瑠璃の昼行灯 零 12
自分の咳で、紗雪は目を覚ました。天井の模様が歪んで見える。
すぐに体調を崩すのが、自分の悪いところだ。少し疲れただけで、すぐに寝込んでしまう。
今日も私塾が休みで良かった。枕もとの水差しから水を注ぎ、喉を潤す。
もう一度体を横たえた。
ぼんやりと紗雪は天井を眺めた。単調な木目。二つ並んだ薄い染みが、まるで目のように見えた。
紗雪は目を閉じた。
それでも尚、黒い視界には二つの色が残っている。明りの残像だ。そう分かっているのに、やはりそれは目に見えて、心地が悪かった。
昨日の光景を思い出す。
白刃。
紅。
男の背を踏みつける紫呉の姿。
嘲弄の声音。
冷ややかな黒い双眸。
何故、あんなにも冷静でいられるのだろう。人を斬ったというのに。
確かに、紫呉のおかげで少女は救われた。爆発の危機からは救われた。そこに居合わせた自分も救われた。
だが、背が冷えた。
怖いと思った。
刀を手にした紫呉が、全くの別人に思えた。
雨の音が聞こえる。
まるで拍手のようだ。
紗雪は、自分が傀儡師になる夢を見た。
体がだるい。
そりゃあそうだ、昨日は一日中眠ってばかりだったのだから。背中やら肩やらがじんわりと痛む。
寝転んだまま腰を左右に捻ると、面白いほどに骨が鳴った。
目を覚ますと、丁度いつも自分が目を覚ます時刻だった。
伸びをして、起き上がる。顔を洗って、身なりを整えた。
(どうしようかしら……)
今日から私塾は再開するとの事だ。
だがしかし、どうにも行く気になれない。と言うよりも、勉強する気になれない。
悠一に会いたかった。
会って、話がしたかった。
具合がまだ悪いから、と今日は休んでしまおうか。しかしそうすると、出かけるのに理由が必要になる。
それならば、私塾に行ったフリをして、悠一の所へ行ってしまおうか。
(……うん、そうね。そっちの方が良いわ)
悠一も、いつ来てくれたって構わない、と言ってくれていた事だし。その言葉に甘えてしまおう。
今まで私塾をサボるなど一度もした事が無い紗雪だ。
正直、気が引けて仕方が無い。
だがやはり、嫌だった。
勉強したくない。したくなくて仕方がない。
理由はよく分からない。いや、有るには有るのだ。
しかし、自分の中であちらこちらに散らばってしまっていて、纏まっていない。纏まらぬままのそれが、もやもやと腹の底に溜まっており、気分が悪い。
早く、このもやもやをどうにかしたい。言葉にして吐き出してしまいたい。
悠一ならばきっと、この気持ちを分かってくれる。
そんな、根拠の無い自信が有った。
誰もいない。
「あのー……お邪魔、してます、よー……?」
玄関口で靴を脱ぎながら小声で庵内に呼びかける。
だが返事は無い。人の気配もしない。
鞄を胸に抱え、きょろりと辺りを見回す。
(まだ朝なのに……。皆揃ってお出かけなのかしら……?)
何だか気が抜けた。
悠一がいなかったらどうしよう。少女二人だけだったらどうしよう。
いや、今まで会った事の無い人が出てきたらどうしよう。
それらの事は想定して、何と言うかも道すがら考えてきた。
だが、誰もいない、という事は想定していなかった。
「……お邪魔、しちゃいます、よー……?」
そろりそろりと、抜き足で歩く。誰もいないのだから、誰にも気を使う必要は無いのだが、それでもやはりずかずかと上がりこむのは気が引けた。
きし、と時折床が鳴る。その音がやけに大きく響いた。
そっと襖を引いてみて、中を窺う。やはり誰もいない。
失礼だと思いつつ、全ての部屋を覗いてみた。だがしかし、どこにも人は見当たらなかった。
(まさか、厠とかお風呂とかじゃないわよね……)
そうだとしたら、何か物音がするだろう。だが先程から、自分の足音以外に人の立てる音はしない。
(……実は、押入れとかに隠れてるとか……)
まさか。
自分の考えに首を振る。
紗雪相手にかくれんぼをして、彼らに何の得が有ると言うのだ。これが弐班の面々や雪斗など、気心の知れた相手ならばともかく、知り合ってまだ間もない彼らが、そんな事をするはずも無い。
(って、紫呉たちにもされた事はないんだけど……)
もしもそんな事をされたら、自分は怒るのだろうな、とまるで人事のように紗雪は考えた。
そう考えて、はたと紗雪は思った。
彼らはそんな無邪気な(馬鹿げたとも言える)事をしでかす可能性のある人間なのか?
