拝啓、首吊り台より
夕暮れの空を、刷毛で塗ったかのような薄雲が彩っている。その下に、赤、橙、黄、様々な色に飾られ始めた山々が息づいていた。
だんだんと、町に明かりがぽつぽつと灯っていく。空が刻々と色を変えていくこの時間が好きだった。
暦上秋とはいえ、まだまだ暑い。真夏の頃よりはずっとましだが、じっとりとした暑さが不快だ。通りを歩く人々はまだ、夏の装いだ。
甘味所の店先で、店の親父が声をあげてところてんを売っているのが見えた。その甘味所から西へ数十歩の所、瑠璃治安維持部隊乾第壱班の屯所がある。
瓦葺の二階建て、その屋敷に面する通りで、先日、殺しがおきた。白茶けた通りを染める赤は、紅葉の葉の色を思わせた。
瑠璃の里は、北西の乾、北東の艮、南東の巽、南西の未申の四つの区域からなる。
この里を治める長、如月の御殿を中心に、里を四分するように縦横に大通りが通る。
大通りに四分された東西南北の区域それぞれと、中央の本部とに合わせて五つ、瑠璃治安維持部隊がある。部隊は四つの班で構成されていた。
警察の役目を果たす壱班。
特警と通称される、武力特化された弐班。
火消しの役を司る参班。
それぞれの班活動で出た死体を処理する四班、の四つだ。
その、瑠璃治安維持部隊乾第壱班の屯所だ。
「ああもう嫌! 疲れた!」
背の半ばまである癖のある赤い髪を乱して、班長は座卓に突っ伏した。それまで彼女が手に持っていた紙束が、ばさばさと舞い散る。
「あーもう班長、余計な事しないで下さいよう。俺だって疲れてるのに」
彰司はぼやきながら、畳に散らばった紙を集めた。
最近起きた通り魔事件の被害者の一覧だ。班長が髪の間からじっとりとした恨みがましい目で見てくる。
問うと、あんたは良いわねえと低い声で呻いた。
「彰司は、まだ二十三だっけ?」
「そうですけど。それがどうしたんですか」
班長が体を起こす。長い髪が顔の前に垂れていて、不気味だ。髪の合間から、眦の切れ上がった水色の目が見えた。眉根を寄せて、もう一度あんたは良いわねえとぼやいた。
「二日間完徹でも、肌きれいだもんねえ」
「……あー、ほら、……ね。でも班長もまだ、二十九、でしょう?」
彰司は、半眼でこちらを見てくる班長から白々しい笑みを浮かべつつ目を逸らした。
彼女の二十九歳の誕生日は、彰司を含む十人ほどの、駐在隊員を挙げて、少なくとも三回は祝わされている。通いの隊員は班長の年齢すら知らないだろう。
班長は髪をかき上げてため息をつき、彰司から書類を受け取る。さっきのような半眼ではなく、しっかりとした目で書類を見据えた。
「……江島清孝二十二歳、か」
先日の、屯所前で起きた殺人の被害者だ。
書類に描かれた江島の似絵は、死相からは想像できないほどの好青年だ。毛先が僅かに肩に触れるほどに伸びた茶色い髪が良く似合う。
班長がその江島の似絵を、指先でパシンと弾いた。
「何が『清』い『孝』なのかしらね。むしろ性交のほうが良いんじゃないの」
「……不謹慎ですよ。一応は、被害者なんですから」
苦笑しながら、彰司は班長から書類を受け取った。そうね、と気の無い返事をし、班長は仰向けにごろりと寝転んだ。
濃灰色の制服に赤い髪が散って、きれいだと思った。
書類を見る。俯くと目の前に伸びた黒い髪がかかって邪魔だ。
班長やら他の隊員やらに鬱陶しい、引きこもりっ子みたいだから切れと言われているものの、特徴の無い自分の唯一の特徴のような気がして、なかなか切れずにいる。
彰司は左手で前髪をよけ、もう一度書類を見た。被害者の似絵や、死亡時刻、交友関係などが書かれている。
江島清孝二十二歳、婦女暴行殺害事件の容疑者候補。
江島が殺される数週間前、また別の事件が起きていた。
ある身重の女性が数名に犯され、殺された。女性の腹は切り裂かれ、胎児が取り出されていた。
