瑠璃の昼行灯 零 13
はいこれ、と鞄を渡される。
「来てくれてたんだね。ごめんね、誰もいなくてびっくりしただろう?」
ぼくも、鞄だけ残されててびっくりしたけれど。
そう苦笑する悠一に、紗雪も倣って苦笑を返した。
「けど何で鞄だけ置いて……」
「うん……。ちょっと……忘れ物、しちゃって、取りに行こうと、思って……。途中でまあいっか、って思って、戻ってきたの」
間に合わせの言い訳を口にして、紗雪は頭を掻いた。本当の事は、言えない。
「ごめんね? 急に来ちゃって」
明るい声を作る。無理にでも明るく振舞わない事には、心が挫けてしまいそうだった。
「ううん、嬉しいよ」
にこりと、悠一が微笑む。
「でもまだ、私塾の時間じゃないのかい? 良かったの?」
「……あ……うん……。そう、なんだけど……。何か、行きたくなくて、会いたくて、……来ちゃった」
声が震える。悠一が怪訝そうに首を傾げた。
「何か、有ったの?」
黙りこくる紗雪を、悠一はじっと見下ろしている。そして、軽く紗雪の肩に手を置いた。
体が強張る。
俯く紗雪の顔を、悠一が覗き込んだ。
「どうかしたの? 何だか、……こう言っちゃ失礼だけれど、今日の紗雪ちゃんはおかしいよ?」
「そう? でも、本当に、何も無いのよ?」
「じゃあ何で、そんなに怯えているんだい?」
と、手を握られた。
悠一の白い手の中で、紗雪の固く握った拳が震えている。
力が抜ける。抱えた鞄が滑り落ちた。
涙が零れた。
「……座って」
悠一に促がされるまま、紗雪は座布団に腰を下ろした。
「お茶淹れてくるね」
髪を撫でられる。優しい動作に、また涙が零れた。
(……もう、何を泣いているのよ……)
取り出した巾で涙を拭った。自分の弱さに苛立ちを感じる。
いつもと同じように振舞おうとしていたのに。何事も無かったかのように、そう思っていたのに。
無理だった。悠一の顔を見たら、声を聞いたら、たやすく心は折れてしまった。
肩を撫でる。先程、影虎に押さえつけられた場所だ。
もう痛みは無い。だが、感触は未だに残っている。
『人間ってさ、痛いのと気持ち良いのは、我慢できないんだってな』
ぞくりと体が震える。
影虎がいったい何を言わんとしていたのか。そんな事、考えなくても分かる。
(でも、何で……)
何故、影虎がここに来たのか。
何故、紗雪に攻撃を加えたのか。
(あれは、私が私だって分かっていて、それでああいう事をしたの?)
いや、違う。
今日紗雪がここに来る事を知っていた人間は、紗雪本人だけだ。
本来ならば紗雪はこの時間、私塾に行っている
ならば。
(……ここに、用が有った、という事?)
ここに。
悠一が居住まいをしているこの庵に。
(じゃあ、つまりそれは、悠一に害意が有る、という事……?)
どういう事だ、おかしな話ではないか。
だって影虎は、瑠璃治安維持部隊乾第弐班に所属している。瑠璃を護る為の部隊に所属している。
その影虎が、何故悠一を襲おうと言うのか。破天の人間ではあるまいし。
(……破天の、人間って、事?)
