哭雨 3
先程まで晴れていた空に、暗雲が群がりつつある。また一雨来るのだろう。
釈然としない気持ちを抱えたまま、紫呉は帰途についた。朝市に向かう人々の間を縫いながら歩く。
人ごみの中に、よく見知る赤銅色を見つけた。ふと顔を上げた彼女と視線がかち合う。紗雪は「あ」と声を上げた。
互いに歩み寄り、二人は向き合って足を止めた。
「どうしたの?」
「屯所に戻るところです。紗雪こそどうしたんですか?」
「何か甘い物でも作ろうと思って。市に行くところ」
「私塾は……」
「今日は休みよ」
「そうでしたか」
しばし無言が落ちた。
紫呉は、何か言うべきかと悩んでいた。里炎の組頭の弟である悠一と、彼女はそう浅くない繋がりが有る。
その悠一が処刑され、まだ日は浅い。
悠一の事に関して何か言及した方が良いのか、それとも何も言わぬ方が良いのか。
どちらの方が、彼女の傷を深めずに済むのだろうかと首を捻った。
紗雪は小首を傾げ、紫呉の顔を上目に覗き込んだ。
「……何か、もしかして私、気遣われてる?」
見抜かれた事に驚く紫呉に、紗雪はくすりと笑った。
「平気よ。もう、私の中で整理は出来てるもの」
だから平気、ともう一度言って紗雪は俯いた。首筋の傷跡はもう完全に消えていた。
「……って言うか、まだ、実感が無いって言った方が正しいかも」
紗雪は無意識にだろう、傷の有った場所をすいと撫でた。
「……本名……、源悠一って、言うんだって思ったわ」
「…………ええ」
何と声をかければ良いのか分からない。ただ相槌しか打てない、気の利かない自分を歯がゆく思った。
あの時、紫呉たちは里炎を壊滅せよという命を受けて動いていた。その命を遂行せんが為、紗雪の存在を利用した。その事は紗雪も知っている。
まだ悠一と繋がりの浅いうちに、紗雪と悠一を引き離しておけば彼女の傷も浅く済んだだろう。
だが紫呉はそうしなかった。徹底的に組を壊滅させろと、由月に命じられたからだ。
その命に異論を唱える事もできただろう。しかし、唱えずにいた。優先すべきは紗雪一個人よりも如月だと、里だと理解していた。
それに、瑠璃に、如月に叛いた里炎に報いるべしと、自分自身そう思っていたのも有る。
紗雪の心情よりも、里と自分の思いを優先させた。その結果、彼女の傷を深める事となった。
しかしそれでも構わないと、どこかでそう思っていた。紗雪がどれだけ傷つこうとも、どれだけ怒りを覚えようとも、もう自分には関係ない、と。
正体をばらし、利用していた事をばらせば、きっと彼女はもう自分達に近寄ってこないと思っていた。畏れと怒りとで、近づく事を厭うだろうと思っていた。
直接の交流を無くし、今後は遠巻きに監視対象として見張るつもりでいた。しかし今でも、以前と変わらぬ親交は続いている。
紗雪は、これからもよろしくと言ってくれた。嬉しさと申し訳なさで、どうしようもなかった。
責めてくれれば良いのに、と紫呉は思う。
自分を利用した紫呉を責め、詰って、蔑んでくれれば良いのに、と。
(……阿呆か)
自分が楽になりたいだけだ。責めてくれるのならば、許しを乞える。
「……何か、まだ実感無くてふわふわしてるの。多分もうちょっとしたら、色んな気持ちがガッて来てギャッてなってワーッてなると思うわ」
「分かりやすいですね」
紫呉は僅かに苦笑を漏らす。
紗雪の表情は明るくも暗くも無く、常の通りだ。紗雪自身が言うように、まだ実感が無いからだろう。
「その時落ち込むのか、よっしゃって思うのかは、私自身分からないわ」
