哭雨 4
屯所の戸をくぐる。ごろごろと低い雷鳴は今も続いているものの、まだ雨は降り出さない。
紫呉は自室から縁側に出て、空を見上げた。先程よりも雲は厚く垂れ込んでいる。暗さも増した。
湿気を多く含んだ風が髪を揺らす。低い位置を羽虫が飛んでいる。じきに雨が降る事は確実だ。
空を見上げる。また一つ雷が鳴った。だが雨は降らない。
降るなら降るで、さっさと降ってほしいものだ。はっきりしない。鬱陶しい。
紫呉は室内に戻り、縁側に面した障子戸を閉めた。
とりあえずは先日から着たきりになっている衣服を着替えるかと、袴の結び目に手をかけた。
が、ぴたりと動きを止めて押入れを見やる。ほんの僅かな隙間が有った。
紫呉はどちらかと言えば大雑把な質だ。決して几帳面ではない。現に自室は相応に無秩序である。
しかし、こういった隙間の類は苦手なので、箪笥だの押入れだの障子だの襖だのは、きっちりと閉じるようにしている。昔、隙間からどうこうという類の怪談話を聞かされた所為だ。
別に怖がっているわけではない。決して怖いわけではない。単なる癖のようなものだ。そうだ、別に怖いわけではない。
一つ息を吐き気を落ち着け、紫呉は押入れに向かった。閉じようと手をかける。と、中の人とばっちり目が合った。
勢いよく開く。スタンと高い音が鳴った。
「何をしているんですか」
「あ、気にせず着替えて」
押入れの中、布団に包まった状態の須桜は何事も無いように平然と言った。
「自室の押入れに見知らぬ小太りのおっさんがみっしりと詰まってたら、誰だって気にします」
「え、あたしって見知らぬ小太りのおっさんと同じ扱いなの?」
「むしろ見知らぬ小太りの汗かきのおっさんと同等です」
「紫呉、それはおっさんに失礼だと思う。おっさんだってなりたくて汗かきになったんじゃないし、なりたくて小太りになったんじゃないと思うの」
「うるさい。さっさと出ろ」
「もー……ケチー」
「ケチじゃない」
須桜は頬を膨らまし、ずるずると押入れから這い出した。布団に包まっていた間に乱れたのだろう、長い髪が眼前に垂れ、実に不気味な光景である。
「で? 何なんですか」
座って髪を括り直す須桜を横目に、紫呉は押入れをきっちりと閉じた。
「仮眠よ。ちょっと休憩しようと思って」
「仮眠するなら自分の部屋でして下さい」
「だって紫呉の何らかが身近に欲しかったんだもん」
須桜は言いながらじりじりと膝立ちでにじり寄り、胡座した紫呉にがばりと抱きついた。
「あーでもやっぱ布団よりこっちのが良いわー、生は違うわー」
胸元にぐりぐりと頬ずりをしてくる須桜の頭を引っ掴む。
「気持ち悪いんですけど」
「気にしなーいのー」
「気にします」
べたべたと背やら脚やらを撫で回す須桜の肩を掴み、べりっと音がしそうな程の勢いで紫呉は須桜を引き剥がした。
「えーやだ。もっと」
「断る」
「紫呉のケチー」
「ケチじゃない」
須桜の肩を半ば突き飛ばすようにして離すと、須桜は勢いに任せころりと転げた。不満の声を上げる須桜は無視し、少しばかり乱された単を整える。
別行動の後は大概こうして、須桜はふざけたフリで――フリだという事にしておくが――紫呉の怪我を確認する。もし怪我をしていたとしても、紫呉は須桜に告げぬ事が多いからだ。
軽症ならば、わざわざ須桜の手を煩わせるまでもない。それに、怪我を負った自分が情けなくみじめで、人の手を煩わせる自分が嫌になるのだ。
ついでに言えば、心配をされるのも嫌だ。いや、心配をしてくれる事は嬉しく思う。だが、心配をかけさせる自分が嫌だ。自分の力不足が嫌だ。
だから言わない。怪我を隠す。
紫呉の心情を慮って、須桜は心配している事を隠そうとする。ならば紫呉も、須桜の気遣いを慮って心配されている事に気付いていない事にする。
自分の小さな矜持を守りたいが為に、須桜には面倒をかけてしまっている。
それは分かっている。ちっぽけな矜持だと自身でも思う。だがやはり捨てきれない。
「須桜」
畳に広がる須桜の髪を一束掴み、つんと引っ張る。体を起こした須桜が首を傾げた。
「…………何でもありません」
面倒につき合わせてしまっている礼なり何なりを言おうとしたのだが、いざ面と向かうとどうにも言い辛い。結局は口ごもり、須桜に背を向けた。
須桜が笑う気配がして、次いで背中に重みを感じた。首を巡らせる。須桜が紫呉の背に背を預け、膝を抱えていた。
「そうだ。影虎が鳩飛ばしてきたの」
