哭雨 23
しばし無言が落ちた。三人とも口を噤み、それぞれ思案にふけっていた。
ふと須桜が立ち上がり、襖へと向かう。先程部屋に入ってきた折、開け放したままになっていたのを思い出したのだろう。
襖に手をかけた須桜が、ぴたりと動きを止めた。そして膝をつき、深く頭を垂れる。
近づいてくる気配を察し、紫呉は体を起こした。正座して訪問を待つ。
「起きたか」
由月だ。彼は礼装に身を包んでいた。何故、と口にしようとしたが、それよりも先に由月が口を開いた。
「破天に狙われ頭に血でものぼったか? 浅慮だな。……愚かしい」
閉じた扇を口元に沿え、吐き捨てるように言う。膝を崩して座ったままの影虎は、苛立ちを隠そうともせず由月を睨んだ。
「おや、何か言いたそうだな。役立たずの癖に偉そうに」
「んだと?」
「祭にまでには帰る、と言ったのは誰だ? お前だろう」
と、由月は扇子の先で影虎を指した。
「そのくせお前は祭までには帰ってこなかった。そして主に傷を負わせた。お前が側にいれば紫呉もこんな目に遭わなかったかもしれないのにな。役立たず以外に何と言えば良い?」
ぐ、と影虎は言葉を詰まらせる。
「須桜」
「……は」
「その様は何だ? 己の身すら護れぬならお前も同じく役立たずだ」
「兄様、お言葉ですが
「黙れ」
鋭い叱責に、紫呉は二の句が継げなくなる。
「お前がとやかく言うな。全てお前が招いた事だ。一番弁えるべきはお前だ、紫呉」
由月は座し、手にした扇子を膝に打ちつけた。パンと高い音が鳴る。
「この愚か者め」
声に含む怒りはそのままで、由月は静かに言った。
ふと紫呉は思い出す。以前、由月に言われた。――お前はいつか女に刺されて死ぬ気がするよ。
期せずその言葉が真になりかけたのかと思えば、何だかおかしいような気がした。が、この場面で笑えるはずもない。
由月は呆れたように長く長く息を吐くと、扇子で紫呉の側頭部を軽く叩いた。
叩かれた側頭部が妙に痛むと思えば、それもそのはずで、そこは棍で打たれた箇所だった。手を伸ばせば包帯の感触がした。ついでに言えば伸ばした手にも小さな傷が多々有って、我ながらひどいものだと思った。
「……この愚か者め」
今度は扇ではなく指先で紫呉のこめかみに触れ、由月はもう一度繰り返した。声は変わらずに怒りを含んでいる。細められた目も顰められた眉も、立腹の態そのままだ。
そして由月は全ての感情を押しやった顔と声で言った。
「支度をなさい」
「支度?」
「ああ。日生の方々が此度の騒動の慰問に来られるらしい」
お前たちも用意をしろ、と影虎と須桜に告げ、由月は部屋を後にした。タン、と高く音を立てて襖が閉められる。
「……慰問」
慰問といえど、瑠璃の里(もとい支暁殿)まで訪ねてくるわけではない。玉骨と呼ばれる里境の塀の付近には、日生との会合のために設えた閑寂な庵がある。何かの折にはそちらまで双方が出向く事となっている。
閉じられた襖を眺めていた紫呉だが、何だか急に疲れに襲われてどさりと仰向けに布団に沈んだ。傷に響いてしばし呻く破目となり、何をしているのだと言いたげな二人が呆れ顔で見おろしてくる。
紫呉は片腕を目の上に乗せて、視界を遮った。そうすれば何も見えなくなるだろうと思ったのに、閉じた瞼の裏には光の残像が赤く残っており、その色は誰かの瞳を思い出させ苛立ちが募るのだった。
自然と己の胸元を探るが、そこには目当ての物はない。舌を打つ。
すると、側頭部を軽く何かではたかれた。腕をずらして見やると、見慣れた煙草の箱だった。
「一本だけな、病み上がり」
「……怪我の後でも病み上がりと言うのでしょうか」
「知るか」
箱を漁り、一本取り出し箱を脇に置いた。不精に任せて寝煙草と決め込む。
くゆる紫煙を目で追う。紫呉は煙草の味よりも、こうしてぼんやりと煙を見ているのが好きだった。それから、この香りに包まれるのが。
