瑠璃の昼行灯 零 1
一
だがしかし、やはり好みではないのだ。
「……無理って……どうしても、無理かな……?」
目の前で項垂れる男に、紗雪は伏し目がちに頷いた。赤天鵞絨の敷かれた腰掛を無意味に引掻く。
午後の茶屋には笑い声がさんざめいていた。少女達の軽やかなお喋り。はしゃぐ子供を、母親が苦笑混じりに嗜める。
和やかな空気の中、紗雪の座った一角には暗い空気が満ちていた。
机の上で握り締めた男の拳に、ぎゅっと力がこもる。彼は筋肉のついた大きな体を丸めて、溜息をついた。
短く刈り上げた黒髪に、濃く太い眉。くっきりとした二重瞼の大きな目。何よりもまず目が行くのは大きな鼻だ。少し上に向いた鼻は、愛嬌が有ると言えば聞こえは良いが、紗雪にはどうにも受け付けない。
彼は同じ私塾に通う、二つ年上の青年だ。同じ組の十五名の中では、いつも輪の中心になっている。
成績は下位。以前の模擬試験の順位は、下から二番目だった。本気出してなかったんだって、とわざとらしい大声で笑っていたのを覚えている。
やはり好みではない。
申し訳ない事に、顔も好みではないが、中身も好みではない。オツムの軽さも、好みではない。ついでに言えば、装いも好みではない。
ただでさえ濃ゆい顔立ちをしているというのに、それを際立たせる柄物の袷に、目に痛いほど明るい赤色の帯。それに合わせたのかはいざ知らず、赤い鼻緒の下駄。この趣味も好みではない。
「……俺の、どこが無理なのかな……?」
どこ。
何から何まで受け付けないのだとは流石に言えない。紗雪は俯いて、ただ謝った。
机の上の男の拳が、緩んで、ほどけた。
男は頭を抱え、そして、勢いよく拳を机に叩きつけた。
喧騒が止んだ。
茶屋に不自然な沈黙が満ちた。
「……調子に乗るなよ」
ぶるぶると拳が震えている。
「俺がここまで下手に出てやってんのによお……。舐めんなよ、俺が今日誘ってやったのはなあ、あまつさえ好きだって言ってやったのはなあ、お前が青官長の娘だからってだけでなあ、別にお前の事なんて、これっぽっちもなあ、気になってやしないんだよ」
なあなあうるさい。
とは口に出さず、紗雪は唇を噛んで男を見上げた。茶屋の客の視線が自分達に集まっているのを感じる。
さて、この馬鹿男をどうしてくれようか。
紗雪は心の中でにやりと笑った。
「……そんな……ひどい……っ……!」
口元を両手で覆い、ぽろりと涙を零す。男はぎょっとして体を強張らせた。
沈黙がさわりと波立つ。茶屋の客達の好奇の視線が、憐憫の視線に変わったのを紗雪は感じだ。
さわさわとざわめく周囲を見回し、男はぱくぱくと口を動かす。が、声にはならない。額に玉の汗が浮いていた。
「ちょ、お前……っ……。お、俺の所為じゃないからな!」
周囲に言い訳をして、男は立ち上がる。そそくさと逃げ出そうとする男を、店の入り口で店主が捕まえた。代金の要求をしている。気を利かせてか、紗雪の分の茶代まで要求してくれている。
畜生覚えてろよ、などと使い古された負け犬台詞を残し、男は足早に立ち去っていく。途中、一度躓いた。
紗雪は口元を覆う両手の下で、こっそりと舌を出した。
今を遡る事、二百年も前になるだろうか。今は二璃の里が在るこの樹海の奥地には、騒乱が耐えなかった。覇権を争い、様々な小部族が争いを繰り返していた。
それを治めたのが、如月桔梗と日生焔という、二人の男だ。 彼らはそれぞれ、着々と勢力を拡大し、部族を自分の下に従えてきた。そして最終的に残ったのがこの二人を頭とする、瑠璃と玻璃の二つの勢力だった。
彼らはこれ以上の争いを望まず、互いに手を取る道を選んだ。だが連合という形を取れば、今まで争ってきた者同士だ、いずれ離反する者も現れるかもしれない。それを恐れ、二人は独立体制を保ちつつ、相互扶助の約束を誓った。
以来、瑠璃は代々如月が、玻璃は代々日生の者が治めている。
初代の如月の長、桔梗の名を襲名し、今は第十二代目の如月桔梗が瑠璃の長だった。
如月の御殿――玻璃の
その乾の片隅の茶屋に、少女はいた。年の頃は十七・八。
赤銅色の髪は、肩を僅かに過ぎる程。華やかな顔立ちの中の、髪と同色の奥二重の目は、少し吊り気味の所為か気の強い印象を与える。
すらりとした身に纏う衣は、梅鼠色の袷に焦げ茶の袴。双方に無地である。
ちらりと覗く半襟は市松模様。帯や裏地、襦袢にも柄が覗く。それが決してうるさく見えないあたりに、彼女の趣味の良さが窺い知れた。
足元は編み上げの
彼女の名を、坂崎紗雪と言う。