瑠璃の昼行灯 零 21
六
布団に潜ったまま、紗雪はぼんやりと天井を見つめる。
もう昼にもなるというのに、我ながら自堕落だと思うが、何をするにも面倒臭くて動く気がしない。
朝食を取って、またこうして二度寝に勤しんでいる。
贅沢だと思う。だがこうしてもう一度布団に潜っても、眠る事はできないのだが。
あれ以降、どうにも眠りが浅い。寝つきも悪いし夢見も悪い。夜中に何度も目を覚ましてしまう。
あの後、官舎に詰めていたのであろう父が現場にやって来た。
蹲る紗雪に何も言わず、ただ己の羽織を紗雪に着せかけた。
頭を下げる紫呉に、父はそれよりも深く頭を下げていた。父が誰かに謙るところを見たのは初めてかもしれない。
それを見て、やはり紫呉は尊い御方なのだと、改めて思った。
それから周囲の惨状を目にして、血の気が引いた。
高ぶっていた気持ちが落ち着くにつれ、自分が今いる場所の凄惨さが分かった。
そして、暗転。
気がつけば自分の部屋だった。
母の泣き顔が目の前にあった。何も知らされていなかったのだろう。強く抱きすくめられ、胸が痛んだ。
あれから、五日が経つ。
紗雪は私塾にもいかず、毎日のらりくらりと過ごしていた。
母にも文句は言われない。むしろ、どこかへ出かけようとすると、煩わしいほどに心配される。
教本を開いてみても、内容は頭に入ってこない。
出かけようにも母が心配する。
毎日昼まで眠って、庭の散策やら菓子作りやらに時間を費やしていた。
紗雪は布団から這い出て、うんと伸びをした。大きな欠伸が漏れた。
「あの……お嬢様……」
「はーいー?」
女中の控えめな声に、欠伸をしながら返事をする。
すらりと障子戸が開き、文を手にした女中が部屋に入ってくる。
「あの……先程、屋敷の前でこれをお嬢様に、と……」
「私に?」
「はい。他の誰にも言うな、と……。あの……赤い髪をした殿方で、眼鏡をしていらして、その、こう言っては申し訳ないのですが、目つきの悪い……」
「ああ……」
納得した。だからこんなに女中は怯えているのか。
「大丈夫よ。別に喧嘩売られたりとかじゃないから。私の、……知り合いだから」
この女中は最近屋敷に勤めにあがったばかりだ。雪斗の存在は知らない。古い者以外は雪斗の存在を知らない。
礼を述べると、女中はほっと胸を撫で下ろして下がった。
文を開く。
そこには簡潔に、裏口の辺りで待ってる、と有った。
紗雪は身なりを整え、玄関口へ向かった。母が慌ててやってくる。
「あー……っと……」
私塾の先生に挨拶に、とでも言おうかと思ったが、嘘をついてもすぐにばれてしまうだろう。絶対確認をいれるに決まっている。
だが雪斗に会う、と正直に言って良いものか。
雪斗がこの家を出て以降、彼の名は暗黙で禁則となっている節がある。
「……乾弐班の屯所に、行くの」
呼び止める母を半ば無視するような形で、強引に紗雪は玄関を抜けた。
母は弐班の屯所の位置を知らない。確認する手段も無いだろう。それに早く帰ってきたらそれで安心するだろうから、まあ平気だろう。
表口から出て、裏へと回る。
そういえば、あれから彼の姿を見ていない。
銀の髪と眼鏡が特徴的な下男の事だ。
事件以降姿を見ていないという事は、やはり彼は護衛につけられていた、という事なのだろう。
……護衛の依頼元は、自分の想像と違っていたが。
裏口からやや離れた、街路樹の下に雪斗の姿はあった。
手を振って小走りに向かう。
雪斗は眉根を寄せ、腕を組んで難しい顔をしていた。