その二人の側に、男がいた。女性の夫だ。
灯りを点していない暗い部屋で、血に染まった畳の上に正座をし、その日の夕餉を一人、口に運んでいた。確か、ほうれん草の白和えに、肉じゃがだ。彼の持つ箸は、紺色だった。
彰司は吐いた。
壱班に入隊して三年になる。それまでにも顔が紫色に膨れ上がった扼殺死体だの、全身がぶよぶよした水死体だの、直視していられないものを見てきたが、それでも吐き気を抑えられなかった。
壱班はすぐさま彼を保護した。
彼の名前を、香田という。保護された時、香田は、二人分はきつかったなァと、ぼそりと呟いた。
この事件の犯人はすぐに捕らえられた。それでも数名、取りこぼした者がある。捕まえた者に吐かせた結果、逃した者は江島を含む三名だ。その三名は、証拠不十分で捕らえられずにいた。捕らえた者の証言だけでは捕まえるには足りない。問い詰めても吐かなかった。
そして、事件が起こった。
彰司は書類を繰った。班長の寝息が聞こえる。
幸島誠十九歳、婦女暴行殺害事件の容疑者候補。
岬正栄二十一歳、婦女暴行殺害事件の容疑者候補。
二人とも、そんな残酷な事をしでかすような雰囲気ではない。しでかしそうな雰囲気ってどんなのだと聞かれたら、それはそれで困るのだが。
彰司は息を吐き、書類を座卓に投げ捨てた。
江島も、幸島も、岬も、殺害された。今頃、捕らえた数名は牢屋で震えているのだろう。それとも、安堵しているのか。
この通り魔事件の犯人はまだ捕らえていない。乾壱班への非難批判の声は高まるばかりだ。
毎日毎夜、乾弐班にも協力してもらい、見回りをしている。それでも犯人は捕らえられない。
(捉えてはいるのになあ)
いや、上手い事言ってる場合ではない。
彰司は肩に手を当て、首を回す。左の耳の後ろで、ぎょりっと妙な音がした。
江島が殺されたのが三日前、幸島は五日前、岬は一週間前だ。
そして、香田が保護館から逃げ出したのが、一週間と二日前。
彼は保護されていただけであって、別段、犯罪者なわけではない。けれど、逃げ出した時点で犯罪者となった。彼を見張っていた役人が扉を開けた時、香田は逃げ出した。役人の首を絞めて。
壱班はすぐに香田を追った。
香田は保護館から逃げ出した時、ボウガンを持ち出した。このボウガンはもしもの時に、と置かれていたものだ。その『もしも』が、仇となった。
三人の死因は、損傷による出血多量だ。彼らの体には、ボウガンの矢が刺さっていた。
牢屋にいる江島の仲間に尋ねたところ、例の事件の関与するのは、殺された三人と、自分たちだけだと言う。
(だったら……)
もう、事件は起きないはずだ。起こらない事を願う。矢もそのうち尽きるだろう。
りいりいと虫の鳴く声が、閉めた障子の向こうから聞こえる。そんなわけないのに、障子の桟に赤いものが付いているような気がして、何だか鬱な気分になった。
班長がむくりと起き上がる。ぼんやりとした目で、壁の時計を見た。ちょうど、夜の見回りの開始時間だ。
数人ずつに分け、区域ごとに見回りをする。昼間の見回りは乾弐班と、数人の壱班でしていた。
幸島を除いて他の者は皆夜の間に殺されている。夜間に、人数の多い壱班が見回りをする事になっていた。
班長は長い髪を首の後ろで一つに束ね、制帽を被る。ぱんぱんと高く手を鳴らした。他の部屋でたむろっていた隊員が集まってくる。彰司は班長に倣い、前髪を括った。
「何で捕まらないのよおう……」
赤い髪を乱して、班長は座卓に突っ伏した。彼女の持っていた紙の束がばさばさと畳の上に散らばる。
「……何ででしょうねえ」
彰司は覇気の無い仕草で、紙を集めた。先日よりも、その量が多い。
あれからまた、被害者が増えた。
役人も含め、計七人になる。新たに殺された三人は、先日の事件とは関わりの無い者ばかりだ。
