まほらに候 12
ざわめきが聞こえる。市場を満たす喧騒は低く尖り、不安を呼び覚ますようである。
空気を揺らすどよめきは夢緒にも伝播したらしい。夢緒は紫呉の手を一層強く握り、こちらを振り仰いだ。何があったのだ、と言いたげな夢緒に、紫呉は首を振る。
ざわめきの中心には人垣があった。二人はその垣の後方に陣取り、隙間から様子を窺い見た。
垣の中央に、揃いの羽織を着た者達が見える。白の長羽織だ。風に揺れて覗いた羽織裏は、黒味の強い紅色だ。
「護焔隊……」
夢緒が小さく呟いた。
そうか、これが耳にしていた護焔隊か。日生八重が、己の守護の為に創設した武装集団。
護焔隊の面々は一人の男と対峙している。男は足を負傷しているらしい。蹲り、歯噛みしながら護焔隊を見上げていた。
「ねえ。きみ、さ」
カラン、と高下駄の音が響いた。
「今、ぼくたちを見て、逃げたよ、ね」
汀だ。
斉藤汀。護焔隊の隊長を務める男。
汀はカラコロと高下駄の音を響かせて、懐手のまま男に近づく。はためく白の長羽織が眩い。
細い目をさらに細め、汀は男の眼前に立った。
「言い訳があるなら聞く、よ?」
笑う。まるで、蛇が舌なめずりをするように。
男は食い縛った歯の隙間から、荒い呼吸を漏らしている。睨みあげる瞳は力強い。
「ぼくねえ、きみの顔に見覚えがあるんだよ、ね」
ほとんど白に近い薄茶の髪をかき上げ、汀は何かを思い描くように空を仰いだ。
「見回りの時に、いっつも見かけるんだよ、ね」
もしかして、と汀は空を仰いだまま、一際笑みを深めた。
「監視。……されてるの、かな?」
男の肩が揺れた。
「ぼくたちの見回り経路を、調べてるの、かな?」
喉を震わせ、汀は笑う。ささめくような小さな笑いは、やがて哄笑に変わった。
「ふ、ふふふ、あは、あははははは!」
汀の笑み声が市場に響く。市場にはいつの間にか、静寂が満ちていた。ただ、蝉の鳴く声ばかりが耳を打つ。
「愚かしい、ね」
かくりと折れるように首を曲げて、汀は男を見下ろした。
絞り出すように、男は呼吸を繰り返している。ごくりと、男が唾を嚥下する音すら聞こえそうな程、周囲は静けさに支配されていた。
「……あああ」
男の喉から、震える声が発される。
「ああああああ!」
わななく声を叫びに変えて、男は懐から小刀を取りだした。小刀の鞘を払う。
いや、払おうした。男は柄に手をかけたまま、ぴたりと動きを止めた。
その喉元には、打刀の切っ先が突きつけられている。
「懸命な判断ではないな」
聞いた声だ。
男の喉元に切っ先を突きつけたまま、加羅は言った。一つに束ねた蜜色の髪が、高く昇った日の光を受けて煌いた。
紫呉は身が震えるのを感じていた。手に絡む夢緒の手をほどき、襟巻きを引き上げる。
動く気配は感じた。鞘走りの音は聞いた。
しかし、抜刀のその瞬間は見えなかった。いや、視覚としては捉えていた。だが、抜刀したのだと知覚したのは、加羅が男に切っ先を突きつけるその様を目にしてからだ。
汗が頭皮を伝い、首筋に流れていく。奥歯を噛みしめ、ともすれば昂り荒くなる呼吸を押し殺す。
紫呉は襟巻の下で、ゆっくりと長く息を吐いた。熱い体、早まる鼓動。今すぐにでも斬りかかりたいのを、必死で抑える。
「叛意あり、という事、だね」
汀は薄い唇を笑みの形に曲げた。
加羅は、藍鞘を皮の
「粛清を」
静かな市場に、汀の声が朗々と響いた。人垣が息を呑む。張り詰めた空気が息苦しいほどだった。
加羅は左の手を鞘に添えたまま、男に視線を落とす。
「早計ではないのか?」
ク、と汀が喉を鳴らした。
「見た、でしょう? 今、この男は、ぼくたちに刃向かおうとした。もしかして、若君の御身を傷つけようとしたのかもしれません、ね」
加羅はそれには答えずに、男を眺めている。やがて切っ先を退け、流れるような動作で刃を鞘に納めた。
キンと鳴る硬い音に、男はびくりと肩を跳ねさせた。何か言いたげな視線で、加羅を見上げる。
「捕らえて、吐かせるべきじゃないのか」
男を見おろす加羅の顔には、笑みの片鱗も窺えない。
「若君」
ことさらにゆっくりと、汀が呼びかける。まるでがんぜない子供を諌めるような調子が、ねっとりと絡みつく。
「隊長は、ぼくです、よ」
加羅は汀には一瞥もくれずに、男を見つめたままでいる。
「粛清を」
汀は己の指から、何かを抜き取った。銀の指輪だ。それは見る間に、一振りの打刀に姿を変えた。陽光の中、黒塗りの鞘が染みのように真黒く綾を成している。
汀はそれを、ずいと加羅に差し出した。
人垣がさわさわと音を発し始める。恐る恐る、人々がその場を去って行く。
だが多数は尚も残ったままだ。一歩二歩の距離は取ったものの、固唾を飲んで男と護焔隊を取り囲んでいる。
加羅は黒塗りの鞘を睥睨した。しかし手は伸ばさずに、強く汀を睨み据えた。
「下がれ斉藤」
汀は、それは楽しげに笑みを浮かべた。薄い唇をニィと曲げて、細い目を更に細めてこっくりと頷く。
