暁光 11
翌朝、影虎は悠々館で目を覚ました。昨晩、屯所に戻ろうとする影虎を莉功が引き止めたのだ。出来る限りは一緒にいてくれるっつったじゃーん、と良い年をした大人にせがまれて、仕方なしに泊まったのだった。
目を覚ました影虎が最初に目にしたのは、部屋の片隅で墨をする洋の姿だった。相変わらず姿勢が悪い。
「ようやくお目覚めですか」
ちらりと影虎を見やって、洋は呆れた声でそう言った。
「ふたりは?」
寝起きのぼんやりとした声で問うと、洋はやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「兄さんはとっくに壱班の屯所へ向かっておりますよ。崇も、店の仕込みがあるからと日が昇る前から起きています。私も、もう数刻もあなたの寝顔と共にしておりますよ。まあ、昨夜は随分とお疲れのご様子でしたから、起こしはいたしませんでしたが……。とはいえ、あまり自堕落なのは関心いたしませんね」
洋の長台詞を右から左に聞き流しつつ、そうか、こいつにも分かる程に昨日の己は疲れた顔をしていたのかと恥ずかしく思った。弱った姿を見せるは苦手だ。
薄布団から這い出して、伸びをした。無茶を強いた体は、あちこちがぎしぎしと痛む。特に脚はひどかった。もう肉体の一部と化しているとは言え、義足は義足だ。黒官の技術を駆使したそれは、まるで最初からそこにあったかのように影虎の体に馴染んでいるが、こうして無茶をさせれば、やはり義足なのだと改めて感じた。肉と鉄の継ぎ目に、普段は感じぬ違和感が纏っている。平時はほとんど意のままに動く義足だが、今日はどこか動きが悪い。それに、脚全体に痺れるような熱い痛みがあった。
痛む脚と、義足の継ぎ目をさする影虎を横目に、洋は筆を置かぬままに言う。
「痛むのですか」
「んー……、まあ、そこそこ」
「そうですか」
と、目を瞠る。何に驚かれているのかと、影虎は首を傾げた。
「いえ、あなたのことですから。平気だと一笑されるのだとばかり思っておりました」
「お前の中の俺ってどんなんだよ」
「強がり、意地っ張り、見栄っ張り、矜持の高さを見せたくない程度の矜持の高さ、人の手助けを良しとしない頑固さ。困った方だと心得ておりますよ」
「は、ひっでえ言われよう」
「あなただけではありません、弐班の者は皆そうです。本当に、困った人たちですね」
ほとほと呆れたという声で、洋は嘆息した。影虎は応えずに、ただ苦笑するだけでいる。
「湯を借りてきてはいかがです。着替えも、悟殿か崇のものでしたら寸法が合うでしょう」
「や、そこまで世話になったら悪いし屯所戻るよ。こいつの
義足を叩いて言えば、洋は眼鏡の向こうの目をほんの少しだけ眇めた。洋の向かう文机の側には、彼が描いた辰覇の似絵が有る。
首をめぐらせ
「……もう少し休んでいかれてはいかがです。何でしたら、医師を呼んできてさしあげましょうか」
「いやー……、平気だって」
笑って、立ち上がる。痛みを噛み殺して、窓の外の長靴を取った。さすがに窓から退出するのはどうかと思い、部屋の襖戸に手をかける。背に気遣われるような視線を感じながらも振り返らずに、影虎はひらりと手を振った。
階段をゆっくりとおりる。窓から覗き見える空は、いかにも夏らしい濃い青をしていた。丸く盛り上がった積雲は、雨の気配を孕んでいる。日の高さからするに、もう昼前だ。そんなに長く眠っていたのかと、影虎は少なからず驚いた。そのくせに体はまだ休息を求めているのだから、困ったものである。
「あ、影虎の旦那! おはようなんだぜー」
「おはようさん」
じ、と崇は笑顔のままで影虎の様子を窺っている。その視線に気詰まりを感じ、影虎はスイと視線を逸らした。
「何か食ってくんだぜ?」
何か言いたいことがあったのだろうが崇はそれを飲み込み、わざとらしいほどの明るい声で聞いた。
「いや、良いよ。悪いな」
店の裏口に回り、影虎は長靴に足をつっこんだ。座ってしまえば立ち上がるのに難儀しそうだったので、よろめきながらも立ったままに靴を履く。ただ靴を履くだけでこの様かと、見送りにきた崇に背を向けたままに影虎は自嘲する。
「悟さんにもよろしく言っといて。んじゃな」
気遣わしげな視線を感じながらも、何かを言われる前に影虎は立ち去った。