壱班は何か起きてからじゃないと動けない、何か起きてからでも動けない。最近町ではそう揶揄されている。
それに対してはごめんなさいとは言えないし、許してくれとも言わない。
「被害者の詳細分かりましたよぉ」
すらりと障子戸が開く。彰司は、月明かりを背負った同輩を見上げた。眼鏡が逆行になっていて目が見えない。
「遅いわよ
班長は疲れた声で、莉功の差し出した書類を受け取った。いやあすいませんと、少しも悪いと思ってなさそうに莉功は後頭部に手を当てた。『失敗失敗☆』の格好だ。
集めた書類を莉功に渡し、彰司は開け放したままになっていた障子を閉めた。
「おもしろいでしょう? 何考えてんだろうねえ奴は」
書類を眺める班長に、莉功が笑い声で言いながら班長の向かいに座った。楽しげな莉功の声とは裏腹に、班長の表情は厳しい。
彰司は後ろから班長の持つ書類を覗き込んだ。莉功の、アクの強い右上がりの小さな文字がびっしりと書き込まれている。
「要するに、皆殺しってこと?」
言って班長は、はあああああと長いため息をついた。勘弁してくれよ、といった様子で持っていた紙を座卓にべしりと叩きつける。
その紙には新たに殺された三人の事が示されていた。いつどこで誰とどんな事をしていたのか、事細かすぎるほどだ。
「そうですねえ。まあ、自分の嫁さんと子供殺した人間と、
「その友人縁者全員?」
莉功の言葉を奪う形で、彰司は誰に問うでもなく呟く。勘弁してくれよ、だ。
役人と、岬、幸島、江島に次ぐ五人目の被害者は、江島の仕事先の同僚だ。
六人目は捕らえた内の一人の元恋人。
七人目は幸島の従兄だ。
莉功の書類を見ても、三人とも事件への接点という接点は見られない。
今までは、まだ理解できる。自分の妻と子供を奪った者への復讐だ。
しかしこうなってしまえば、ほとんど無差別だ。莉功の書類によると幸島の従兄など、幸島とは気が合わず、ほとんど顔も合わせない状態だったらしい。
班長は座卓に肘をつき何やら考え込んでいる様子だ。莉功は素知らぬ顔で、被害者の一覧の書類を眺めている。
「見回り、行くか」
班長が疲れた声で言った。時計を見ると、いつもより一時間ほど早い。彰司と莉功は顔を見合わせ苦笑し、頷いた。今自分達にできる事は、結局はこれくらいしかない。
「お前、王道って言葉知ってる?」
前髪と顔の横の髪を一まとめに頭の後ろで括った彰司を指差し、莉功が馬鹿にした声で言った。
町は寝静まっており、りりいりりいと虫の声だけが聞こえる。家の前に吊るされた竹籠の吊り灯篭も、灯を点している家は少ない。道の両脇に等間隔で据えられた、石灯籠の中の蝋燭がゆらゆらと揺れている。時折遠くで、猫の争う声が聞こえた。
「知ってるけど、それが何だよ」
莉功が顔をしかめ、肩を竦める。
見た目だけは銀鼠の髪と眼鏡の似合う知的な男だが、中身はそうでもない。同期の中で一番仲の良い話の合う奴がこいつだと思うと、何となく自分が情けなくなるほどの物だ。
「眼鏡とか仮面とか前髪とかはなあ、とっぱらったら実は美少年でした! ってのが王道だろ? 裏切ってんなよなあ」
「……そいつはどうもすいませんねえ」
莉功の失礼な台詞はいつもの事だ。こいつと仕事が一緒になると、とりあえずは貶される。
今までで一番腹が立ったのは、お前の目え怖いよなあ光ねえもん何つうの? がらんどうの瞳? 何か三人くらい軽く呪ってそうだよなあ、だ。しかも初めて仕事が一緒になった時に、これだ。彰司は初めて人を呪いたいと思った。
「てかお前警棒似合わねえなあ。むしろ
「木槌は持たんぞ。藁人形も持たんぞ」
腰に差した警棒に指を掛けて低い声で言うと、きゃあ怖あい以心伝心? と裏声で騒いだ。
これだけ二人して騒いでいるのに、その声は周りには聞こえない。壱班に入ってまず教えられるのは、この会話法と、足音を全くさせずに歩く歩き方だ。