視線で部下達に下がるように示し、汀もまた、数歩の距離を取った。
柄に手をかけ、加羅は刃を抜いた。男の背後に立つ。
「何か言い残す事は?」
わずかな瞑目の後、加羅は静かな声を落とした。
男は、先程とは打って変わって落ち着いた様相をしている。うっすらと笑みを浮かべて、姿勢を正した。
「偽焔滅ぶべし」
正座し紡いだ言葉が、空気を裂く。
「……我らの希望は潰えていない。我らの希望は、尚も美しく照り輝く」
嘲弄を含んだ声音は毅然としていた。強い眼光が、汀を射る。
だが汀はやはり笑うばかりだ。黒い眼には、男の紡ぐ言葉を愉しむような色が有る。
加羅が向陽を振りかぶる。乱刃が眩い程に煌いた。
「我らの希望は決して消えはしない! 同胞よ、我らの希望は尚もまば、べ、げぇ、え」
言葉を遮るように、男の首に小刀が刺さった。ごぽりと濡れた音と共に、男の口から鮮血が溢れだす。
男は、どうと横様に倒れ伏した。砂埃が立ち、男の死相に白くもやをかける。
男の口から、ヒュウヒュウと空気の漏れるような音が聞こえる。
口から首から溢れた血がどろどろと地面に広がり、加羅の
やがて人垣から悲鳴があがった。女の悲鳴だ。しかしその女は護焔隊に視線を寄こされ、慌てて口を押さえた。ガタガタと震えながら、悲鳴を飲み込もうと必死の様子だ。
その女だけではない。人々は悲鳴を飲み込み、それでも事の様を見守っている。カチカチと歯の鳴る音、ひぃと喉が掠れる音。押し殺した嫌悪、恐怖、畏れ。様々な感情が渦を巻いていた。
振りかぶっていた向陽をゆっくりと下ろし、加羅は視線を巡らせた。
「……首を抱かせてもやらないのか」
紅緋の眼が、汀の姿を捉えた。
汀は小刀を放ったその姿勢のまま、浮かべた笑みをなぞるようにして唇をなめずった。
「こういうのはさっさとやらない、と。何かの暗号だったら、どうするんです、か? ベラベラと喋らせちゃダメ、でしょ?」
汀は手を下ろし、懐手を引き直した。長羽織の裾をばたばたと鳴らして、風が駆け抜けていく。
「懸命な判断ではない、な」
先程の加羅の言葉を、己の声で汀はなぞる。加羅は見るからに不快そうに目を細めた。
絡み合う二人の視線の下で、男の呼吸が止まった。静寂の中、遠く鳴く蝉の声が響いている。
柄を握る加羅の手に、力が込められたのが分かった。甲にくっきりと骨の形が浮かびあがる。
胸が上下するのが窺えた。らしくもない。得物を手にしている時は、呼吸をひた隠すのが常であるのに。
そのうちに加羅は、ふ、と息を抜いて汀から顔を背けた。提げた向陽を常態の瑠璃の数珠に変じさせ、左の手首にはめる。
それが合図になったのかは知らないが、他の隊員達が男の死体の処理を始めた。布で包み、二人がかりで遺骸を運ぶ。
歩みだす護焔隊を避けて、人垣が割れる。ささめく声は徐々に大きくなり、ほどなく市場を興奮で埋め尽くした。
残された血だまりを見ていた加羅が顔を上げ、隊員の後に続いた。
思わず紫呉は右の足を踏み出す。
だが、踏みとどまった。
追ってどうする。斬るのか。この衆目の中で?
(馬鹿な)
できるわけがない。
こめかみがドクドクと脈打っている。冷静になれと、どこかで声がする。
数歩駆けて踏み込めば、届く距離だ。背に届く。その背を撫で斬れる。
届くのに。
届くはずなのに。
ふいに、加羅が振り返った。
ちらと寄こされる視線は、確かに絡み、一瞬でほどけた。
「……っ……は、ぁ」
詰めていた息が抜ける。
紫呉は口中に溜まった唾液をこくりと飲み下した。
絡んだ視線には、何の表情も無かった。面めいた笑みも、揶揄の調子も、何も。
遠ざかる背を見送る。加羅の長靴を濡らした男の血が、加羅の歩みと共に跡となって地面を彩っていく。
人垣がばらばらと砕けだす。紫呉はギリと音を立てるほどに噛みしめて、加羅の背に背を向けた。固めた拳がぶるぶると震えていた。
散り散りになりゆく人々に、紫呉たちもまた続こうとした。
途端、背に強い視線を感じた。
咄嗟に紫呉は振り返る。這うように、舐めるように、視線が体をのぼっていく。
辿った先には、汀の姿があった。
汀はニィと笑った。
白い歯がこぼれる。
なめずる舌先がいやに赤い。
悪寒が背を駆けた。汗がうなじを伝って、背を流れ落ちる。
その向こう、汀を呼ぶ隊員の声がした。それにひらひらと手を振って、汀もまた隊に続く。
視線がほどけるなり、どっと汗が吹き出した。
浴びる日は確かに熱く、まといつく空気も確かに暑い。
そのくせ、皮膚を這う恐怖ばかりが寒い。
(恐怖)
そうだ、恐怖だ。確かな恐怖を感じた。
あれは殺気だ。怒りも憎しみも含まない、純然たる殺気。
純白の、欲。
「大丈夫かい? 顔色が優れないよ。……血が苦手だったかい?」
夢緒の声もどこか遠い。わんと広がる蝉の声が頭の奥で鳴り響いている。
頷いたのかどうかも、定かではなかった。
今も地面には、男の残した血溜まりが赤く蹲っている。