店の外に出た途端、蝉の鳴き声がわんと鼓膜を打つ。人ごみの発するざわめきに、わけの知らない苛立ちをほのかに感じた。
人波を泳ぎながら、確かになと影虎は小さく苦笑する。確かに洋の言う通りだ。自分を始め、須桜も紫呉も、強がりで意地っ張りで見栄っ張りだ。
店々は打ち水をし、昼餉時に備えている。道を行く冷や水売りの威勢の良い声も今日はどこか勢いが無く、続く暑さにうんざりとしている様子だった。風車売りも、回らぬ風車に売れ行きはそう伸びていないようである。引き車にぶらさげた風鈴を手持ち無沙汰にいじり、手ずからに涼を作り出して苛立ちを紛らわせているようだった。
やがてたどり着いた乾弐班の屯所、影虎はほうと息を吐き出した。今すぐにでも身を投げ出したいのを堪え、まずは身を清めるかと着替えを取り出す。しかし湯を沸かすのは面倒だった。残り湯でざっと汗を流し、烏の行水さながらに風呂場から自室に戻った。濡れ髪であることを気にする余裕もなく、だらりと畳に四肢を投げ出して寝転ぶ。
チリ、と小さな鈴の音に顔をあげると、黒豆がいた。黒豆は影虎の胸に軽い身のこなしで乗りあげ、心地よい場所を探すようにしばらくの間くるくると回っていたが、やがて身の置き所を見つけて丸まった。黒い毛玉を撫でながら、あちぃよと不平を零す。
そよ、と凪いでいた空気がかすかに揺れた。軒の風鈴が、ほんの小さく涼やかな音を立てる。蝉は今もやかましく鳴いているが、それもどこか遠くに聞こえ、そうか今自分は眠いのだと影虎は他人事のように考えた。胸の上で丸まった黒豆のぬくもりのおかげで、眠気は余計に増す。このままではまた長く寝入ってしまいそうだった。
そうなる前にと、影虎は黒豆を抱き下ろして起き上がった。不満そうに黒豆がにゃあと鳴く。鳴きながら足元にまとわりついてくる黒豆を宥めつつ、影虎は長持から箱を取り出す。義足の手入れの為の用具一式を詰めたものだ。本来ならこれを作ってくれた黒官に直接みてもらったほうが良いのだが、わざわざ中央まで向かうのは面倒だった。ある程度のことならば、自分でもそこそこに出来る。取り外して神経と繋ぎ直すとなれば別だが、螺子を締め直し、汚れを拭うくらいのことならば自分の手だけで充分だ。
広げた器具を、黒豆は興味深げに眺めている。たまにじゃれついてくる黒豆を適当に遊んでやって、影虎は螺子の一つ一つを点検していった。挟まった砂粒を取り除き、うまく回らぬ螺子には油をさし、緩んだ螺子はきつく締めなおす。鉄のにおいにも、もう慣れた。
六年か、とふいに思う。
六年だ。この鉄の塊と付き合うようになって、そう短くはない年月を経ている。
脳裏によぎるのは、壬生辰覇の姿だ。青銀の髪、表情を形作らない白面。
そうだ、六年の昔、あの時も辰覇の表情はかたくなに無く、まるで無表情のままに影虎の足を奪った。
やめろと叫んだのを覚えている。やめてくれと。辰覇にではない。加羅に向かってだ。
刃が、紫呉の腹にうずもれたのを見た。何が起きたのか分からなかった。抜かれた刃が赤く濡れていて、そうか血かとやけに冷えた頭で思った。空も赤く燃えていた。
走り出そうとしたのだ。そこを、後ろから切られた。腱を切られたのだとすぐに分かった。無様に転んで、したたかに顔を打った。鼻血に濡れた顔で振り仰げば、辰覇の姿があった。動くなと辰覇は言った。言って、影虎の足に刃を立てた。地面に縫いとめるようにして。
這おうとするたびに、地面に縫いとめる刃が肉に食い込んだ。ミリミリと嫌な音がしていた。それでも進もうとした。
動けなかった。動けと念じた。頼む、頼むから動いてくれ。
みゃ、と小さく鳴く声に影虎ははっとした。知らず手が止まっていたらしい。もっと動かしてみせろとせがむように、黒豆は影虎の手をぺちぺちと叩いて鳴いている。一撫でして手元から黒豆を遠ざけて、影虎は作業を再開した。
最後の螺子を締め直し、ひとまずはこれで良いだろうと道具を片付ける。まだどことなく違和感は残っているが、仕方がない。箱と共に長持の中に入ろうとする黒豆を外に出してから、影虎は長持をしめた。
部屋に落ちる影に、影虎は空を仰ぐ。雲は嵩を増し、大きく膨れあがっていた。
雨が来る前に行っておくかと、影虎は疲れた体に鞭を打つ。
向かう先は、監舎だ。