瑠璃の昼行灯 零 2
紗雪は儚げに手の甲で涙を拭い、心中で毒を吐き散らかした。
(まったく……腹が立つったら)
あんな馬鹿にのこのこ付いてきた自分が馬鹿だった。何か甘い物でも奢るよ、といった言に惑わされた自分が愚かだった。私塾を終え、脳を総動員させた後だったのだ。きっと判断力が鈍っていたに違いない。
むかむかと湧き上がる感情を、紗雪は濃い茶で流し込んだ。さっさと帰ってしまおうとも思ったが、一応紗雪の分まで払ってくれたようなのだから、全部味わっておかなければ勿体ない。
ここ、悠々館はお茶も菓子も絶品である。せっかくの美味い菓子を、あんな馬鹿の為に捨てるなんて勿体なさすぎる。
手付かずだった金鍔焼を楊枝で切り分け口に運ぶ。上品な甘さが心の棘を抜き取っていくようだ。
小さな幸せを噛みしめる紗雪の耳に、ふと、聞き馴染んだ左右非対称の足音が飛び込んできた。
「よ。見てたぜ?」
彼は紗雪の前に腰を下ろし、くつくつと肩を揺らして笑った。
栗皮茶の髪は、痛みの為かところどころに橙が交じっている。だらしなく着崩した袷の下には
渋く、地味な色合いの着物を彼は好む。今日は朽葉色の袷を身につけていた。
少し垂れ気味の桃色の目は、甘ったるく整った顔立ちに華を添えていた。着る物は地味ではあるが、だからこそか、彼の艶やかな桃色の目は、一層際立って鮮やかに見えた。
「紗雪ちゃんはウソ泣き上手なあ」
少し低めた声で彼は言った。苦笑しながら髪をかき上げる。左手首の、黒曜石の数珠が軽やかな音を立てた。
「ちょっと、人聞き悪い事言わないでよ影虎さん」
「だから小声で言ってるっしょ?」
彼の名を影虎と言う。と言っても、本名ではなく渾名だ。本名は影山政虎と聞いた。それを縮めて、影虎だ。彼は紗雪の四つ上、二十一歳になる。
「……だって、イイ女になる為には涙くらい操れなきゃじゃない?」
「イイ女、ね。計画は順調?」
「んー……、ぼちぼちねぇ……」
紗雪は肘をついて唇を尖らせた。疲れた目をして長く息を吐く。
紗雪は現在、ある計画を実行中である。
その名も『姫計画』。
イイ女になって、好みの男を捕まえ悠々自適の暮らしを送る、といった物だ。
その為には、経済力のある男性を伴侶に選ぶ必要が有る。そういった、金と地位を兼ね備えた男性は瑠璃七官に属する官吏だろう。
官吏を捕まえる為には、自分も官吏になれば良い。そうすれば自然と関わりも多く、深くなるに違いない。
もちろん料理やお茶などの自分磨きも忘れていない。殿方好みの女とは如何なる女か、といった研究にも事欠かない。
官吏になり、イイ女になり、そして果てには好みの顔をした、金も地位も有る官吏を手中に収めるのだ。
それが『姫計画』である。
その為、紗雪は官吏になる為に猛勉強中なのだ。
瑠璃の民は、六歳から十歳までの子供は義務教育として無料で公文所へ通える。十歳までの子供ならば中途入学も可能だ。
公文所卒業後は個人の自由で小学へ通える。小学の課程は四年。
それを終え、四年の大学の課程を終えた暁に、ようやっと官吏の受験資格が与えられる。
大学入試試験は年に一度。最も冷え込む
大学入学試験にはさまざまな問題が出題される。歴史、法学、医学……。あげていけばきりが無い。その為、自主学習では覚束ないところを私塾に通って学ぶのだ。
現在は
先月桜が散った時、紗雪の桜もまた散った。つまり、試験落第の文が届いた。
試験は難関、狭き門である。一度や二度の落第はざらだ。むしろ一度の試験で受かる事など、早々無い。受かれば神童ともて囃されるほどだ。
