をしゃくって空いた道を示した。
何だ、と男は吠えた。須桜は気にした様子も無く、軽い身のこなしで男の懐にもぐりこむ。
竿で男の顎を跳ね上げた。よろめく男の足を竿で払い、転んだ男の口の中に何かを放り込む。
「どうせ無理やり啼かせるなら、こっちの方が良いんじゃない?」
「な、何だ、これは」
「自白剤。媚薬とも言うわね」
くすりと笑みを漏らし、須桜は竿の先で男の体をゆっくりと撫で上げた。男がびくりと体を揺らす。それを楽しげに見おろし、須桜は飾り帯の兵児帯をほどいた。
「壱班来るまで頑張って我慢してね」
男の背後に回る。背で両腕をまとめ、帯で縛った。
男の顔が赤い。汗が浮かんでいる。男は時折もどかしげに体を揺らし、歯を食いしばって声を殺していた。
須桜がこちらに駆け寄ってくる。紫呉の頬と目に指を滑らせ、それから女性の足に目を留めた。
しゃがみ込んで女性の足に手を触れる。
「捻挫ね。結構ひどく捻ってるみたい」
立ち上がり、須桜は女性の目にも指を滑らせた。
「でも安心して下さい。ちゃんとした治療受ければすぐに治るんで」
言いながら、須桜は紫呉の肩の向こうへ視線を投げた。紫呉もちらりと背後を見やる。
先程の男がこちらを睨んでいた。汚れた包丁を手に、頼りない足取りでこちらに向かってくる。
「……畜生……あいつ、こんな、こんなひどい事……殺す、殺してやる……」
怨嗟の声をため息で払う。須桜に軽く肩を叩かれた。
「行って」
「頼みます」
任せて、と残し須桜は男に向かっていく。
「とりあえず、後で足袋は返して下さい」
その背に呟けば、須桜は首を竦めてひらりと手を振った。
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