拝啓、首吊り台より2
「死刑、ですか」
班長がそうよ、と髪を跳ね上げながら答える。
香田は屯所の離れ、仮拘置所に繋がれている。
「本部のお偉いサマがそうしなさいって」
何も殺してやる事無いのに、と班長は不満げに口を尖らせた。
座卓に片肘をついてお茶菓子をつまむ班長の正面に、彰司は腰を下ろす。
「でも……、まだ、犯人と決まったわけではないでしょう?」
班長は口元まで運んだ煎餅に、歯をあてた。
「自供したわ」
証拠品もあがってるし。
ぱきんと歯で煎餅を折る。
彰司は菓子の入った皿を班長から遠ざけて、自分の隣に置いた。
班長は彰司の顔を、つまらなさそうな顔で見ている。ふう、と一つ息を吐いて、ああそうだと思い出したかのように手を打ち合わせた。
「あんた、香田の見張りしといてね」
自殺なんかさせるんじゃないわよ、と見据える目が暗に言っている。有無を言わせぬ強い調子に、彰司は頷いた。
拘置所は一部屋一部屋別れている。
長い廊下の両脇には、いくつもの扉があった。中からうめき声やら無実を訴える叫び声が聞こえた。
東西南北それぞれの壱班には仮の拘置所がある。本部壱班で刑罰を決め、それから本部の刑務所に移動させる。
彰司は懐から鍵の束を取り出した。鍵穴に差しこみ、回す。扉を開けると、糞尿の臭いが強くなった。
彰司は咄嗟に息を止めた。
扉の中の木製の格子越しに、ぼんやりと座って壁にもたれ、明り取りの小さな窓を眺める香田がいた。明るい茶色の髪は汚れ、白い顔には髭が生えていた。目尻に目ヤニが張り付いている。格子を数回叩くと、こちらを向いた。
「……前髪、括っている方が似合っているよ」
「…………それはどうも」
括ると括るで目が怖いとか何とか言われるんですがね。
彰司は苦笑する。それで? と香田はぼそりと言った。
「僕は、殺されるのかい?」
しばらく黙した後、そうだ、と答えた。
香田はそうか、と目を瞑った。
俯くと、香田の小さな歌声が聞こえた。やんわりとした、穏やかな歌だ。子守唄のような旋律だ。
「どこに隠れていたんだ?」
尋ねると、歌うのをぷつりと止めて、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……上、さ。木の上。君達は自分の目の高さでしか探していなかっただろう? それに、屯所にはもう少し人を残しておいた方が良い」
彰司は首を傾げた。香田は笑う。悪戯が成功した子供のようだ。
「夜、いつも同じ時間に行っていただろう? その時間、僕は屯所の付近に隠れていた」
彰司は格子に手をかけ、ずるりとしゃがみこんだ。そんな彰司を見て、香田が笑い声をあげる。今回はしてやられたよ、と笑いの間に言った。
彰司は髪の間からじっとりと香田の顔を見上げた。残っていた隊員を殺すこともできただろうに何故そうしなかった。彰司の視線の意味を汲み取ったのか、香田は小さく頷いた。
「…………厨房から醤油の焦げる臭いがしてね。殺せなかった」
そうか、と言って、彰司は目を逸らした。
「君はどうして壱班に入ろうと思ったんだい?」
唐突に香田は尋ねた。彰司は不意をつかれて黙り込む。
自分に意味を持たせたかったから。
そんな言葉は、何だか格好良すぎて恥ずかしくて言えない。答える代わりに、別の言葉を吐いた。
「よくしゃべるな」
「今まで相手がいなかったからね」
なるほど。彰司は苦笑する。何となく話しかけるのがしゃくで、黙り込んだ。
香田がまた歌い始める。
彰司はその場に腰を下ろし、格子にもたれた。背を向けたまま、小さな声で言った。
「何故、殺した?」
声が途切れる。見えないが、きっと香田は笑っているのだろう。
「……人を愛せるからだよ」
そうか、と頷いた。そうだよ、と背後で香田も頷いた。
長い廊下を歩く。ここを歩く時は足音を気にしなくても良いと昔教わった。その方が、囚人に圧迫感を与えられるのだという。
扉を開けると、香田の歌声が聞こえた。昨日歌っていたのと同じ曲だ。
「練習、したんだ。上手いだろう?」
頷くと、笑った。
彰司が何も尋ねずとも、香田はぽつりぽつりと、穏やかな声で語った。ゆっくりした調子は、彰司が公文所に通っていた時の教師を思い出させた。聞いていて眠くなる、そんな声だ。
