暁光 10
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山際の残照が淡く黄色の光を放っている。いずれ訪れる夜に備え、鳥が棲家を目指し羽ばたいていた。
薄暗がりには、夏虫の鳴き声が響いている。そのいかにも閑寂な夏の夜の気配は嫌いではなかったが、だからこそ、それを乱す己の荒い呼吸が似つかわなく思えた。
影虎は垂れる汗を拭い、薄闇の落ちた周囲に目を凝らした。夜目はきく。必ず、目的のものは見つけられると自負していた。
瑠璃と玻璃の狭間にある丘を目指し、影虎はひた歩いていた。壱班の業務を終えここに辿り着くまで、疾風もかくやという速度で駆けてきた。無茶を強いた体はあちこち痛みを訴えていたが、それを飲みこみ、ひたすらに歩む。
おそらく、いや、絶対に、紫呉はこの間道をたどって玻璃へと赴いたはずだ。この道以外の裏道を、彼は知らないはずだ。
間道の空気は重い。塗り固めた夜が重く足元によどんでいるかのようである。息をするたびに肺に流れ込む生ぬるく湿気た空気に、ひときわ疲労が蓄積していくようだ。
だが、この道を抜ければ広く空が広がることを影虎は知っている。風が走り、木々を揺らし、季節の花々がまるで歌うかのように咲き誇るのだ。
ほら、と影虎は唇に笑みを刻む。
己の髪を揺らした風は、白月の昇り始めた空を目指して高く走り抜けていく。それにつれて草花がざわめいた。応えるように、夏虫が一層冴え冴えと声をあげる。
影虎は大きく息を吐き出し、うるさい鼓動を落ち着けた。痛む脚の節を撫ぜ、周囲に目を凝らす。
先日も、この丘を通った。澪月の頃の話だ。玻璃に忍んだ時、影虎はこの道を使った。玻璃から引き上げる際は、つけられている場合の時を考えて違う道を使った。この場を、秘密にしておきたかったのだ。
この道を、この丘を知っている者は多くない。二影と二吼と、紫呉と加羅と。たったそれだけのはずである。秘密にしておきたいとそう思ったのは、瑠璃への害を慮ってのことだ。感傷めいた甘いものなどは、欠片も抱いてはいない。そのはずだ。
影虎は、丘の中央にそびえる樹の幹に手をやった。根元には夜目にもはっきりとわかるほど、どす黒い血の痕があった。紫呉のものか、もしくは、追っ手のものか。判ずる手段は無かったが、紫呉がここまで追っ手を撒ききれないとは思えない。あの怪我を思えばそれもありえない話ではないが、その可能性はひとまずおいやることにする。
影虎は目を細め、血の痕をたどる。この根元にたどりつくまで、ひきずったような痕があった。轍のように、草がひしゃげている箇所がある。折れた花は枯れ、色を変えていた。
はいずったのだろう。はいずるその痕をたどっていけば、始点となる血痕があった。きっとここで力尽き倒れ、体をひきずり、根元まで這ったのだろう。
影虎はもう一度血の痕をたどり、樹の元へと戻る。幹に背を預け、考えた。
ここまでの紫呉の足取りは、消されていない。誰の手も加えられていない。隠そうとしている誰かは、今のところいない、ということだ。
ならば、この後は? ここで力尽きたあと、紫呉はどうやって玉骨まで辿り着いた?
血の痕はここで途切れている。周囲には、それらしき痕は散っていない。這ったあとも無い。
ならばどうやって、紫呉は玉骨まで辿り着いた?
(誰かが運んだ)
いったい誰が。
影虎は、懐に収めていた小刀を取り出した。紫呉の懐から転がり落ちた、例のものだ。辰の浮き彫りの施された、業物だ。
影虎は知らず笑みを浮かべていた。
紫呉を玉骨まで運んだ者。それは、これを紫呉に持たせた者だろう。影虎は鞘を払い、刀身を夜にかざした。
(持たせた目的は?)