気心が知れているとはいえ、彼らの事は、知らない事が多い。
一緒にいて楽だ。話していて楽しい。屯所へ行けば、快く迎えてくれる。
だが、自分が知っている彼らは、一面だけであって、本当の彼らを知らないのではないかと思う。
別に、全てを知っていなければ友人で有り得ない、とは思わない。友人とはいえ、隠し事の一つや二つは有るだろう。
(ううん、隠し事とか、そんなんじゃなくて……)
紗雪が知らないのは『自分の知らない彼らの一面』ではない。
『自分が見ない様にしてきた彼らの一面』だ。
瑠璃治安維持部隊第弐班は武力特化された班である、という事。
彼らがいつも身につけている数珠は、黒器である、という事。
知っていた。
だが同時に、知らずにいようと思っていた。その事には触れずにいようと思っていた。何も考えないようにしていた。
紫呉の傷は、戦ってできた傷であるという事。つまり、戦った相手がいるという事。
須桜の掌は、少女の掌には似つかわしくない硬さをしている。それは、彼女の手が武器を手にしているからだ。
影虎の足音が、左右非対称である理由。それは彼の右足が義足である為だ。
それらの事を、自分は分かっている。
だが知らずにいようと思っていた。気付いていないフリをしようと思っていた。
彼らはいつも優しかった。
笑って、ふざけて、一緒にご飯を食べて。
それで充分だった。
だが、見てしまった。
黒器が『黒器』として役目を果たす瞬間を。
瑠璃治安維持部隊乾第弐班の隊員として、刀を振るう紫呉の姿を。
そして、その冷たい瞳も。
(違う)
そんな事は無い。冷たくなんてない。
いつもの紫呉だった。
いつもと同じ、あまり感情の滲まない声音。
いつもと同じ、あまり感情の滲まない表情。
その声で、その顔で、破天を斬っていた。斬って、踏みつけて、嘲って。
いつもと同じだったのだ。紗雪に接する時と、変わりは無い。なのに、別人のようだった。
(……私は)
別人だと、思おうとしていたのか?
今までと同じように、知らないフリを決め込もうとしていたのか。
自分が親しくしている人間は、人を斬る術を知っている人間であるという事。
(……悠一……)
早く戻ってきて。
早く、話したいの。
お願い、このもやもやを何とかして。
きっと、悠一なら分かってくれるはず。
紗雪は大きく息を吐いて、目を瞑った。
瞼の裏に、悠一の姿が蘇る。
『……ぼくはね、どうにも不思議に思う事があるよ。如月が、武具を造っていること。黒官が武具を造っていることを不思議に思わないかい? 武具開発の金は民の税金だ』
苦悶に満ちた表情。美しい顔が苦しげに歪んでいた。
「……その金で、人を殺す道具の開発をしているんだ。おかしいだろう?」
悠一の台詞を口の中で転がし、紗雪はもう一度息を吐く。
教本の入った鞄を置いて、紗雪は縁側に向かった。
廊下の角を曲がる。
と。
カツン、と目の前で硬い音がした。
(……え?)
目と鼻の先の柱に、何かが刺さっている。
(何? ……針……?)