しかしそれでも悔しい。紗雪の上の兄は、一度で大学試験に受かったからだ。そして官吏登用試験にも、一度で合格している。この春から兄は晴れて、戸籍・教育を司る黄官の一員だ。
先だっての試験は、紗雪にとって二度目の試験だった。今年こそはと思っていただけに、悔しくてたまらない。
若いうちに大学に入り、卒業し、官吏試験に受からなくてはと、気が急いてしまう。遅くなればなるほど、希少価値は薄れていってしまうからだ。
薄れるという事はつまり、注目度が下がるという事。注目されなければ、未来の伴侶を捕らえるのも、難しくなってしまう。
敗因は分かっている。座学では私塾でも常に首位を物にしている。しかし、実技でいつも躓いてしまうのだ。
応急手当などの実技はまだ良い。紗雪が不得手なのは、実戦だ。組手や、薙刀(男子の場合は刀剣)などが嫌でたまらない。だって、痛いのは怖い。
瑠璃七官のうち、軍事を司る赤官ならば小学卒業者に受験資格が与えられるが、試験は実戦に重きを置いている。そんなのは以ての外だ。
実戦訓練を怠ってはいない。しかし、刃を潰しているとは言え、武器を手にするのは苦手だ。武器を手にした相手と向き合うのも苦手だ。体が竦んでしまう。
これではいけないと分かっている。訓練も積んでいる。しかしいつこの壁を乗り越えられるのかと思う。
紗雪はもう一度大きく息を吐いた。影虎が苦笑いを浮かべる。
(ああもう……)
最近は、本当に夢を掴めるのか不安に感じる事も有るほどだ。
「……ほんとにもう、ほんっとぼちぼちって感じよー……」
金鍔焼の最後の一欠けらを口に放り込み、紗雪は机に突っ伏した。
「あらあら、お疲れ様なあ」
「うん、お疲れなの。……慰めて?」
「……お兄さんをからかわないの」
悪戯っぽく上目に影虎を見上げると、影虎は苦笑して紗雪の頭を軽くこづいた。
影虎と出会ったのはもう随分前になる。一年経つか経たないかといった所だ。
それは私塾帰り、市に買い物に来た時の事である。『姫計画』遂行の為、料理の腕前を上げようと材料を買いに来た。
そこで紗雪は、真剣にネギを見つめる青年に出会った。ひょろりと長細い、甘い顔立ちをした青年が真顔で、鋭い視線をネギに送っているのは異様だった。
ふと青年が顔を上げる。ばっちりと目が合った。彼は視線を彷徨わせ、逡巡の後、すみませんと紗雪に呼びかけた。
『……これ、一緒に買ってくれませんか』
これ、と彼はネギを指差す。その隣には『お一人様お一つ限り』の張り紙。紗雪は呆れながらも快諾した。
それが出会いだった。以来彼や、彼の仲間とは随分親しくしているが、恋心はどうにも芽生えない。
影虎はまあ、美形、とまでは言わないが悪くない顔立ちをしている。色男、と呼ばれる部類だろう。今も、茶屋の一角に座した少女達が、ちらちらとこちらに視線を投げかけている程だ。
しかし好みではない。
もう少し、甘さよりも爽やかさが勝った顔立ちが好みなのだ。失礼だが影虎は甘さの方が勝ってしまっている。
甘いながらも爽やかで、それでいて柔らかくも凛とした、雅やかでありながらも親しみの持てる、人懐っこい顔立ちが好みなのだ。無理難題承知であるが、理想を述べるのは自由だろう。
失礼だが影虎は、全部が全部反しているわけでは無いが、ぴったり符合しているわけでも無い。
それに、彼はどうにも所帯じみている。所帯じみすぎている。一人の男性というよりも、兄、いやそれを通り越し『母』という感が否めない。
くすりと笑って、紗雪は体を起こした。
「お兄さんっていうよりお母さんでしょ?」
「おや、悪いお口ですこと」
「いーひゃーいー」
両頬を抓られた。紗雪は首を振ってそれから逃れる。
