暁光 12
影虎が監舎に辿り着く頃、空は今にも雨粒を零しそうな程に潤んでいた。灰色の雲の中を、稲光が時折駆け抜ける。響く遠雷に、道を行く人々は慌しく歩を進めていた。
重苦しく湿気が肌にまとわりつく。そのくせ雨は中々に降らず、それが一層に苛立ちを募らせた。いっその事さっさと降ってくれた方が、幾分かありがたい。いつ濡れるのかと悶々とするよりも、一思いに濡れてしまった方が気持ちも楽になれるだろう。
届けを申請し、監舎の鍵を借りる。手のひらに収まる鍵の束は、湿気のためか常よりも鉄臭さが増しているように思える。じっとりと皮膚に沁みる鉄のにおいと重みが、何やら気分を塞いでくれるようである。
影虎はひとつ息を吐き出し、胸の内にとぐろを巻く重苦しさを追いやった。屯所の廊下を行く己の左右非対称の足音が、やけに大きく鼓膜を打つ。
すれ違った隊員たちが、窓の外を見上げて眉を顰めた。彼らはじっとりとした暑気に辟易しきった様子で、制服の袖をこれでもかと捲くっている。影虎がつられて見上げると同時、低く重い音が轟く。それでもやはり、雷はまだ落ちない。
監舎へと続く中庭へ出る。じわじわと夏に鳴く蝉の声も、雨の気配のおかげなのか、どこか辛気臭く聞こえる。庭の隅に咲く朝顔に水をやる者はいないのか、蔦を絡めあい凭れあうように咲いたその花は萎れ、今にも枯れてしまいそうに見えた。
分厚い戸の鍵穴に、鍵を差し込んだ。ガチャガチャと鳴る金属音がやかましい。ずっと握り締めていたおかげか、鉄錆が手のひらに色を移していた。
天井の明り取りにから零れる光も重い雲に遮られ、監舎は薄暗く、重苦しい。続く暑気のおかげなのか、監舎に満ちた屎尿の臭いは吐き気をもよおす程に濃く澱んでいる。深く息を吸い込むのは躊躇われた。入り口のすぐ側に控える見張りの隊員に、軽く手を挙げて挨拶に代える。目礼を返す隊員の側をすり抜け、階段を降りた。
意味もなく段の数を数えるものの、途中に響いた女の金切り声のおかげで、段数を忘れてしまった。代わりに、己の心音を数える。常よりも少し早い。どうやら自分は緊張しているらしい。影虎は自嘲に小さく鼻を鳴らした。
誰かが格子を叩き何事かを喚く声を意識の外で聞きながら、心音を数える。足音を数える。奥に向かうにつれて早まる心音と反比例して、進める歩はゆるりと遅くなった。
影虎の来訪にはきっと、気づいているだろう。影虎は特に気配を絶ってはいない。ならば絶対に、気がついている。ならばこそ余計に、気づいただろう。次第に遅くなる影虎の歩調に。不審に思っただろうか。不愉快に感じただろうか。普段ならば気にもしないことが、やけに気を煩わせる。
やがて行き着いた監舎の奥、影虎は格子に手をかけて視線を注ぐ。
木格子の向こうで、彼は身を横たえていた。こちらには背を向けたままである。
「紫呉」
名を呼んでも、紫呉は振り返らない。その頑なな背は、何かを拒絶しているように思えた。
影虎は格子にかけた手を、硬く握った。ささくれ立った木格子が指に多少の痛みを与えたが、どうでも良かった。
目を瞑る。向けられた背を、見たくなかったのかもしれない。
「須桜が、春日井竜造に会ったらしい」
返る言葉は無い。
「悠々館にも、壬生辰覇が訪れたようだ」
それでも、影虎は続けた。
「何かをしたってわけじゃない。何かを告げに来たってわけでもなさそうだ。ただ、訪れた。瑠璃にいた。まだ、それだけだ」
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。木格子の向こうのまだ幼い背は、今もこちらに向けられたままだ。
少し、痩せただろうか。覗く足首の筋がいやに目立って見える。床に広がる夜色の髪は、汗と脂のためか、束になってしまって、常のような輝きは見られない。
「――紫呉」
名を呼ぶ。きっと返る声は無いと分かりながらも、まるで縋りつくかのように影虎は主の名を呼んだ。
「……何か言えよ」
己の声が笑みに震える。その笑みが自嘲なのか何なのか、自分でも判然としなかった。つま先に茫と意味無く視線を落として、影虎は返らないであろう返事を待った。
女が格子を揺らし、けたたましく叫んでいる。耳障りな金切り声が、神経をざらつかせた。
「僕に」
鼓膜を揺らす平坦な声に、影虎ははっと顔を上げる。
「それが赦されているのでしょうか」
「――どういう……」
「いえ」
何でもないと言うように、紫呉は伏せたままに首を振った。ぱさぱさと渇いた音をたてて、夜色の髪が床を叩く。
ふいにこみ上げてくるものに、影虎は叫びだしたいような気持ちになった。押し寄せるこの感情が何かなんて分からないまま、喉元までせりあがるそれを一度嚥下し、押し殺した声で囁く。
「……赦しが欲しいなら俺がいくらでもくれてやる。お前の欲しがるものを俺が与えられるなら、何だってくれてやるよ」
格子に額を押し付け、声を零す。無理に押さえつけた声は情けなく震え、枯れていた。
遠雷が轟いた。薄暗い監舎に光が走る。稲光だ。
く、と小さな笑い声がした。紫呉だった。肩を揺らし、体を丸めて、紫呉はひそやかな笑いに身を浸している。
しばらくの間、くつくつと珍しく声を漏らして笑っていた紫呉だが、やがて笑いを飲み込み、長く重く、息を吐いた。
「――馬鹿ですね」
揶揄を含んだ声音で言って、腕を投げ出す。床を叩いた骨が、ことりと硬く鳴った。振り返らない背を、影虎はただ見つめる。
紫呉は何かを思っている。何かに傷ついている。何かに悩んでいる。それは分かっている。彼の心に手を伸ばせたらと思う。けれどそれは、彼の何かを――誇りと言い換えられるかもしれない何かを、傷つけてしまいそうで怖かった。
そうか、先程押し寄せたこの感情。これはきっと、悲しみだとか、怒りだとか、そんな名前を与えられたものだ。
「影虎」
静やかに名が響く。名を呼ばれたのが、随分と久しく思えた。
「――少し、疲れました」
いつもと変わらぬ、無表情な声だった。平坦で、感情などまるで含んでいないかのような。
少し前までは、奪われるのは嫌なんだと叫んでいたその口で、紫呉は疲れたと言葉を紡ぐ。静かに、凪いだ声で。声に心を乗せるのを、躊躇うかのように。
握り締めていた格子から、手を離す。
「……また来る」
返る声をしばし待ったが、やはり紫呉は物言わぬまま、首肯すらもしなかった。
振り切るようにして、背を向けた。来た時とは反対に、出口へと向かう歩調は自然と早まった。半ば駆け上がるようにして階段をのぼり、外へと出る。
曇天は遠雷を轟かせるばかりで、なおも雨を零さない。