五寸釘ほどの大きさの太い針だ。
そう理解すると同時、紗雪の視界が茶色く染まった。
床だ。目の前に床が有る。自分はうつ伏せに倒されている。
「痛……っ」
腕を背で一つに纏められる。
重い。
背に硬い感触が有る。踏まれているのか。
「嫌……っ! 離して!」
力が弱まる。
我武者羅に身を捩った。背に感じていた重圧が消える。
身を起こす。
悲鳴が喉元で暴れている。
口を押さえられた。
男だ。
黒い服、黒い覆面。
そして、桃色の双眸。
彼は人差指を口前で立てた。
身を翻す。
あ、と思った時には、もう姿は無かった。森へと姿を消した。
心臓がうるさい。
体が震えている。
(今の…………)
冷や汗が頬を伝った。
静かな部屋に、自分の浅い呼吸音ばかりが響く。
紗雪は立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。
足が震えている。力が入らなかった。
「……しっかりなさい!」
足を叩き、ぐっと力を込める。柱を支えに立ち上がった。
柱には傷痕が残っている。
しかし針は無い。男が持ち去ったのか。
目の前が暗くなる。視界が狭い。体がいやに冷たい。血の気が引いている。汗が顎を伝って、床に落ちた。
「……おバカ……っ。貧血とか、なってる場合じゃ、ないでしょ……っ」
ぐらりと体が傾ぐ。紗雪は膝をついた。
柱に体をもたせかけ、目を瞑る。冷や汗が体を濡らしている。紗雪はじっと、波が引くのを待った。
やがて呼吸も落ち着き、体の冷えも収まった。
肩口で頬の汗を拭い、立ち上がる。
大慌てで長靴を履いて、走った。
途中、力が抜けて躓いた。
だが何とか踏みとどまり、走る。
門戸を開き、人通りの少ない通りを見回す。だが人の姿は無い。
表通りを目指して紗雪は駆けた。
通りはがやがやと、人が行きかっている。
俥引き、行商人。
表通りの、人ごみの中を歩く。
すれ違った人の肩がぶつかった。文句を言われたが、耳に入ってこなかった。
立ち止まって辺りを見回す。
「……紗雪ちゃん?」
ぽん、と背後から肩に手を置かれた。びくりと肩が跳ねる。
「こんなとこで何してんだ? 今日は私塾の日じゃねえの?」
体が強張る。
「……………………そっちこそ」
紗雪はゆっくりと振り向いた。
ぐっと拳を握って、彼を見上げる。
「……こんなところで、何をしてるの?」
影虎さん。
呼びかけると、彼の桃色の双眸がすっと細まった。
「……お仕事ですよ? ちょっくら、この辺に用事が有ってね」
「……そう、なの……。……今日は、制服じゃないのね」
いつもと同じ、地味な袷と洋袴。
裾は長靴に納められている。見慣れた格好だ。
「まあな。着替えてきた後だし、さ」
「そう……」
沈黙が落ちる。
握った拳が、小刻みに震えていた。
影虎の右足が、無意味に地面をかく。とんとん、と二回爪先で地面を蹴った。
「……なあ、紗雪ちゃん?」
呼びかけに紗雪は顔を上げる。
肩に手を置かれた。その手に、ぐっと力がこもる。
「い……っ」
思わず声が漏れた。
「知ってるか?」
耳元に囁かれる。熱い吐息が耳朶を掠めた。
「……人間ってさ、痛いのと気持ち良いのは、我慢できないんだってな」
低められた声に、肌がざわりと泡立った。
息が詰る。
口が渇く。
息を吸うと、喉がひゅっと鳴った。
「……だから、何?」
発した声は、緊張に嗄れていた。
影虎は体を離し、ひらりと手を振った。
「べっつに? ただの世間話さ」
明るい声音。いつもと変わらぬ調子で影虎は言った。
「んじゃな。俺、この後も色々とすること有るんだ」
気ぃ付けてな、と軽く肩を叩かれる。立ち去る背に呼びかけた。
「……ま……待って!」
立ち止まる。
ゆっくりと、影虎は振り返った。
そして、彼は人差指を口前で立てて、笑みを模った。