そろそろ灰が落ちそうだ。紫呉は一度うつ伏せて肘をつき、なるべく傷に響かぬようにして体を起こした。
須桜が用意してくれた灰皿に灰を落とし、しばしの逡巡の後、結局火を消すことにする。
「用意をしておいてくれますか」
日生との会合となれば、五つ紋に身を包まなければならない。それに禊もせねばならない。
煙草の箱を手に、ゆっくりと立ち上がる。ぐらついた紫呉を須桜が支えた。
「平気?」
「……ええ」
情けない。立ち上がるだけでこの様だ。
「ほんとに大丈夫? お腹空いてない? あ、あとで葛湯か何か禊場の前まで持っていこうか? あとそれから白湯とか……」
「ええ、お願いします」
須桜の肩を軽く押して平気だと示し、紫呉は一人で立った。禊場へと向かう。背中に心配げな視線を感じたが、気付いていないフリで歩みを進めた。
禊場の戸を閉めるなり、紫呉は背を壁に預けずるずるとしゃがみ込んだ。
どうにも体が重かった。手足から何からとにかく重くてだるくて、身の内には中途な熱を抱え込んでいた。
傷の痛みは薬が効いているのか、無理な動きをしない限りさほど気にはならない。だが心臓が血液を送り出すのに合わせて、どくどくと脈を打っているのが妙に鮮明に感じられた。
呆と瑠璃天井を見上げる。雨は先程よりも幾分か小雨になったようで、叩きつけるような音は聞こえてこない。だがその分風の強さが増したようだ。風に舞った雨粒が瑠璃天井に微細な影を落とし、複雑な紋様を描いていた。
その様を眺めながら、紫呉は考える。吉村楓は、最期に何を想っていたのだろう。
夜闇の中に見た彼女は、最期の瞬間も笑っていた。笑って、夜空を見上げていた。その目にあの曇天が見えていたのかは知れぬが、暗い眼には雨空が映り込んでいた。
彼女は笑っていた。腹を裂かれたのに。皮膚も、肉も、血管も、骨も、臓物も、彼女の命を構成する全てを斬り裂かれたというのに。
そうだ。この手で、彼女を斬ったのだ。彼女の柔らかな腹を斬り裂いたのだ。紗雪の、友人である少女を殺したのだ。
(……だから何だ)
友人だから、何だというのだ。関係ない。楓は己に刃を向けた。だから殺した。だから排除した。そうしなければ、己が死ぬと思ったから。
楓以外にも斬った。何人斬ったか知れぬ。もとよりあの場に何人いたのかすら分からない。ただとにかく、排除せねばと、生き抜くと、そう、考えて、そう考えて斬った。
楓は言っていたか。
『三吉さんと、舞さん、すごく幸せそうだったよ。二人目が生まれたんだ、って、……すごく……』
二人目、という事は彼らは人の親だったのか。その三吉さんと舞さんを、紫呉はどうやって斬ったのか覚えていない。というよりも、三吉さんと舞さんがどれだかすら知らない。ただ、刃を向けられたと、そう記憶している。あの場にいた全員に、敵意を、殺意を向けられたと。
だから、だから斬った。あいつらが僕を斬ろうとするから。だから。だから殺した。そうしなければ自分が死ぬから。だから。
そもそもあいつらが刃向かうのが悪い。如月に楯突くのが悪い。そんな馬鹿げた事を考えなければ、死なずにすんだものを。
楓だって、死なずにすんだものを。
吉村楓は、最期に何を考えたのだろう。何を想って、笑っていたのだろう。憎かったろうに。恋人を殺した(と思い込んでいる)僕に斬られて、命を奪われて、憎かっただろうに、何故、笑って逝ったのだろうか。
なあ、憎かっただろう。楓も、三吉さんとやらも舞さんとやらも。僕を恨んで、憎んで、そして死んだんだろう?
なあそうだろう? だって僕は憎い。憎かった。昔(という程昔ではないが。まだ過去にはできないが)加羅に斬られて僕はあいつを憎んだよ。痛くて苦しくて悲しくて、怖くて恐くて、叫びたかったよ。今も憎い。出来るのなら殺してやりたいさ。
きっと、翔兄もそうだっただろう。首を斬られて(僕を護った所為だ)恨んだだろう。お前が、僕がいなけりゃ死なずにすんだ、って、ねえ翔兄、そう思ったでしょう?