知らせたかったから。
第三者が紫呉と接触したことを、告げたかったから。
影虎は、柄に収められていた小さな紙を思い出す。
――宵待月 丘にて待つ
これは、影虎へ向けられた言葉ではないだろう。紫呉へと向けられたものだ。
きっと、これを持たせた者は見越している。紫呉が玉骨の向こう、瑠璃で保護されたあとのこと。紫呉の手当てをするのは、影虎か、もしくは須桜であるということ。その時にこの小刀に必ず気がつくであろうということ。潜ませた言葉に気がつくであろうということ。そして紫呉に伝わるであろうこと。
影虎は細く息を吐き出し、辰の泳ぐ鞘を眺めた。刀身を収め、もう一度懐へとしまいこむ。
白月は太り始めたばかりだ。満月まであと数日。宵待月までもまだ数日。
薄闇は濃度を増している。野犬に群がられる前にここを去るかと、影虎は勢いをつけて幹から離れた。
目を凝らしながら、来た道を戻る。探しているのは血痕だ。紫呉を運んだならば、どこかに落ちているはずだ。夜も深まり見つけるのは困難だが、きっとあるはずだ。来るときには見つけられなかったが、あるに違いない。なければおかしい。
ゆっくりと、注視しながら道を戻る。そしてようやく見つけたときには、思わずあっと声をあげていた。
腰ほどの高さの木の葉に、血痕が落ちていた。この位置に落ちているということは、肩に紫呉を担いで運んだのだろう。そして体から滴った血が、ここに落ちた。
たどっていけば、ぽつぽつと血痕があった。渇き、黒くなってしまっている。踏みにじられたものもあったが、それはきっと影虎が来る時に踏んでしまったものだろう。もしくは、紫呉を運んだ者が帰る時に踏んでしまったか。
だがどれも、故意に隠そうと、消そうとしている気配は無かった。落ちたそのままにされている。
ということはつまり、第三者の介在をあちら側は隠そうとしていない。むしろ、知らせたがっているような節もある。この小刀が何よりもそうだ。
これで、知りたかったことは知りえた。雨が降らなくて良かった。足跡もたどれたら言うことは無いが、いくら夜目がきこうとも深い夜に阻まれてそれは難しい。
欲張る必要はないと頷き、影虎は来た時同様に疾風のごとく、道をひた駆けた。
やがて瑠璃に舞い戻った頃には、月はすでに高く昇り、色濃く夜に輝いていた。影虎は人の気配の無い小路の脇に滑り込むようにして体を潜め、荒い呼吸を落ち着けた。壁に背を預け、ずるりと崩れる。喉が、肺が、熱く痛んだ。脚の筋がひどく痛む。骨も、ぎしぎしと悲鳴を上げている。
常人ならば一昼夜はかかる道のりである。それを、わずか数刻で行き来した。あちらが何をしかけようとしているのか分からない今、長く瑠璃を不在にはしたくなかった。屯所に戻る前に体力は尽き、こうして無様にも道に転がる破目となりはしたものの、日が変わる前に里に戻ってこられたのは上出来だ。
ずいぶんと夜も更けた頃合ではあるが、大通りはまだ人々が行きかっている。これからどこかで飲みなおすのか、愛染街でも目指すのか。
影虎は垂れる汗もそのままに、脚を投げ出して、体が落ち着くのを待つ。こちらに人がやってくる気配は無い。こんな小路の奥、しかもごみ置き場と化したような場にわざわざやってくる物好きはいないだろう。それでも一応の注意だけは向けながら、影虎は横様に体を倒した。身を横たえた途端、疲労が一段と深まったようである。このまま寝入ってしまいたい誘惑をこらえ、せわしなく上下する肩が落ち着くのをただ待った。
荒い呼吸もようやく落ち着いてきた頃、影虎はゆっくりと体を起こした。汗で貼りついた髪を払い、ついでにそこら中に付着した砂利も払う。周囲に人がいないことを確認してから、小路から出る。何食わぬ顔で大通りを歩き、弐班の屯所を目指した。
その道中、ふと気に留めた光景がある。悠々館に、灯りがついていた。この時間、店は開いていない。店となっている一階は常の通り灯りが消されていたが、居屋となっている二階の一室に、灯りがともっている。あそこは確か崇の部屋だ。夜とはいえまだ日付の変わる前、起きていてもおかしな話ではないが、仕込みで朝の早い彼だ。いつもなら寝付いている頃だろう。
