何の気もなく木箱を整理していたら、懐かしいものが出てきた。空色のビー玉だ。辰覇はそれを、ころりと手のひらに転がした。
高価なものではない。縁日で売っていたものだ。予四郎が生前、辰覇に買い与えたものだ。
もう何年も前の事になる。あれはまだ、辰覇が『辰覇』としての生を生き始めた頃だろうか。
縁日を見に行くぞ、と、与四郎が急に言い出したのだ。騒ぎになりますと辰覇は止めた。良いですね、と竜造は賑やかして誘いに乗った。奥方は笑って頷いていた。縁側でうつらうつらと眠っていた息子を抱き上げて、与四郎は祭に繰り出した。
案の定騒ぎになった。しかし与四郎が里に下りるのはいつもの事だったので、浴びせられる視線は奇異のものではなく、暖かなものだった。
里の民と言葉を交わし笑い合う与四郎が、辰覇には誇らしかった。
幼子向けの玩具を取り扱っている屋台の前で、ふいに与四郎は足を止めた。屋台の主と一言二言何かを話し、戻ってきた与四郎は華やかに笑って、手を出せと得意げに言ったのだ。
そして手のひらに落とされたのが、このビー玉だ。
懐かしい。どこかに仕舞っておいた事は覚えていたが、日々に追われて、こうして取り出して眺める事は無かった。
軽い足音が近づいてくる。四葉のものだろう。程無くして、控えめな声が障子戸の向こうからかけられた。
「……辰覇さん……。お父さんから、預かり物……」
「開けて良い」
す、と小さな音を立てて障子戸が開かれる。四葉は書簡を手にしていた。
どこか物珍しげに辰覇の部屋を眺めながら、四葉はこちらにやってくる。今日は髪を、高い位置で一つに結わえていた。というのも、彼女を溺愛する父親の手によって、四葉の髪形は日によって変えられるからだ。
艶やかな黒髪が、まるで馬の尾のように揺れている。本当にこの大人しい子供が、あの、よく言えば磊落、悪く言えば粗野な竜造の血を引いているのかと疑わしく思える。
しかし明るい若草色の瞳は、やはり彼との血の繋がりを感じさせてくれて、不思議なものだなと辰覇は今更ながらに考えた。
辰覇に書簡を手渡した四葉は、辰覇の手のひらのビー玉に目を留めたようだった。
「……きれい、だね……」
ほう、と小さく息を吐く。その声には、ほんの少しばかりねだるような響きがあった。
いつも控えめで、何かを欲することの無い子供だ。その四葉が、きれいだと言ってビー玉を欲しがっている。珍しい。
「欲しいか」
この屋敷で辰覇たちは共に暮しているが、何かと留守にする事が多い。四葉はその間、いつもひとりで留守番をしている。その彼女の慰めになればと思ったのだ。
「……良いの……?」
「構わない」
もとより、ビー玉など子供の玩具だ。そろそろ三十路も近くなってきた辰覇の手元にあるよりは、四葉の手元に有るほうがずっと良い。
おずおずと手を伸ばす四葉の手のひらに、辰覇はビー玉を渡そうとした。
「駄目だよ」
しかし、加羅の声に阻まれた。
加羅は四葉の手に己の手を重ねて阻み、辰覇の手からビー玉を取る。
「これは、辰覇の大事なものだから」
「……そうなの……?」
ごめんなさい、と見るからに四葉は肩を落とす。そんな四葉の肩を叩き、加羅は整った面に微笑を浮かべた。
「おれが今度買ってきてあげる。四葉ちゃんは何色が好き?」
「……お花の色……。空の色も、好き……」
「分かった。今度見てくるよ」
「……ありがとう、お兄ちゃん……」
「どういたしまして」
ぽん、と背を叩き、加羅は四葉の退出を促がす。来た時同様、軽い足音をさせて四葉は部屋へと戻っていった。
「若、いつこちらに」
「今戻ってきたばかりだ」
良いながら、加羅は手のひらの中のビー玉に目を注いでいる。
程無くして加羅は顔をあげた。辰覇の手を取り、手のひらを上向かせる。
「綺麗だろう。まるでお前の目の色のようだ」
硬い辰覇の手のひらに、ビー玉が落とされる。
手のひらのビー玉を、辰覇は眺めた。懐かしい。そうだ、あの時、与四郎はそう言って、辰覇の手にこのビー玉を握らせたのだ。
お前の目の色のようだ、と。
加羅が口にした言葉と、一字一句違わず。
ありがとうございます、大事にします。ずっと大事にします。ビー玉を握り締める辰覇を、大仰だと与四郎は笑い飛ばした。
確か、あの時加羅もその場にいた。予四郎は屈んで幼い息子に視線を合わせ、小さな手のひらに紅いビー玉を握らせてやっていた。
ありがとうございます父上。大事にしますね。
そう言って、あの時の加羅はあどけない笑みを浮かべてはしゃいでいた。
辰覇は手渡されたビー玉を握り、立ったままの加羅を見上げる。一つに束ねられた、僅かに癖を含む金の髪。凛と鮮やかな紅緋の瞳。日に日に、父に似てくる姿。長く伸ばされた前髪だけが、父とは異なっている。
辰覇は目を逸らした。そら恐ろしくなってしまったのだ。思い出が、そっくりそのまま目の前に存在するだなんて。
違う、そのままではない。彼は、与四郎ではない。予四郎は死んだ。殺された。護れなかった。死んでしまったのだ。もういない。ここにはいない。
「若」
彼は与四郎ではない。予四郎の息子だ。別の人間だ。分かっている。
「あなたは、与四郎様じゃない」
言い聞かせるように、辰覇は声を絞り出す。訪れる沈黙に、己の漣立つ心音が響くようだ。
やがて小さく笑う気配がして、辰覇は顔をあげた。
「知っているよ」
加羅は、それはそれは美しく、笑みを模った。
差し込む夕日が、朱く畳を濡らしている。