亜樹は料理が下手でね、最初の頃は、ひどかった。おにぎりだけは上手いんだよ。
茜と名付けようと思っていたんだ。男の子でも女の子でもどっちでも良いように。綺麗な名前だろう。
爪が、生えていたよ。僕の小指の爪の、白い所くらいの、小さいのが。
香田が話すたび、彰司はそうか、そうかと頷いた。前髪が役に立った。表情を隠してくれる。
「君は、そうかしか言わないね」
そうかとしか言いようが無いんだ、と言う声も、喉が詰まって言えなかった。
いつか班長が言っていた言葉を思い出す。
正しい事が正義とは限らないわ。それに、正義が正しいとも限らない。
明り取りの窓から、赤く焼けた空が覗く。ぼんやりと眺める香田を、ぼんやりと彰司は眺めていた。
「僕は、いつ死ぬのかな」
「……明後日、だよ」
うん、と香田は笑った。また、小さな声で歌いだす。
日が沈む。徐々に空が暗くなっていった。
「……人が人を裁くのか……。変な話だね」
「…………神様はやる気無いんだよ」
「ああ。……だから僕が裁いた」
香田は無表情に両手を見下ろした。じっと汚れた指先を見つめたまま、ぼそりと言う。
「神様なんているのかな」
「……いるんじゃ、ないかな」
君はそう思うのかい? と香田が首を傾げる。
「…きっと、余所見していたんだ」
なるほど、と香田は笑う。ここに来てから見るのは香田の笑い顔ばかりだ。
「余所見するほど、僕らは楽しくなかったのかな」
「………」
「最後は、少しは楽しくしてあげられたかな」
少なくとも班長は穏やかではなかったはずだ。捕まえたら飲む! 寝る! と騒いでいた。
香田が低い声で歌っている。彰司は格子にもたれかかって、その声を聞く。
幼い頃から、悪い人を捕まえる仕事というものに憧れていた。
英雄のように思っていた。
少なくとも、酒を飲んでばかりいる父親よりはずっと立派な仕事に思えた。
しかし、と思う。
正義とは何だ。
六人で二人を殺した者は禁固刑で、一人で七人を殺した者は、死刑だ。
もしも、自分に近しい者が殺されたとしたら自分はどうするのだろう。やはり殺すのだろうか。
否、だ。
例えばもし班長が奪われたとしても、自分は動かないだろう。そんな事をしても死んだ人は悲しむだけだ云々以前に、自分の手を汚すのが怖い。壱班の名前の外で手を汚してしまう事が恐ろしい。
誰かを手に掛けた者は裁かれる義務がある。その義務を背負ってまで、大切に思える誰かがいるとは思えない。
眠る前、床の中でずっと、香田の歌声が耳から離れなかった。瞼の裏に、香田の笑顔が焼きついて消えなかった。
「恋じゃない? それ」
うわあ彰司君睨んじゃ嫌あ、と莉功が身を引く。彰司は睨みつけるだけで、何も言わなかった。莉功の相手をする元気が無い。
「だから言ったでしょー? あんまし同調すんなって」
「……するなって方が無理だ」
彰司は項垂れる。
香田の見張りは数人で交代でしているのだが、彰司の見張りの時間が一番長かった。いや、長いと彰司が思っているだけで時間は同じなのかも知れない。拘置所には時計が無いから詳しい事は良く分からない。
ただ、日の入りの時間帯は、いつも彰司の受け持ちだった。じっと夕焼けを眺める香田を見るのは、つらい。しかしそれでも、他の人と代わってくれ、とも何でだか言い出し辛かった。
「爪、生えてたんだと」
「はい?」
「香田の子供。で、奥さんは料理がへたくそだったんだと」
「……へえ」
「そういう話、延々聞かされてみろよ」
あー、うん、そりゃしんどいなあと莉功は目を逸らした。
その他にもいろいろと香田は語った。
結婚を反対されていた事。ほとんどかけおち同然で飛び出してきた事。焼きおにぎりの具は梅干が一番好きな事。
「香田の方が正しい気がしてきても、仕方ないだろう」
「まあねえ」
屯所内の、彰司の部屋だ。四畳半ほどしかない質素な部屋だ。襖で区切られた隣の部屋は、莉功の部屋である。
いつもの会議室兼食堂のような立派な座卓は無いが、小さなちゃぶ台兼文机が部屋の真ん中に置かれている。今は二つ、でがらしのお茶の入った湯のみと急須が置かれていた。
そのちゃぶ台に肘をついて彰司は言う。
「最近、班長が言ってた事思い出すよ」
「何かその言い方、班長死んでるみたいだなあ」
ああごめんごめん聞くから睨むなって怖いってこのがらんどう目が!
