腹に打刀を突き立てた。
収縮した腹筋が刀を締め上げる。その力に逆らい、紫呉は横様に刀を薙いだ。
臓物と筋肉と血管と皮膚を裂いた刃が赤く濡れる。血が飛んだ。
腹から臓物を溢れさせて、男が仰向けに倒れる。口から血が垂れていた。
大きく目を瞠って、男は紫呉を見た。
瞳は艶やかな桃色をしていた。
男は影虎の顔をしていた。
はっと息を飲んで、紫呉は目を覚ました。丁度側まで来ていた影虎が、驚いた顔をして自分を見おろしている。
「寝るなら部屋で寝ろよ。風邪ひくぞ?」
影虎は羽織を手にしていた。かけてくれるつもりだったのかもしれない。
紫呉は縁側にいた。柱に背を預けてぼうっとしているうちに、うとうとしてしまったのだった。
紫呉は固く結んだ拳をゆっくり開きながら、長く息を吐いた。
「……今夢で」
「あ?」
「夢で影虎の内臓を見ました」
影虎が半眼になって紫呉を見おろす。
「……何つー夢みてんだ」
どういう状況だよ、と影虎は呆れた顔をした。
「夢の中で、影虎を殺していました」
影虎は薄く笑って紫呉の側に腰を下ろし、丁寧に羽織を畳んだ。
「いったい俺は何したってんだ。お前自ら俺を殺すとか何事だよ」
「さあ。前後は分かりません。とにかく刺して裂いてました」
「えらく思いっきりぶっ殺してんなあ」
「思いっきり死んでいましたね」
「夢は願望って言うけど?」
「……さあ。どうでしょう」
紫呉は影虎の首に手を伸ばした。影虎は何だ、という目をしたが特に何も言わず、紫呉の好きにさせた。
脈を感じる。体温を感じる。生きた人間のそれに、自分は確かな安堵を感じていた。
紫呉はそのまま手を滑らし、影虎の腕に触れた。先日、自分が斬った傷が有る。
傷口に爪を立てた。
「痛いし」
「それは良かった」
ぴくりとも表情を変えず影虎が呟いたので、紫呉も少しも声を揺らさずにそう答えた。
「何故ですか?」
「何が」
「そこそこに本気だったでしょう」
首に心臓。あの時の影虎は、確実に致命傷を与える急所を狙って紫呉を攻撃してきていた。
「……まあなあ」
立てた膝に肘をついて、影虎は宙に視線を巡らせた。
「まあ……嫉妬っつーか、何つーか」
「は?」
「んー…………。一回お前に、敵として認識されてみたかったっつーか……。普段だったら、絶対、無いし。良い機会っつーか、な」
もそもそと言う影虎は歯切れが悪く、珍しいものを見た心地になる。彼は上手く本音を隠すし、物を言う際に滞る事はあまり無い。
「お前こそ何でだよ」
「何が」
「何で俺を誘った?」
影虎が首を傾げる。
「……まあ、似たような理由ですよ。敵として影虎と対してみたかったんです」
「ほう」
影虎が気の抜けた声で相槌を打つ。
「敵としての影虎を、打ち負かしてみたかったんです。……お前を完璧に屈服させてみたかった」
「……そりゃまた」
「けど」
紫呉は己の頬に手をやった。先日、影虎に斬られた傷が残っている。
「僕は自分が恥ずかしい。あの時僕は、お前を邪魔だと思っていた。排除しようとしていた。お前を信用しきれていなかった自分が恥ずかしい。お前が本気で僕に刃向かうだなんて、ありえないのに」
影虎が瞬く。
ぱちぱちと数回瞬いて、影虎は視線を逸らした。
「……あー……。そりゃ、どうも……」
「僕はお前を越えたい」
片手で胸倉を掴み、こちらを向けさせる。
「越えて、強くなって、…………」
紫呉は何を言いたいのか分からなくなって、掴んでいた胸倉を手離した。俯く。
ずいぶんと日も傾いてきた。夕焼けが美しい。
夢で見た血の色を思い出した。
「……願望か」
そんなはずは無い。
影虎を越えたいとは思う。だが殺してやりたいとは思っていない。
乗り越える、つまりは倒す、つまりは、殺すという図式なのかもしれないが。
しかし。
「僕はお前を殺したら、きっと後悔する」
紫呉は両の手を後ろにつき、仰向いた。
「……きっと、じゃないな。絶対だ」
夢の中、光を失った影虎の視線に射られて、ひどい喪失感に襲われた。絶望感とも言い換えられるかもしれない。
紫呉は懐を探った。煙草の箱を取りだす。
箱を開けて、紫呉は舌を打った。そういえば無くなっていたのを忘れていた。
箱を捻り潰し、自室に向かってぽいと放り投げる。
「お前……。ちゃんと捨てろよ。つか、ちゃんと部屋掃除しろよ」
紫呉の自室を覗いた影虎が、げんなりと言った。そんなにげんなりするほど荒れてはいないと思うのだが。
ふいに影虎は立ち上がり、うんと伸びをした。庭に降り立つ。
「手合わせでもしようぜ。煙草よか良い気晴らしになるだろ」
影虎はひょいと手招いた。
紫呉は、小さく笑った。
彼を信用しきっていなかった自分を愚かしく思う。
そして、自分を御しきれなかった事も愚かしく思う。
影虎に刃を向けられた怒りに、殺されるかもしれないという恐怖に、影虎の皮膚と肉を裂いた悦楽に、簡単に呑まれてしまった自分が恥ずかしく、愚かしい。
庭に降り立つ。
「お手柔らかに頼むぜ?」
影虎はにやりと口の端を持ち上げた。紫呉は鼻を鳴らす。
「捻じ伏せて差し上げますよ」
「ははっ、おっかねえ」
そうだ。
怒りも恐怖も悦楽も、捻じ伏せて支配しろ。
揺り動かされるな、己が上位に立て。
その教えを反芻し、紫呉は影虎に掴みかかった。