でも、と紗雪は笑って紫呉を見上げた。
「最近、悠一に会えて良かったとか、ありがとうとか、思う事が多いのよ」
「……良かった、ですか?」
「うん。十割良かったでありがとうじゃないけど。もちろん、こん畜生ふざけんなって思う時も多いし」
自分の言い様に紗雪は苦笑する。
「……だって、おかげで黒官になりたいって気持ち、固まったから。だから、ありがとうって、思う」
やっぱりむかつきはするけどね、と付け加えて紗雪は髪を耳にかけた。
「……紗雪は強いですね」
「は? 強い?」
「ええ。とても、強いです」
紗雪はぱちりと大きく瞬いた。
自分には到底無理だ。騙していた人間を許すなど出来そうもない。しかもその相手に感謝するなど、理解しがたい。だからこそ、凄いと思う。
「紗雪のそういうところ、僕は尊敬していますよ」
紗雪は何度もぱちぱちと瞬いた。赤くなった頬をほりほりと指先で掻いて、ふいとそっぽを向く。
「……ふーん、そう。もっと褒めてくれても良いのよ?」
紗雪は肩にかかった髪を、手の甲で後ろにぱさりと流した。分かりやすい照れ隠しに、思わず頬が緩む。紗雪はむっと唇を尖らせた。
「……ちょっと。何笑ってんのよ」
「すみません。馬鹿にしてるんじゃないんですよ?」
「じゃあ何なのよ」
「何でしょう。……ああ、微笑ましく思っていました」
「やっぱり馬鹿にしてるんじゃない……」
「してませんって」
「……まあ良いわ、渋々許してあげる。あんたは未来の義弟なわけだし」
「義弟?」
「うん。私が由月様と結婚したらあんたは義弟でしょ?」
「……まあ、確かにそうですが」
確かにそれはそうなのだが、いきなり話が飛躍していないか。
「楓も拓也さんと仲良くやってるみたいだし、私も負けてらんないわ。過去よりも未来よ。悠一なんかよりもっとずっと良い男捕まえなきゃ。だから今日はとりあえず料理の腕を磨くの」
「仲良く……?」
今、聞き捨てならない事を言わなかったか。
ぐっと拳を固めていた紗雪は、急に低まった紫呉の声に首を傾げた。
「……え? うん。紫呉、二人の事知ってるの? あ、影虎さんから聞いた?」
「はい」
仲良くとはどういう事だと口を開こうとした矢先、紗雪は喜び半分妬ましさ半分といった調子で言った。
「楓から手紙が来たの。拓也さんと旅行中なんですって。しばらくは色んな所回ってくるって書いてたわ」
「旅行……」
紫呉は呆然と漏らす。
どういう事だ。不可能に決まっている。だって拓也は既に死んでいるのだから。
「羨ましいわ。やっぱ男捕まえるのって字も大事なのかしら。相変わらず綺麗な字しちゃってさ。あー羨ましいーむかつくー」
口ではそう言いつつも、紗雪は友人の吉報に嬉しげにしている。そんな紗雪に真実を告げられようはずもない。紫呉はただ曖昧に返事を返した。
(……どういう事だ?)
死人と旅行とは、いったいどういう事なのだ。拓也ではない別人と、楓は旅行に出かけているのか? それとも別人を拓也だと思いこんでいるのか? 馬鹿な。
もしや偽の手紙だろうか。いや、違う。紗雪は『相変わらず綺麗な字をして』と言った。手紙を書いたのは楓本人だという事だ。
(意味が分からない)
何故そんな手紙を出す必要が有る。何故だ。考えろ。
(……誰かに書かされたのか?)
誰かに浚われ、無事だと示すために書かされたのではないか?
もしや楓の生家にも同じ手紙が届いているのではないだろうか。ならば、両親が娘の不在を案じていない事も頷ける。
だとすると、いったい誰が楓を浚ったのだ。楓を浚って利益を得る者は誰だ?