「もうっ、おバカ。腫れちゃったらどうしてくれんのよ」
「そうなあ。責任取ってどうにかしてやるかしてやらんかはまあともかく、とりあえず何かはしてやるよ」
「結局どっちよ。ていうか私は何されるのよ」
「さーあ?」
「適当に言ってるでしょ……」
両手で頬を押さえ、恨めしげに影虎を睨む。影虎は可笑しげに肩を揺らした。からかわれているのだ。
一つ息を吐いて、紗雪は話題を変えた。
「それはそうと、影虎さん何でここにいるの? 買い物? ……じゃないわよね、荷物持ってないし」
「んー。まあ、お仕事。見回り帰りですわ」
「ああ……こないだの事件の? やっぱりまだ終わってないのね」
「そ。まだ残党がねえ、わさわさいて大変なんだよ」
影虎は肩を押さえて首を回した。ごきりと良い音が鳴った。
先日、七日ほど前の事だ。
破天党の者が青官の下官数名をかどわかし蔵に立てこもる、という事件が起きた。その場に紗雪は立ち会った訳では無いが、その時の、里全体に蔓延した騒然とした空気はまだ記憶に新しい。
瑠璃には二つの党が存在する。
破天党は『
誇天党はその真逆に、『
破天と誇天。
思想としては根付いているものの、どちらの党にも属さない民がほとんどである。実際に活動をしているのはそれぞれ『組』を作り、宗を貫こうとしている者達だけだ。中には過激派もいる。
その、過激派の一派が騒ぎを起こした。件の組の名を『
彼ら里炎組は役人と桔梗の交換を要求した。
しかし桔梗はその要求を跳ね除けた。
だが役人を見捨てたわけではない。桔梗は瑠璃治安維持部隊乾第壱班と第弐班に救助を要請した。その結果、怪我は負ったものの、役人に死者はいなかった。
影虎はその、瑠璃治安維持部隊乾第弐班に属する者だ。
瑠璃治安維持部隊は壱班から肆班まで存在する。
壱班は警察機構だ。
弐班は特警と通称される、武力特化された班である。主に今回のように、対破天要員として動員される。目の前で肩凝るわーと呟く青年が、本当に『武力特化』されているのかと、疑わしく思わないでも無いのだが。
とんとんと肩を叩いていた影虎だが、ふと店の外に目をやって、慌てて腰を上げた。
「うお、もうこんな時間だし。やっべ」
つられて紗雪も外を見る。空の隅が茜に染まり始めていた。
「俺帰って、あいつらに晩飯作ってやんねえと。紗雪ちゃんも来る?」
「え、良いの?」
「おー。最近あいつらに会ってないっしょ。あいつらも会いたがってるしさ。それに気分転換にもなるんじゃね?」
「あー……うん」
紗雪の父は瑠璃七官の一つ、法律を司る青官の長である。
先日の事件では青官の下官が巻き込まれた。その事後処理やら何やらで父はピリピリしている。
いつもきれいに撫で付けられている赤銅色の髪はぼさぼさだし、もとから険のある奥二重の目は、いつも以上に鋭く近寄りがたい雰囲気を増幅させている。
目に見えて疲労が激しかった。ためらいがちに声をかけると、お前に心配されるほどの事ではない、と冷たい声が返ってきた。
父は支暁殿の側の、官舎で多くの時間を過ごす。家に帰ってくる事は少ない。ただでさえ少ない在宅時間が、今回の事件で更に少なくなり、母までもイライラしている。今は少し、家にいるのが息苦しい。
店主に礼を言い、店を後にする。白茶けた路の続く通りを並んで歩いた。
「ま、とりあえずは俺らんとこでゆっくりしてけば?」
「あ、うん。……ありがとう」
「いいえー」
隣でうんと影虎が伸びをする。それを横目に見やって紗雪は腕を組んだ。
(流石は『母』ね……)
この、決して相手に押し付けない気遣いの仕方は是非盗むべきだと、紗雪はこっくりと頷いた。