とたとたと軽い足音が駆けてくる。にいさま、と稚く呼ぶ声と共に、襖が開かれた。
「ただいまもどりました!」
紫呉は息を切らし、頬を赤く染めて、文机の前に座した由月の元へと駆け寄ってくる。いつもならばそのまま飛びついてくるのだが、今日は飛びつくその寸前にはっとした顔をして、動きを止めた。
紫呉はごそごそと袂を漁り、何かを取りだした。
「せみ!」
黒い瞳をきらきらと輝かせ、紫呉は手のひらに乗せたそれを、ずいと由月の眼前に差し出してくる。
蝉の抜け殻だ。
「まだあるんですよ」
どこか得意げに言って、紫呉はごそごそと袂を漁る。
「いや、もう良いよ」
正直、大量に見たいものではない。由月は六つになる弟の機嫌を損ねぬよう言葉を選び、ぽんと頭を撫でてやる。自慢する機会を失ったからか、紫呉は少しばかり不満げな顔をしていた。
だがやがて、一つだけ袂から蝉の抜け殻を取り出して、文机に置いた。
「にいさまにあげます」
「……ありがとう」
やっぱり正直、いらない。が、上機嫌で膝に乗ってくる弟に、そう告げるわけにもいかない。
「もー、待てっつってんのに……。勝手にどっか行くなっていっつも言ってんだろ……」
疲れた声で、影虎が部屋に入ってくる。慌てた様子ではないのは、ここ――支暁殿ならば目を離しても、そう困った事にはならないからだろう。
あちぃとぼやいて手扇ぐ影虎は、何やら薄汚れていた。栗皮色の髪には木の葉がくっついていたし、頬にも小さな傷が覗える。どうやら、蝉の抜け殻取りに奔走させられていたらしい。
見れば、紫呉の腕やら足やらにも、傷が覗えた。ひどいものではないから良いが、あまり危ない事はしてくれるなよと思う。
「全く……。どこに行っていたんだ?」
由月を見上げて口を開いた紫呉だったが、あ、と声を上げて、両手で口を押さえた。
「……ないしょです」
ふるふると首を振る。紫呉は由月の胸元に顔を押し付け、表情を隠した。
目顔で影虎に問うが、影虎もまた『内緒』と唇だけで音をなぞって、薄く笑った。
まあ良い。影虎がついているのならば、どこへ出かけていたとしても安全だろう。まだ十二とはいえ、彼の腕は信頼に足る。
由月は紫呉の髪を梳いてやった。夜色の髪は汗を吸って、しっとりと濡れている。ぴたりとくっついてくる体は、外の熱気を吸って熱い。汗と、太陽の匂いがする。夏の匂いだ。
「ほれ行くぞ。須桜にも見せにいくんだろ」
はい、と素直に頷き、紫呉は由月の膝から下りた。来た時と同様に、軽い足音を立てて部屋の外へ向かう。それを影虎が、いかにも面倒だと言いたげな顔をして追った。
ちょうど折りよく廊下を須桜が通りかかったようで、話す声が聞こえてきた。
「あたしにくれるの? えへへ、ありがとう」
「んー、あついです。はなれてください」
「わあ、いっぱいある。ね、知ってる? 蝉の抜け殻ってね、お薬になるのよ。熱さましとかに使えるの」
「あついですー」
「おら、離れろって。暑い言ってんだろ」
「良いじゃないちょっとくらい。影虎のケチ」
「あついー」
ほほえましいような、そうでもないようなやり取りが、だんだんと遠ざかっていく。
由月は文机に残された蝉の抜け殻を、指先でつついた。
外からは蝉の鳴き声が聞こえてくる。数種類に及ぶその声は、それぞれ種があるのだろうが、どの声がどの種のものだか知らないことに、ふと気付く。
やがてこの里を統べよう者が、蝉の種類も知らないのか。
そう思えば何やらおかしく思えて、由月は小さく声を漏らして笑った。