不思議に思い、影虎は悠々館へと足を向けた。家人を起こして中に入れてもらうのは気が引けて、まるで忍び込むかのようではあるが、二階の屋根へと跳びのぼって、屋根から直接に崇の部屋を目指す。
影虎が窓を叩く前に、崇はこちらに気がついた。一瞬緊張した面持ちを見せたものの、窓の外にいるのが影虎だと気がついた途端に、ゆるゆると情けない表情に変わる。
「な、何してるんだぜ?」
「いや、灯りついてたから何か気になって。いつもなら寝てる頃だろ?」
呆れと安堵の中間のようなおかしな顔をしながら、崇は窓を開けてくれた。靴を脱ぎ、窓から部屋にお邪魔する。
部屋には洋もいた。同じく呆れと驚きがないまぜになったような顔をしていた。片隅には、こんもりと丸くなった夏蒲団がある。覗く銀髪からみるに、あれはおそらく莉功だ。影虎の来訪は気づいているに違いないが、起きるのが面倒だからと眠ったふりをしているのだろう。
「旦那、疲れてるんだぜ?」
「ん、ちょっとだけな」
目ざとく影虎の疲労を見抜いた崇は、お茶を入れてくる、と階下へ向かった。影虎は部屋の片隅に腰を落ち着けた。
「で、何してんだよこんな時間まで」
「それは私があなたに言いたい台詞です。こんな時間に外を出歩いて、しかもそんなにも薄汚れた風体で、いったい何をしてきたのです。いえ、説明は結構――私どもに危害があるようなら説明はしていただきたいですが、特に何もないようでしたら話していただく必要はございません」
「危害、なあ」
洋の長台詞をうんざりと聞き流していた影虎だったが、物騒な言葉に思わず洋の台詞を遮る。
「未然にはしたいけど」
「してくんなきゃ困るんだけどねー」
もそもそと、布団に丸まったままに莉功が寝返りをうった。枕元の眼鏡を探して、あちらこちらに手が動き回る。そのうちに見つけた眼鏡をかけてから、莉功は布団の上に体を起こした。
「ところで、何で莉功さんここにいるんすか」
「ガキどものお守りだよ。ま、一応ね」
何かあったのか、と問う前に、莉功は文机の上の似せ絵を手に取り、影虎に差し出した。
「昼間、つか夕方だな。そいつがここに来た。おかげで、ちょーっと危機感的なもんを抱いちゃったわけで? 俺じゃ手も足もでねえだろうなあ、と思いつつ、まあ一応? 居てる方が良いかなあと思って?」
何故か疑問系で言う莉功は、影虎の様子をつぶさに窺っている。
「顔色が変わったな」
被疑者を尋問する部隊長の顔をして、莉功はどこか酷薄にも見える笑みを浮かべてみせた。
「いったい何者なのです。非戦闘員である私とて、その男の恐ろしさは肌で感じました。怖さ、と言い換えても構いませんが」
「店の戸を開けるまで、オレ、そいつがいるの全然気づかなかったんだぜ」
お茶を盆に乗せて、崇が戻ってきた。影虎の前に湯のみを置きながらも、視線は似せ絵に注がれている。
「なのに、入ってきた途端、すごく怖かった。――怖かった、っていうか、緊張したって、いうか……。分かんないんだぜ」
「最初から最後まで、気配を消したまま、怪しまれないままに立ち去ることもできたろうにな? なのにそいつはそうせずに、俺たちをびびらせるだけびびらせて帰ってった。――で? 何者なんだ?」
影虎はその似せ絵を莉功に返し、ようやくのことで笑ってみせた。落ち着いたはずの呼吸が、浅くなっている。
「こいつの持ち主だ」
と、懐から取り出した小刀を、三人の前に転がしてやる。
「業物だな」
辰の浮き彫りの施されたそれを手に取り、莉功は珍しく真剣な顔で小刀を見やっていた。
「ついでに」
影虎は、投げ出した脚をぽんと軽く叩いた。とうに治ったはずの古傷が、じくじくと熱く疼くようだった。
「俺の足を奪った相手」
驚きに目を瞠る三人を素知らぬ顔で、影虎は出されたお茶を啜った。熱いほうじ茶が疲れた体に染み渡る。
似せ絵を視線の隅に留め、影虎はひそやかに笑う。
――壬生辰覇
それが、男の名であった。