流動する虚偽 17
斬られた痛みよりも先に、熱を感じた。
悲鳴を上げる紗雪の声が、やけに遠くに聞こえた。
斬られた腕がじくじくと疼く。傷を押さえる指の隙間から、血が流れ零れ落ちる。
(痛い)
困った。
これでは、しばらく見世を開けない。
嬢の手入れを最近おろそかにしていた。そろそろ頭を磨いて、髪型も変えてやらなければと思っていたのに。
「は、はは……あはぁははっはははは」
何を笑っている。
着物も新しく仕立てたいと考えていた。いつも赤系統の花柄を選んでしまうから、今度は紺や藍染めも良いだろうかと思っていた。
「あはははは、あああはは、ははは」
何がおかしい。
化粧も娘化粧ではなく、女化粧にして雰囲気を変えてやりたいと思っていた。
だが、この怪我ではしばらく細かい作業は出来そうにもない。
「……黙れよ」
ぽつぽつと地面に血が滴り落ちる。雪斗はそれを爪先でにじって消した。それでも血は止まらずに、溢れては地面を汚していく。
少年の笑い声が不快だ。雪斗は少年の胸倉をぐいと掴んだ。ひぃと息を呑む彼を思い切り殴り飛ばす。ぎゃっと少年が叫んだ。
尻餅をついた少年の顔を、もう一度殴った。拳がじんと熱くなる。
「ひ、……た、たすけ」
「あ?」
何を今更。
少年が落とした小刀を拾い上げる。鼻血を垂らし、ひぃひぃ言いながら少年は後ずさる。
不愉快だ。涙と涎で汚れたその顔が不愉快で仕方ない。
刃を振りかぶる。
「待って」
後ろから手首を掴まれた。するりと絡めるように小刀を奪われる。
雪斗の視界に、薄茶の長い髪が映った。それはまるで馬の尾のように、彼女の細い背で揺れている。
須桜は少年の顎を踵で蹴り上げた。少年は白目を向いて仰向けに倒れる。
「……須桜」
呆然と、雪斗は彼女の名を呼んだ。
須桜は雪斗から奪った刃を、己の指の腹に軽く滑らせた。
その指で、血を流す雪斗の腕に軽く触れる。
「大事な手でしょ」
ふ、と血の気が引いた。
冷や汗が吹き出る。
(……今、オレ……)
殺そうとしていたのか?
笑う少年が不愉快で目障りで、腹立たしくてならなかった。消えてしまえと、消してしまえと、そう思っていた。
怒りに飲み込まれていた。痛みも熱もどこか遠くに有った。
先程まで拳を固めていた手は赤く濡れている。少年の鼻血だ。それは己の腕から流れる血と交ざり、ぽたりと地面を濡らした。
口を押さえる。叫びだしたいような気分だった。
「全く、屯所に行ったら誰もいないし。置手紙通りここに来てみたらこの騒ぎだし」
全くもう、と頬を膨らまして須桜は紗雪の前に膝をついた。
「怪我は無い?」
「……あ、うん……。私は、無いけど……」
ぼんやりと紗雪は言った。
「あ、……で、でも……楓が……」
蹲る楓を紗雪はちらりと見た。そして何かに気付いたように、はたと目を瞠る。
「ねえ! 楓の傷……っ」
言いかけて、紗雪が口を噤んだのと、須桜が指先で紗雪の口を封じたのがほぼ同時。
楓の傷を治せないか、と言おうとしたのだろう。だがそう述べる事は須桜の身元を明かす事になる。
「……ごめん」
首を振り、須桜は先程傷つけた指先を紗雪の目元に滑らせた。次いで、楓の目と手にも血を滑らせる。
「たぶんそろそろ壱班が来ると思う。保護してもらって」
「う、うん、分かった。ありがと……」
立ち上がる紗雪に手を貸し、須桜はこちらを見た。何故だかぎくりと身体が強張る。
「平気?」
「……ああ…………」
「間に合って良かったわ」
ぐ、と息が詰まった。額にじわりと汗が浮かび、身が震えだす。
「次の見世、楽しみにしてる」
須桜はもう一度、雪斗の腕の傷に触れた。そして、愛らしい笑みを残し騒動の中に駆け込んで行く。雪斗は万感の思いでその背を見送った。
「……ほんと、良かった」
隣に来た紗雪が呟いた。身震いの止まらぬ雪斗の背を軽く叩く。
「戻ろう?」
「……そうだな。悪ぃ」
もう平気だ、と無理に笑って雪斗は歩を進めた。腕の傷は血が止まりかけている。須桜の血のおかげか。
家に戻ったら、とりあえず寝よう。寝て、食って、早く傷を治そう。傷が治ったら優里の元へ傘持ちを頼みに行こう。傷が治るまで傀儡は扱えぬが、謡いの練習なら出来る。
須桜が止めてくれて良かった。おかげでまた傀儡を操れる。
少年を殴りつけた拳はまだ熱を持っている。雪斗は逆の掌で包んで覆い隠した。
大きく息を吸い込んで吐き出すと、だんだんと身の振るえが治まっていくのを感じた。
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