肩越しに渡された文を開く。昨日の一件に関する事や、雨が降る前に洗濯物を入れておけという指示があった。
「洗濯物は?」
「居間。面倒だから畳んでないけど」
濡れると影虎の機嫌が悪くなる。それは避けたい。
「……あ。雨、来ましたね」
「ほんとだ」
ぽつ、と地面を叩く音がしたかと思ったらすぐに、叩きつけるような土砂降りの雨に変わった。
障子越しに稲光が差し込んだ。しばらくの後、雷鳴が響く。そして廊下を足音高く駆ける音がしたかと思えば、勢いよく襖が開いた。
「よっしゃ、間に合った!」
濡れずにすんだー、と影虎は安堵の声を漏らす。
「おかえりなさい」
「おー、ただいま。須桜、お前どうせなら畳んどけよ」
「えー……。どうせあたしが畳んでも、もっときっちり畳めとかうるさいじゃない」
「それとこれとは別だろ」
「別じゃないわよ」
「つか、お前ら何仲良しやってんの」
背中合わせに座る二人を見下ろし、影虎は不審そうに眉を寄せる。須桜が肩を揺らして笑った。
「羨ましいでしょー」
「まあな。よし、俺もまぜろ」
「うわ、ちょ、影虎重い! 痛い!」
須桜を丁度間に挟み、影虎は紫呉の首に両腕を回して体重をかける。
「重いってばもう!」
「うっさい。紫呉お前体軟らかいな」
「毎日柔軟してますから」
両の足裏を合わせたまま、体重をかけられるにまかせ前のめりになる。紫呉は畳に額をつけた。
「首尾はどうでした?」
「結局見つからず仕舞い。壱班にも帰りに寄ったけど、捕まえた奴らも吐かず仕舞い。お前そのまま開脚とかも出来んの?」
「出来ますよ」
脚を開け、腹を畳みにぺたりとつける。ついでに前に腕も伸ばす。
「うわ、気持ちわるっ」
「どいてよー! 重い重いつぶれる!」
「軟らかい方が便利じゃないですか。怪我もしにくいし」
「まあなあ。お前俺の顔まで普通に蹴り届くしなあ。でもその状態はやっぱきもいわ」
「そうだ。須桜も首尾はどうでした?」
「戸籍調べて来たけ、どいてってば! もう!!」
「あだだだ蹴るなって」
ぼやきながら影虎は緩慢な動作で退いた。
ぜえはあと荒い呼吸をしている須桜の髪は、先程整えたばかりだというのにまた崩れてしまっている。
「もうっハゲ虎のばか!」
「お前が自慢するから悪いんですー、あと洗濯物も畳んでねえのが悪いんですー、あと俺は禿げてませんー」
「ああもう鬱陶しい! 小姑!」
「お前みてえな嫁とか勘弁だっつの」
「……となると、僕と須桜が夫婦で、僕と影虎が父子ですか」
それは何というか、勘弁願いたい気がする。
髪を括り直すのが嫌になったのか、須桜は結局結い紐をほどいた。首を振って、括り痕のついた髪を散らす。
「言われた通りちゃんと調べたわよ。おかげで寝不足。見てよこの隈、兄貴じゃあるまいし」
目の下を擦り、須桜はぶつくさと不平を述べた。
「で、どうだったよ」
「見つからず」
須桜には拓也の戸籍を調べるよう頼んでいた。肩を竦め、やれやれといった身振りで須桜は嘆息する。
「二十代男子の戸籍はくまなく調べたわ。でも条件に合致する瀬川拓也はいなかった。字違いの『たくや』はいたけどね。もしかしたら他人の名前を借りてるのかとも思って、他の年代の男子も調べた。何人か『瀬川拓也』が見つかったから、一応写しは取ってきたわ。あたしの部屋に置いてる」
「ありがとうございます」
「お礼は体で払ってよ」
にやりと笑って、須桜は紫呉にしがみついた。鬱陶しい事この上ないが、断って風呂だの寝床だの押入れだのに侵入される可能性を考えれば、これで礼になるのだと思えば逆に安いものかと思い好きにさせた。
が、やはり鬱陶しい。と言うより暑苦しい。肩を掴んで引っぺがす。
「しかし、偽名という可能性は無いんでしょうか」
「無いと思うぜ。楓ちゃんは『そのうち瀬川楓になる』っつってたし。拓也って呼んでたし。可能性は零ってわけじゃねえけど、やっぱほぼ零だと思う。惚れた相手にゃ本名で呼ばれたいだろ」
「粋な事を言いますね」
「っはは、お褒めに預かり光栄ですわ」
高い女声を作って言い、影虎は立てた膝に肘をついた。
紫呉は足元に寄ってきた黒豆を撫でた。柔らかな毛並みは湿気を含んでいる。
「しかし、瑠璃に戸籍が無いとなるとさ」
「……玻璃か」
影虎の言葉尻を奪い、紫呉は言った。
紫呉の声に、二人は視線を上げた。
障子越しの稲光が、二人の顔に陰影を落とす。
雷鳴が轟いた。
雨足は強くなりつつある。
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