でも最期に、翔兄が本当は何を考えたのか、何を想ったのか僕は知らない。だって僕の前に倒れた翔兄の体には首が無かったから。最期に翔兄がどんな顔をしていたかなんて知らない。だって、首は、どこかに転がっていったから。首から溢れる血を止める事も首を拾いに行く事も名を呼ぶことさえも出来ずに、僕の意識もどこかに飛んでいってしまったから(そして次に目を覚ました時には翔太は白い布に包まれた小さな箱に収まっていた)。
翔兄には恋人がいたのに。部下にも慕われていたのに。なのに死んだ。僕を護ったから。僕があの場にいなければ、僕がもっと強ければ、死なずにすんだものを。
そもそも、僕が刀を手にしなければ良かったんだ。そうすれば何も、誰も、死なずにすんだかもしれない。今も、笑って生きていたかもしれない。吉村楓も三吉さんも舞さんも、翔兄も。
そうだ、あの日、あの時、あの場所で、加羅が僕を刺したから。あいつが、僕に憎まれるような事をするから。そんな事をしなければ、僕は力なんて求めなかったのに。
全部加羅の所為だ。全部、全部全部全部。全て加羅の所為なんだ。全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部。
「…………ははっ」
違う。
分かってる。
選んだのは自分だ。
力を求めた。強くなりたかった。憎かった。加羅が憎くて、僕を殺そうとした加羅が憎くて、護られているだけの自分が嫌で(あの時だって僕を護って影虎は片足を失った)だから強くなりたいと願ったんだ。
『願っているだけじゃあ何も手に入らないよ?』
『私の駒になりなさい。お前の牙に餌を与えてやろう』
そう言って鳥獣隊へと誘った由月の手を取ったのは自分だ。この道を選んだのは自分だ。
全部、自分が選んだ結果だ。
紫呉はせりあがる吐き気を、唾と共に飲み下した。だが押さえきれず、這い蹲って胃液を吐いた。
酸の味が口中に広がる。不味い。胃が引き絞られるように痛む。
「……目を、背けるな」
背負え。
生き抜け。
抗って、しがみついて、生き抜いて、そして死ね。
この命は数多の命の上に在るのだから。
「……目を背けるな……」
血に快楽を覚える、自分自身からも。
紫呉は汚れた口元を拭い、体を起こした。煙草を箱から取り出し、火をつける。震える指先が情けなかった。
ジジ、と音を立てて燃える煙草の先に視線を落とす。深く息を吸えば吸うほど、炎はその赤の色を濃く染めた。
慣れた煙草の香りに安堵を覚えた。まるで翔太が側にいるような気がしてくる(そんな事あるわけも無いと分かってはいる)。
煙を吐き出し、泉に足をつけた。波紋の広がる水面には、どことなく薄汚れた風体の己の姿が映っている。唾でも吐きかけてやりたい気分だった。
今も、鮮明に残っている。覚えている。楓の腹を裂いたあの感触。あの高揚(紗雪の笑顔が脳裏によぎった)。
加羅は、どうだったろうか。紫呉の腹を刺した時、斬った時、翔太の首を落とした時、彼は何を思っただろう。何を感じただろう。
なあどうなんだ。罪悪の一つでも感じたか? それともお前も快楽に呑まれたか?
ああ、そうだと良いな。そしてお前も苛まれていると良い。そうでなけりゃ卑怯ってもんだろう。
紫呉は喉を引き攣らせるようにして笑った。
(卑怯なのは僕か)
紗雪に、真実を知らせぬと決めたのだから。
だとて、どう伝えれば良いのだ。真実そのままを告げれば良いのか? 楓が破天に組し、紫呉を殺そうとして、そして紫呉に斬られて死んだと、そう伝えれば良いのか? まだ源悠一の一件の傷も癒えていないだろうに。
いや、そう考えるのはおこがましいか。あの一件に巻き込み、騙し、利用し、そして傷つけたのは自分達なのだから。
しかし、傷つくと分かっていて真実を告げるのはやはり抵抗があった。
ならば、嘘を貫き通す。この嘘を真実にする。その方が良いように思えた。
気がつけば煙草が随分と短くなっていた。紫呉は火を消し、吸殻に砂を被せた。ついでに先程吐いた胃液にも砂を被せておいた。
全身を泉に浸す。傷に沁みて痛んだが、熱を孕んだ体に水の冷たさは心地良かった。
もしも楓が紗雪の友人ではなく、ただの破天の者だったらこの罪悪感は多少なりとも薄らいでいただろうか?
それとも、楓が紫呉に対するまでに何人かを殺め手を汚していたとすれば、安っぽい正義感にでも酔えただろうか?
紫呉は水面に顔を出し、大きく息を吸った。息を吐き出すと同時に、感傷も全て体の外へと吐き出す。考えても詮無い事だ。
結局のところ何であれ、己はどこまでも人殺しだ。