それ以外の可能性は、考え付かない。
まさか悠一が、個人的に怨みを買っているとも思えない。
「ごめん。待たせたね」
すらりと障子が開く。玄米茶の良い匂いがした。
「どうぞ」
「ありがとう……」
湯のみを両手で包み込む。掌から、じんわりと温もりが伝わってくる。
「少し、落ち着いたかな?」
「うん……。ごめんね」
「謝る必要は無いよ。それとも、紗雪ちゃんは何かぼくに対して、悪い事でもしたのかな?」
「そういうわけじゃ、無いけど……」
「じゃあ、もう謝るのは無しだ」
悠一は笑みを浮かべて、小皿に乗せた羊羹を爪楊枝で小さく切る。突き刺したそれを口の前に差し出され、紗雪は戸惑いながらも口を開けた。
「美味しいだろう?」
「うん……」
上品な甘さが舌に快い。滑らかな舌触りから、結構に高級な品だと分かった。
飲み込む。次の羊羹に悠一が爪楊枝を刺す。慌てて、紗雪は手を伸ばした。
「あ、あとは、……その、自分で食べれるから……」
「何だ。面白くないな」
「う、いや、だって、恥ずかしいし……」
頬が熱い。俯いて、紗雪はお茶を啜った。
くすくすと悠一が笑う。
座卓に肘をついて、悠一は自分の分の羊羹を口に運んだ。
「……それで、いったいどうしたんだい?」
悠一の視線は湯のみに注がれている。こちらを見ていない。紗雪が話しやすいように、と思ってくれての事か。
「話したくないなら、無理にとは言わないけどね。……ぼくに話して楽になるなら、いくらでも聞くよ?」
湯飲みから立ち上がる湯気の向こう、悠一が優しい微笑を浮かべている。こくりと上下する白い喉元に、思わず目を奪われた。
と、紗雪は不躾な視線を投げていた事に気がつき、視線を逸らした。
「……私塾に、行きたくなかったの。勉強したくなかったのよ。……悠一に会いたかったの」
「…………うん」
「会って、話したかったの」
視線が絡んだ。何を、と灰色の双眸が問うている。
「この前、ね。友達が初めて、人を斬る所を見たわ」
「……それは、以前言っていた弐班の?」
「うん。あの子の黒器を、見た事は有ったのよ。水晶の数珠で、刀になる、って事も知ってた。見た事も有った。でも、斬る所を見たのは、初めてだった」
体が震えた。眼前に、まざまざとあの時の光景が思い出される。
白刃。
血の雨。
骨の色。
紗雪は首を振って、その光景を振り払う。
「……本当に、あの子は弐班なんだ、って、今更に思ったわ」
怖かった。
「それでも、……やっぱり黒官になりたいって、君は思う?」
「……官吏に、なりたいとは、思う」
「ならば黒官じゃなくても良いんじゃないかな?」
「でも、私だって、何かを作りだしたいの」
「そっか……。官吏以外の道は、考えていないの?」
「官吏にならない私なんて、きっと、必要じゃないもの」
「誰が?」
「父さんも、母さんも……」
「……そう、ご両親は言ってたのかい?」
「言われた事は、ないけど……。でも、真春が官吏登用試験に受かった時は、すごい、喜んでたもの。……雪斗が、傀儡師になりたい、って言った時は、父さんは怒ってた。母さんは、……泣いてた」
「……うん」
「確かに黒官は武具も作ってる。でも黒器は武具だけじゃないって知ってるわ。それに、黒器が無ければ今の暮らしも、今の安全も無いって思う」
「……」
「だって……。あの時あの子が来てなかったら、私も怪我をしてたと思うの。助けられたって、分かってる。でも、……怖いって、思ったのよ。それで、何だか、もやもやしちゃって、苦しくて……」
紫呉は弐班としての仕事を全うしただけだ。
分かっている。
しかし。
(……弐班と、して……?)
影虎も、弐班の隊員だ。
瑠璃の治安を維持する為に、瑠璃に背く破天を粛清する為の、弐班の隊員。
紫呉と同じだ。
(なのに、何で……?)
何故、ここに忍び込むような真似を?
影虎が弐班の隊員である、という事は間違いない。
(本当に?)
弐班だ、と彼はそう言っていた。
だが、確たる証拠は無い。屯所には扁額も無い。
(いや、でも……)
彼らは壱班と協力して仕事をしている。偽者だとするならば、壱班の皆が騙されている、という事だ。その可能性は低い。
(だとしたら……)
弐班である、という立場は本物。
だが、その実、破天の者だった、という事か?
他の二人は、紫呉と須桜はどうなる?
彼らもやはり、破天の者なのか?
しかし紫呉は、破天の者を斬っていたではないか。無情に、自然すぎるほどの動作で。
それに彼は先日の事件では傷も負っている。
紫呉は破天ではない、という事か?