(……男を殺した犯人か)
目撃していた楓が、壱班に駆け込むのを封じる為か。
いや、待て。では何故、紫呉の元には誰も来ない。紫呉も拓也殺害の現場にいた。だというのに、特に誰かが自分を監視している気配も無ければ、接触を図ろうとしている気配もない。
ああ、そうか。紫呉が立証できぬと分かっているからか。いくら紫呉が壱班に訴えたとて、紫呉の証言以外に証拠は無い。遺骸も凶器も無い。目撃者も無くしてしまえば、紫呉は身動きが取れない。
この考えを真実と仮定するなら、全ての事柄に一応の筋道は通る。
(だが固執するな)
他の可能性だって有るのだ。いくら筋が通ろうとも、推論の域を出ない。
「……あの、紫呉? どうしたのよ怖い顔して……」
恐る恐ると紗雪が尋ねてくる。紫呉ははっと気付いて謝った。
「すみません。何でも無いです」
「私、何か怒らせるような事言った?」
「いえ、そういうわけでは……」
だったら良いけど、と紗雪は長靴の爪先で土を掻いた。
「あんた只でさえ表情薄くて普段から怒ってるみたいな顔してるんだから、いきなり黙られたらびっくりするわよ」
「……申し訳なく、思いはしますが。……何だか不愉快です」
散々な言われように、紫呉は憮然と言い返す。
「あはは、ごめんごめん。あ、そうだ。由月様もそんな感じなの?」
あ、と指を立て、紗雪は少しばかり不安げな表情を浮かべた。
「そんな、とは?」
「無表情で無愛想で慇懃無礼。自分の旦那が常にむっすりしてたら嫌じゃない」
「喧嘩売ってるんですか?」
「ちょっと、睨まないでよ怖い」
「睨んでません」
少し目を細めただけだ。そんなに自分の目つきは悪いのかと、若干虚しくなる。
紗雪はしてやったりという顔をして、くすくすと笑った。
「ちょっとした意趣返しよ。いきなり黙られて無視されたみたいで、腹立ったから。で、どうなの?」
「どうって……ああ、兄様ね」
「そう。ちょっとでも多く知っておきたいのよ」
紗雪は両手の指を組み、きらきらと目を輝かせた。
紫呉は首を傾げ、視線を宙にやり、脳裏に兄の姿を思い描く。
「……どう、なんでしょうねえ……。とりあえず、慇懃無礼どころか普通に尊大ですよ」
由月の傲岸な態度を思い描きつつも、紫呉はふと思う。そうか、自分は慇懃無礼に見えているのか。まあ別に構わないが。
紗雪は眉を寄せ、顔を暗くした。
「えー……無駄に偉そうな男って嫌ね……」
「実際偉いですけど」
「そうよねえ……偉いんだものねえ……。うーん……身分もお金も言う事無いし……、顔も良いのよねえ……」
「顔が取り得みたいなところはありますね」
「褒めてないわよね、それね」
軽く握った拳を顎にあて、紗雪はうんうん唸る。表情は真剣そのものだ。
何にせよ、元気そうで何よりだ。元気すぎて、逆に心配ではあるが。空元気ではないかと疑ってしまう。
だがもし空元気なのだとしても、言葉をかけるのは野暮か。平気だと、紗雪は言っているのだから。
「ま、会う前からぐだぐだ言ってても仕方ないわよね。まずは会えるように頑張らなきゃ」
紗雪はぐっと両手の拳を固めた。
「とりあえず今日は料理して、その後がっつり勉強する事にするわ。あ」
空を見上げる紗雪につられ、紫呉も上を向いた。先程よりも暗雲が濃くなってきている。
「雨降りそうね。降られる前に買い物済ませなきゃ」
「すみません、足止めをしてしまって」
「ううん。それじゃあまたね」
「はい。お気をつけて」
紗雪は手を振り、雑踏を足早にすり抜けていった。
紫呉に背を向ける一瞬前、沈鬱な表情を浮かべた気がした。
低く遠雷が轟いた。