「……どうかしたの?」
「……オレって、そんなに近づき難い雰囲気かもしてんのか?」
文を託した女中の事だろうか。
「あー……。元気出して!」
「否定しろよ。嘘でも良いから一応は否定しろよてめぇ」
「でもまあ事実は事実だし」
「優しい嘘ってのが時には必要なんだよこの野郎」
ぐりぐりと肩口に拳を押し付けられる。紗雪は笑いながら拳を退かした。
「……元気そうだな」
ふっと視線を和らげて雪斗が言う。
「まあ、ね……。一応は元気よ」
歩き出した雪斗の背を追い、紗雪も歩き出す。隣に並んだ。
「傷は平気か?」
「それなりに」
首の傷には軟膏を塗り、目立たぬように薄手の襟巻きを巻いている。
紗雪は襟巻きを少しずらし、かさぶたの張った傷口を見せる。
自分の怪我はともかくとして、人の傷やらを苦手とする雪斗は顔を顰め、ぐっと身を引いた。
「って、今回の事誰かから聞いたの?」
「あー……影虎から。ちょい前にもし紗雪が何か聞いてきても、俺らの事は何も言うなって言われて、それで。……で、終わったって聞いて、来てみた」
「そう……。じゃあ、雪斗は知ってたのね。弐班の事」
「まあ、な……」
「何で知ってたの?」
「偶然だよ。オレの日雇いの仕事先で紫呉も仕事で居て、着替えてるところに、こう、偶然」
雪斗はその時の光景を思い描いているのか、うあーと唸りながらぶるぶると頭を振った。
「あー思い出したら腹立つ! つか気持ち悪ぃ! あいつの第一声『雪斗の助平』だぜ? オレだって見たくなかったっつの!」
舌を打ち、雪斗は苦い顔をしている。
「そんで『言いますか?』ってよぉ……。普通に言うなって脅せよな、タチ悪ぃ。その笑顔が怖いんだっつーの」
ぶつぶつと不平を零しながら、雪斗は口を尖らせる。
「二年半、くらい前かな? そう考えりゃ早ぇっつーか長ぇっつーかだなー」
頭の後ろで手を組んで、雪斗は遠い目をした。
「で、なし崩しに影虎の事とか……あー……須桜の事とかも知って、現状に至る、と」
そういう訳だ、と雪斗は手を解いた。
「何も、思わなかった……?」
「って何が」
「如月様なんだー……とか」
「ああ……。……思ったよ」
雪斗は視線を落とし、小さく笑った。
「やっべぇ今まで普通に話してたよ! とかさ。……つかそれ以上に、やっぱ、傷にびっくりしたな。そんで、怖くなった」
「怖い?」
「紗雪は見たこと有るか?」
「うん、有るわよ」
「え」
自分で聞いておきながら、雪斗はぎくりとした表情で体を強張らせた。
「な、何で、見た事とか……」
「……何考えてんのよ、おバカ。私も偶然。って言っても、その時は刺青包帯で隠してたから、傷だけね」
今も鮮明に目に焼きついている。
左の胸元から右の脇腹にかけて斜めに走る刀傷。
紫呉だけじゃない。
影虎や須桜も、いたるところに傷を残している。
「それ見てオレ、びびったよ。巻き込まれたくねえって思った。あんまし関りたくねえって思った」
「でも須桜は好きなのよね」
「す……っ! な、おま、ば……っ、べ、別に! 別にす、好きとかじゃねえし! そんなんじゃねえし!」
見事に真っ赤な顔で、雪斗は思い切り手を振る。
「あー……はいはい」
「べ、別に、可愛いとか全然思ってねえし! 勘違いすんなよな!」
「あー……うん。はいはい」
赤い顔で喚く雪斗を半眼で宥め、紗雪は適当な返事をしておいた。
雪斗は髪を掻き乱しながら、何やら口中でぶつぶつと文句を垂れている。