いや、自作自演という可能性も有る。
だが治安維持部隊に入隊する為には、試験が有る。小学卒業程度の筆記・口頭試験。そして、実戦試験。
それを突破して、彼らは今の地位にいる。
黒器の使用を許可されている、という事は、それなりの実務経験もあるはず。瑠璃治安維持部隊第弐班の上層部・軍事を司る赤官の信頼も得ている、という事だ。
「うん、そうだね。ぼくも、怖いと思うよ」
考えに飲まれていた紗雪は、悠一の声にはっと顔を上げた。
「解決するには、闘争が一番手っ取り早い手段だって事は、ぼくも理解している。それでもやっぱり、血は怖いよ。痛いのは嫌だ」
悠一はお茶を飲み干して、苦笑した。
「血を恐れるのは、本能としての恐怖なんじゃないかな。言い訳じみているけれどね」
できれば、と憂いに満ちた表情で、悠一は大きなため息をついた。
「闘争に変わる他の手段を探したい。そうも、言っていられないけれど……」
もう一度嘆息して、悠一は俯いた。
「何か、有ったの……?」
うん、と一つ頷き、悠一は組んだ指に顎を乗せた。
「最近、何だか周囲が騒がしいんだ。……ここに、ぼくらが居るという事を、もしかしたら突き止められたのかもしれない」
どくりと、大きく心臓が波打った。
「嫌な言い方だけど、……駆除しようとはしている。けれど、そんなに簡単には、事は済まないよねえ……」
諦めにも似た顔で、悠一は組んだ指に額を押し付けた。
「ぼくらがここにいるって事は、知られていないはずなのに。……もしかしたら、内部から漏れたんじゃないのか、ってのが皆の意見だ」
内部から。
「または、裏切り者がいる、とかね」
と、悠一は肩を揺らす。
(裏切り者……)
もしかして。
いや、しかしだ。
以前、紫呉は言っていた。
治安維持部隊は官吏と言えど末端だ、如月の人間には会った事は無い、と。
だったら、影虎だって、悠一の顔は知らないはずである。ここの場所だって知らないはずだ。
(……紫呉の嘘だったとしたら?)
だが、そんな嘘をつく必要がどこに有る。
如月の顔は知らないと、紫呉が嘘をついて、何の得をするのだ。
如月の顔を知っている、という事を隠して得をする。それは、どういった場合だ?
……如月に叛意を抱いている場合。
この先、如月に弓を引こうと、考えている場合。
知っている、という事実を隠している方が、何か有った際に疑われずに済む。
他に考えられる可能性としては、紫呉は知らないだけで、他の隊員は知っている、という事。
そうだ。
乾弐班の中では、影虎が一番年上だ。乾弐班を纏めているのは、常識で考えるならば、一番年長の彼だ。
だとすると、中央や上層部にも繋がりは有るだろう。如月の顔を知っていてもおかしくは無い。
「だからね、紗雪ちゃん。ちょっと、しばらくは危険かもしれない。念の為に、君にも護衛をつけるようにしておくけれど」
「そんな……。私は平気よ? 私に人を割いちゃったら、人手とか……」
「大丈夫だよ。それに、もしも君に何かが有ったら、ぼくが嫌なんだ」
「……ありがとう…………」
「ううん、ぼくがしたくてしている事だから。君との繋がりが無くなるのは、嫌だから、ね」
組んだ指に頬を預けて、こちらを覗き込むようにして笑う。
赤くなった頬を隠すようにして、紗雪は俯いた。
「……私も、嫌。悠一と会えなくなるのは、嫌よ」
影虎の真意は知れない。だがこのまま放っておいたら悠一と会えないどころか、もう姿を見る事すらできなくなる可能性だって有るのだ。
嫌だ。
彼を危機から遠ざける為に何か、自分にできる事は無いのか。
最も疑わしい、影虎の名を伝える事はできない。それは、自分の身が危険だ。
(直接伝える以外に、何か方法は無いの……?)