莉功が両手で体の前に壁を作りながら、怯えながら謝りながら貶す。
器用な奴だ。彰司はわざとらしくため息をついた。でがらしを飲み干して、莉功は頭の後ろを掻いた。けどまあ、と前置きおして、
「死ぬべき奴はいくらでもいるけど、殺して良い奴は一人もいないって事だろ」
「……なのに俺たちは香田を殺すのか」
嫌なら辞めれば? と、莉功の笑った目が言っている。彰司は思わず胸元へ手をやった。かさりと紙の感触が制服越しに伝わる。辞表だ。先日したためた。
莉功が鼻で笑う気配がした。
口が渇く。彰司は温くなったでがらしを一口飲んだ。
「今日の、午後だ」
「香田の処刑?」
「俺が、介錯する」
庭に張られた縄に、洗濯物を干している時だった。
今朝の話だ。
ピンと張られた縄に、石鹸の匂いのする洗濯物を一枚一枚干していく。袖口から縄を通し、皺の出来ないように整える。何だか人がそのまま干されているようで変な感じだ。そういえば昔、等身大のてるてる坊主を自分で作っておきながら、何だか怖くなって泣いた事がある。思い出して苦笑する彰司の背に、声がかけられた。
「話があるわ」
彰司は首を傾げる。班長の硬い声に体が強張る。背の高い彼女は、自分とそう目の高さが変わらない。班長は彰司の耳の辺りを見ている。彼女の癖だ。大事な話ほど、目を見て話さない。
「今日の午後、空いてるでしょう?」
班長の言わんとする事を察して、彰司は身を引いた。左足を後ろにやると、洗濯籠が踵にあたって倒れた。
「……嫌です。俺よりもっと、適切な人がいるでしょう」
「だからあんたが行くのよ」
彰司は倒れた籠を立たせようと屈みこんだ。
「彰司」
屈んだ彰司の頭に、硬い声が降ってくる。
「子供のケンカじゃないのよ。やられたからやりかえすなんて、通用して良いはずがない」
黙る彰司の頭に、命令よと声がかけられた。聞けないならあんたなんかいらないわ、とも。
厨房から飯を炊く良い匂いがした。
その時の飯を食べ終わり、今は自室にて休憩しているところである。
彰司はもう一口でがらしを飲む。薄すぎる茶は、逆に不味い。これならただの白湯の方がずっとましだ。
へえ? と眼鏡の向こうの灰色の目が見開かれる。
介錯、と言っても首を切り落とすのではない。首吊り台の上までつれて行くだけだ。もし暴れるようなら、無理やりにでも首に縄を括り、台の下へ突き落とす。
開け放たれた障子の向こうに、庭が広がっている。真夏よりもずっと和らいだ日の下に、緑が生えている。
いつの間にか蝉は鳴き声を変えた。じよじよとうるさいばかりだった物が、つくしーよ、つくしーよ、と夏の終わりを告げる物になっている。
鮮やかな緑のその上には、薄青い空があった。浮かぶ雲が蟷螂の卵の形だ。
伸びすぎた桔梗がへなりと地面に這いつくばっている。
縁側の靴脱ぎの上に、いつの間にやらいついた黒猫が伸びている。
風に白い洗濯物がはためいていた。揺れる等身大のてるてる坊主を思い浮かべた。その大きな顔は、紫色をしている。
本部の、壱班だ。
壱班の、処刑場だ。
広い道場程の大きさで、天井が高い。天井の平らな蔵のような感じだ。その高い天井のある一点から、縄がさげられていた。縄の先は、輪になっている。
その縄の下に続く階段があった。
隣に、後ろ手に手を縛られ、目隠しをされ、真白い装束を着た香田がいる。後ろにはお偉い様がたが控えている。
拘置所からここまで、俥の幌の中でも香田は歌っていた。俥を引く隊員が不愉快そうに眉間に皺をよせていた。
彰司は香田の腕を掴み、階段の下まで歩いていった。
階段を上る。
静かな空間に、二人分の足音だけが響く。
一、二、三、
壁と天井の間に、手の平程の隙間がある。
格子で区切られた赤い空が見えた。
四、五、六、七、八、
階段を上る彰司の背に、大勢の視線が注がれているのを感じる。
九、十、
香田が息を吸う音がした。
十一、十二、
「僕の矢が刺さったあの鳥……」
十、三。
「死んでないと良いなあ……」
彰司は腕を掴む手を離した。離した手で縄を引き寄せる。
引き寄せ、――手を離した。
ぶらりと縄が揺れる。弧を描く縄を、赤い西日が照らしている。
彰司は、香田の目を隠す布を、外した。
手を縛る縄も。
足下でどよめきが起こったが、自分の心臓の音で、さして気にもならなかった。
香田がぼんやりとした顔で、眩しそうに格子越しの小さな夕焼け空を眺めている。
ふと、その目が驚きに瞠られる。
それから、……