「なあ莉功」
「何ですか彰司くん」
「……本気で、犯人に関係してる人達全員、殺すつもりなのかな」
だとしたらきっと、自分たちも彼の標的にされているのだろう。
「……まあ、させないけどねえ」
彰司は俯いた。砂埃で汚れた爪先が見えた。足の人差指が親指より長いと親よりも出世する、という迷信は信じない方向でいく事にしている。
「何お前、そんな事をしても死んだ人は悲しむだけだ!とか言っちゃう系?」
莉功の声に、彰司は無言で首をふる。白和えと肉じゃがが目の前にちらついた。
「お前、犯人に同調しすぎちゃ駄目よ? やり辛いぞ?」
「分かってるよ。知ってる」
理解するとわかるは別物だ、と始めに言い出した人は偉大だと思う。
二人は足を止めた。
乾の一番北側の通りだ。
今までのような家と家の間の小道ではなく、道の向こうには森が広がっていた。石灯籠の灯も消えている。
数歩歩く。
後ろには明かりを消した暗い家々が、前には黒々とした森があった。
彰司は莉功に目配せをした。了解、と莉功が片手をあげる。何かおかしな様子があったら、莉功が人を呼びに行く手筈だ。
森に足を踏み入れた。僅かに湿った土の感触が足の裏から伝わる。しばらくその場でじっと動かず、目を慣れさせる。そのうちに、ただの黒い塊でしかなかった空間が、木々や茂み、葉の形までが明瞭に見えてきた。
がさり、と音がする。
音のした方向に目をやると、丸っこい鳩ほどの大きさの鳥が茂みから出てきたところだった。彰司は息を吐き出し、肩の力を抜く。
がさり、ともう一度、音がした。先程よりも重い。背後、自分よりも上からだ。上。だとすると、木の上だ。がさりがさりと、音がする。
彰司は、ゆっくりと首を巡らした。
そこに、人の目があった。
一つ鋭く舌打ちをして、彰司はその場から飛び退いた。
背後でびゅん、と風を切る音がする。今まで自分のいた場所に、とすりとボウガンの矢が刺さっていた。
近くの茂みに転がるようにして隠れる。地面に這いつくばると肥えた土の臭いがした。目の前に小石の上を這う小さな虫があった。
捕食者の目だ。
顔形は暗くて見えない。その中で、二つ、目だけが鈍く光っていた。真夜中に厠に行く途中、暗がりに猫の瞳を見た時の、あの気分だ。 背後でたふり、と音がした。木から飛び降りたのだろう。土を踏みしめる音、小枝の折れる音、矢を引き抜く音。僅かに聞こえる、息遣い。
彰司はゆっくりと、泡立った肌を落ち着かせようと、袖の上から腕を撫でた。爪の間に土が入っていて、気持ち悪い。ゆっくりと何度か大きく呼吸をする。懐から小刀を取り出した。
自分の隠れた茂みから右斜め前の茂みに、勢いよく取り出した小刀を投げつける。ぼそりと音をたてたその場を、矢が射抜いた。
ギャアっと高い悲鳴があがる。
彼はすぐさまその茂みに走った。彼の跳ね上げた土が彰司の顔先までとんできた。
「……鳥……?」
羽に矢が刺さりもがく鳥を見て、男は気の抜けた声をあげる。
彰司は左手の人差指と親指を口に含み、指笛を吹いた。
ピイイっと甲高い音が森に響く。彼が勢いよく振り向いた。
ヒゲ、似合わないな。そう思った。口に広がる土の味に顔をしかめる。
射ようとする彼の手に、拾い上げた小石を鋭く投げつける。
うろたえた隙に、側まで走りこんだ。
腰の警棒に手をかける。警棒が手に馴染むよりも早く、指先が触れるだけで、手を放した。
咄嗟に顔を覆おうとする彼の手よりも、彰司の足の甲が彼の側頭部に命中するほうが早かった。準備運動も無しに足を振り上げた所為か、足の付け根が痛んだ。
彼が呻いてその場にしゃがみ込むのと、莉功がやって来たのが同時だ。
遅い、と文句を言ってやると莉功はいつもの様に『失敗失敗☆』の姿勢を取った。