何も思いつかない。自分の頭の足りなさに紗雪は歯噛みした。
「もう、だいぶマシになったかな?」
「え?」
「最初より、随分顔色も良くなった」
良かった、と笑いながら悠一は指を解いて伸びをした。
「本当、どうしようかって最初に見た時は焦ったよ。顔は真っ青だし、震えているし……。もしかして、誰かに襲われたんじゃないかって思ったんだ」
「あ、ご、ごめんね。心配させちゃって」
内心ぎくりとしながらも、紗雪は首を振った。
「ごめんね、ややこしい時に、迷惑かけちゃって……」
「迷惑だなんて、そんな。もしそうだとしたらって思うと、ぞっとするよ。……違うんだよね、良かった……」
ほっと息を吐いて、悠一は胸を撫で下ろす仕草をした。
「うん……ごめんね。心配してくれて、ありがとう」
胸が苦しい。悠一が、自分の事を想ってくれているのが、嬉しい。
そして、悔しい。彼を援ける手段は何も無いのか。何も思いつかない自分が悔しい。自分の保身を考える自分が悔しい。
「ほんと、ごめんね…………むぐ」
口を掌で覆われる。
突然の出来事に、紗雪は目を丸くした。
「もう謝るのは無しだ。良いね?」
眉を寄せ、厳しい表情で悠一は空いた手の人差指を立てた。
小刻みに何度も頷くと、にこりと笑って、手を離される。
「ぼくは気にしていない。君は謝る必要なんて無い。分かった?」
「あ、うん……ごめ、あ、や、えっと……」
謝るなと言われた側から、またも謝罪の言葉を口にしそうになり、視線を彷徨わせながら紗雪は、しどろもどろと言葉を濁した。
そんな紗雪を見て、悠一はぷっと吹き出す。声をあげて笑った。
「ちょっともう……っ。そんなに笑わないでよ……」
腹を抱える悠一に、紗雪は唇を尖らせる。
「はは……っ。ごめん、ツボった……っ」
なおも笑う悠一に、紗雪は頬を膨らませた。
そんなにもおかしな仕草をしていたのだろうか。それとも、おかしな表情でもしていたか。紗雪は熱い頬を両手で覆って、笑う悠一をじっとりと睨んだ。
「……はあ……落ち着いた……。ごめん、笑いすぎたね」
「全くよ」
「ごめんって」
苦笑する悠一を横目で見やり、紗雪は仕方がない、といった体でため息をついた。
「もう良いわよ。怒ってないから」
実際怒っていない。まあ、若干不愉快ではあるのだが、爆笑する悠一、という貴重なものを見れてむしろ嬉しいぐらいだ。
「あ」
滲んだ涙を指先で拭い、悠一は声を発した。
その声に紗雪は首を傾げる。また何か、彼のツボを突くような事をしたのだろうか。
「ようやく笑ってくれたね」
「……え……」
「ここに来てから、ずっと塞ぎこんでいる感じだったからさ」
やっと笑顔が見れた、と悠一は首を傾げたままでいる紗雪を一瞥し、苦笑した。
「うん、確かに、そう、ね……。ずっと、色々頭がごちゃごちゃしていて……。……でも、悠一に話聞いてもらって、何だか楽になったわ」
その言葉に、悠一は面食らったかのように、大きな目を更に大きく見開いた。
「ぼくは、話を聞いただけだよ?」
「そうね。聞いてくれて、ありがとう」
「……何も、答えになるような助言とか、していないよ?」
「……ううん。聞いてくれただけでも、良いの」
ありがとう、と悠一に微笑みかける。
悠一は何か不思議な物を見るような顔で、紗雪を見ている。
そして、目を伏せて、鼻から長く息を抜いた。
「……それくらいで、お礼を言われると、何だか逆に申し訳なくなるな」
「何で。充分よ?」
「……そっか。……うん、ぼくでも、役に立てたんだね」
悠一は自嘲の声音で、小さく言った。紗雪は座卓に身を乗りだすようにして息巻いた。
「もちろんよ!」
紗雪の勢いに、悠一は僅かに身を引く。
「……悠一は、昼行灯なんかじゃない。役立たずなんかじゃないわ」
悠一が目を瞠る。
「だって私の話を聞いてくれた。それで、私の心は軽くなった。ね? 私の役に立ってるじゃない」
だから、と紗雪は乗りだした身を元の位置に戻し、拳を握った。
「そんな、悲しい顔しないでよ」
ぼくでも役に立てたんだね、とそう漏らした悠一の顔は、見ているこちらの胸を締め付ける程に儚げだった。
柳眉を寄せ、無理に口角を引き上げて笑みを作り、小さく唇を噛んで。
そんな顔をしてほしくない。
役立たずだと悠一は言うが、そんな事はない。
何よりもその容姿だけでもう既に、紗雪の支えになってくれているのだから。(とは、本人に言えやしないが)
「……ありがとう……」
悠一は、俯いて小さな声で言った。
俯いたその顔の、表情を窺い知る事はできなかった。