「まあそれはそうとだなー……。うん、何だかんだで、オレらとは違う、遠いとこの人間なんだって思ったし。……いつか、遠いとこ行くんだろうな、とか、オレの手の届かねえ位置に行くんだろうな、とか、思ったよ」
それに、と雪斗は大きく息を吐いた。
「……あんだけ傷ばっかでさ。……いつか、死んじまうんじゃねえか、とかさ」
その怖さは紗雪も感じた。
彼らの傷を見て、屯所の殉死者の碑を見て。戦う紫呉を見て。
左手の指先から滴る赤い雫。痛みに歪めた顔。殴られ、地面に倒れ伏した彼。
怖いと、そう思った。
「だからオレは、お前にあんましあいつらと仲良くしてほしくねえって思う」
痛みを耐えるような雪斗の声に、紗雪ははっと顔を上げた。
「オレは、あいつらが班の人間を失った時の、あいつらを見た事が有るよ。……だからオレは怖い。あいつらが死んだらって思うとすげえ怖い。あん時のあいつらみたいな気持ち味わうのは嫌だ。だからお前にも、あんまし親しくなってほしくない」
眼鏡の奥の雪斗の目が不安に揺れている。
紗雪は親しい人間を失った経験が無い。
幼い頃に祖母を送った事が有るが、祖母との思い出はほとんど無かったし、悲しみは感じなかった。
母と長兄は泣いていた。父は目を瞑って、何かに耐えるような顔をしていた。
それを見て、不安になって、泣き出したのは覚えている。泣き出した紗雪につられて、雪斗もまた泣いていた。
紫呉が少女を刺すところを見た。
あの場では殺していなかったらしいが、不安に駆られた。
それは、自分も殺されてしまうのではないか、という不安だ。
自分を護ってくれていたであろう少女を死なせてしまった、という罪悪感だ。悲しみよりも、それらが勝った。
見た事の無い破天の人間が、紫呉に斬られるところを見た。生死は知れない。
怖かった。
自分も殺されてしまう、と思った。その時はまだ、紫呉たちを破天だと勘違いしていたから。
その怖さは自分に向けられた物だった。
斬られた人間を案じての物ではない。大切な人を失ってしまう怖さ、恐怖では無かった。
「だからオレは若干距離置いてんのにさあ。あいつらガンガンオレん家来るし。何の意味もありゃしねえ。……ほんと、マジ困る」
雪斗は苦笑した。
だが彼らとの関わりがいっさい無くなったら、きっと雪斗は哀しむだろう。
そう自分で分かっているから、文句を漏らしつつも彼らを拒否しない。
雪斗はがしがしと髪を乱し、その所為でずれた眼鏡をかけ直した。
「悪ぃな、急に呼び出して。寝てたんだろ?」
「……別に、そんな事無いわよ」
「ウソつけ。髪にクセついてんぞ」
「嘘?」
「ウソだよ。んじゃな、オレこれから日雇いの仕事なんだ」
慌てて髪を撫でる紗雪の頭を軽く叩き、雪斗はひらりと手を振る。
「あ、うん。いってらっしゃい」
遠ざかる彼の背を見送る。
雪斗とすれ違った少女二人が、びくりと身を竦め彼から少し距離を置いた。
不憫な、と苦笑しながら紗雪は髪を撫でる。どこも跳ねていない。
「もう……馬鹿にして」
さて、これからどうしようか。
久しぶりの外出だ。
庭には時折出ていたが、陽を浴びるのも風に吹かれるのも久しぶりで、何だか新鮮だ。このままただ帰るだけではもったいない。
(……ほんとに、弐班に行こうかしら)
雪斗と彼らの話をした途端、彼らに会いたくなった。顔が見たくなった。
咄嗟についた嘘だったが、それを本当にしたくなった。
『会いたいと思った時に会っておかなくてはね』
いつだか、紫呉もそう言っていた事だ。紗雪は屯所へと足を向けた。