哭雨 24
その後、用意してくれた白湯で喉の渇きを癒せば、腹の虫がぐうと鳴いた。葛湯で飢えを満たせば、今度は眠気が押し寄せてきた。どうにも己の身体は欲に素直にできているらしい。
何だかおかしいような気がして自嘲に唇を歪めれば、向かいに座った須桜が小首を傾げた。それに軽く首を振って何でもないと言外に示し、紫呉は幌のついた俥の外の風景に視線を流した。
紫呉たちは今、玉骨庵へと向かっている最中だった。皆一様に黒色の礼装に身を包んでいる。
中でも自分をはじめ如月の人間は、月紋の染め抜かれた羽織袴に黒留袖姿だった。仕立ての良い絹織は肌触りがよく、まるでぴたりと吸い付くように体に沿う。怪我を負った肌に触れても、さして気にならない程だった(痛み止めのおかげもあるのだろうが)。
路傍の紫陽花が霧雨を受けて、生き生きと葉を広げていた。その上をかたつむりがのたりのたりと這っている。
遠くに見える山の頂は雲に隠れて見えない。雲から山が生えているようにも見えたし、山が雲を乗せているようにも見えた。見慣れた光景のはずだが不思議なものだと、今更にそんな事をふと思う。
のどかな風景に反し、庵に近づくにつれ紫呉の心模様は漣だっていった。どうにも平静ではいられない。
表情に感情が出にくい質なのは知っているが、その分自分はどうやら目に感情が出るらしい(と、先日崇が言っていた)。
なので、感情を悟られぬよう紫呉は目を閉じた。腕を組み、背をもたせ掛けて俥の揺れに身を任せる。
そうするうちに眠ってしまっていたらしい。がくん、と大きく俥が揺れた拍子に紫呉は目を覚ました。と同時に自分が眠っていた事を知る。
俥を降りる他の皆に従い、紫呉も俥を降りた。眩しさに目を細める。
いつの間にやら雨はやみ、雲も随分と薄らいでいた。中天にさしかかった太陽の輪郭はぼやけ、まるで羅の衣を纏っているかのようだった。
門をくぐった向こう側、竹やぶに囲まれるようにして玉骨庵はひっそりと建っている。庵の庭園には季節の花が咲き、澪月の今は紫陽花や花菖蒲などが目を楽しませてくれた。
庵の入り口、石灯籠の側に三人の男の姿を見つけ、紫呉はすぅと目を細めた。指先がチリチリと焼け付くように痛む。
一人は、三十半ば程の見るからに屈強そうな男だ。短く刈った明るい茶色の髪に、垂れた若草色の瞳。人の好さを感じさせる朗らかな顔立ちをしているが、左頬から鼻筋を通り、右頬へと走る刀傷のおかげで強面に見えた。彼の名を、
二人目は、二十代後半と思しき男だ。彼は青味の強い銀の髪と空色の瞳を持っていた。伏し目がちの目や引き結ばれた唇は表情に乏しく、冷酷な印象を受けた。彼の名を、
そして三人目。彼は普段は適当な位置で適当な結い紐で適当に纏めている蜜色の髪を、今日は高い位置で豪奢な結い紐できれいに一つに纏めていた。が、疎ましく伸びた前髪は相も変わらず、今日も左目を覆い隠している。
彼は白絹の五つ紋を身に纏っていた。袖には同色の絹糸で流焔文の縫い取りが施されており、光の加減によってはいかにも真の炎のように写実的に浮かび上がる。
彼の紅緋の瞳が、こちらをひたと見据えた。その視線は僅かばかりとも笑みを含んでいない。
紫呉はその視線を受け止め、己もまた彼をひたと見据えた。拳を固め、乾いた口をゆっくりと開く。
「……ようこそいらせられませ、日生の若君」
紫呉の言葉を受け、日生加羅は笑った。
曇天と晴天がすれ違い、雲間から光が零れ落ちる。陽光を双肩に負い笑う加羅の姿は、いっそ暴力的といって良い程に美しかった。
ザアと風が二人の間を駆け抜ける。
雲は晴れ、かんと澄んだ青空に虹が笑い出す。
だがしかし、この身の内に降りしきる憎悪と怨嗟は、今もなお。
- 【了】
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- AN-EPISODE 虚の蛹