暁光 7
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二
夕暮れ時の茜も、そろそろ夜に色づき始めた。本日は客足が多く早くに品切れとなった悠々館は、いつもより早くに暖簾を下ろしている。店の外からは残念がる声が聞こえてくるが、それに対しては店主の息子が愛想を振舞っている模様だ。
通いつめるうちに、彼とは随分と親しくなった紗雪だ。こうして店仕舞いをした後でも店にいられる程度には、仲が良くなった。須桜が介在してくれたおかげもある。
崇、という名だと聞く。高い背や客あしらいの上手さから年上だと思っていたのだが、一つ年下の十六歳であるらしい。
以前より悠々館は紗雪の贔屓の店ではあったが、ここ最近は、今までよりもずっと通う頻度が高くなっている。というのも、紗雪の私塾が終わる頃に合わせて須桜が迎えにくるのだ。須桜も弐班の仕事があるから毎日というわけではないが、数日おきにやって来ては、こうして悠々館に連れて来られる。弐班の屯所に向かう事もある。勉強の合間の気分転換にもなるし、美味い菓子も食べられる。お喋りするのも楽しい。どうしたんだと聞けば、会いたいだけよと須桜は笑う。
兄である雪斗が大変な時に、こんな楽しい思いをしていても良いのかと、最初の頃はどこか後ろめたさを感じていた紗雪だが、その雪斗も、ここのところ随分と具合が良くなってきたようだ。まだ完全に以前と同じように動くわけではないようだが、それでも怪我を負った頃に比べれば全く違う。快方に向かう彼に、ほっと息をついた。
最近紗雪の身の回りには良いこと、楽しいことが多く降ってくる。嬉しく思うが、しかし、須桜が時折暗い表情を見せるのが気にかかった。
「……ふむ」
ふいに、向かいに座った銀髪の男が頷いた。押し上げた眼鏡をきらりと反射させ、悪い姿勢を伸ばしてから彼は手にした紙の束を卓上に広げた。
「筋は通っておりますが、ここの『てにをは』の繋がりが変ですね。あと、誤字も一点有ります。それに終わりに向かうにつれ、だんだんと字が乱れています。あなたの心の乱れ、もとい、心の緩みがそのまま字に表れていますね。もっと精進なさい」
「洋うぜえ」
「崇!?」
店頭から戻ってきた崇は、前掛けを取り払いながら呆れた声で言う。
「姐さーん、ごめんねなんだぜ。こいつ誰に対してもこんなのだから」
「うん、知ってる」
「何なのです、その態度は。添削をしてほしいと言い出したのはあなたでしょう」
「そうね、ありがとう」
「分かればよろしいのです」
紗雪の礼は棒読みであったが、洋は満足げに胸を張った。眼鏡を指先で押し上げて、ふふんと笑う。
「あと崇くん、姐さんって呼ぶのやめてってば。何かいかつくて嫌」
「えー。ぴったしだと思うんだぜー」
それはどういう意味だ。顔が怖いという事か。確かに紗雪はつり目だし、黙っていれば『怒ってる?』と聞かれる事もある。実はわりと気にしているというのに、なのに『姐さん』がぴったりだなんて、嬉しくない事この上ない。
まあ良い。紗雪は一つ嘆息し、卓上に広げられた論文を一まとめにした。
この、橘洋も最近知り合った相手である。以前の里炎組の事件の折、紗雪の護衛にとつけられていた男だ。須桜に連れられ悠々館にやって来た紗雪は、店に彼がいるのを見て大層驚いた。
護衛をしていてくれたのよね、あの時はありがとう。そう礼を述べた紗雪に、洋は言った。全くもってその通りです、非戦闘員である私の手を煩わせたのですから、もっと感謝の意を示していただきたいところですね。思わず紗雪は固まった。つんと顔を背けた洋の隣で、洋うぜえと、崇がにこやかに笑っていたか。
その時の印象の悪さのおかげもあって、彼の印象は悪くなる一方だ。最低値から始まったというのに、まだ更に悪くなる。まあ、棒読みの礼を満足そうに受けているところや、何だかんだで添削を頼むとどことなく嬉しそうな顔をするところは、可愛げがあると言っても良いのかもしれない。だからといって、最初の印象の悪さは変わらないが。
洋は普段、読売の記者をしているだけあって言葉は巧みだ。洋に修正を入れてもらった論文は、私塾の教師にも褒めてもらった。言葉の並びを変えるだけで、説得力がこんなにも増すのかと紗雪は目を丸くした。まあ、だからと言って洋の印象の悪さはやはり変わらないのだが。素直にすごいと言うのが何だか嫌だというのもある。
「しかし、以前も私は言ったと思うのですが? 字の乱れは心の乱れ。あと少しで終わる、というあなたの浅はかな想いが透けて見えているのですよ。文章からあなた自身のその時の感情が透けて見えているというのは、非常に拙いのだと分かりませんか? あなたが訴えたいのはそんな浅薄なものではないでしょう。この論で訴えたいのは何なのです? もっと頭を使いなさい。そう悪くはない頭をしているのですから、それしき容易い事でしょう。それでもあなたは青官長の娘なのですか?」
「……うるっさいわねー」
「まあ、私は赤官長の息子なのですが」
「聞いてないわよ」
「何です、その口のきき方は。年上に対する敬意というものは持ち合わせていないのですか」
「洋うぜえ」
「崇!?」
「姐さーん、お茶のおかわりいるんだぜ?」
「うん、ありがとう。崇くんは気がきくわね」
「それほどでもー、なんだぜー」
歌うように言って、崇は紗雪の湯のみにお茶を注ぎ足す。崇は、ちらと洋の湯のみも見やってから、しぶしぶといった様子でそちらにもお茶を注いだ。そして須桜の湯のみを見て、ぱちんと大きく瞬く。
「姉貴、全然飲んでないんだぜ?」
崇が問いかけるものの、紗雪の隣に座った須桜の反応は無い。
「須桜の姉貴ー」
「――あ、ごめん。聞いてなかった」
はっとした様子で、須桜は顔をあげた。
「お茶。減ってないんだぜ。不味い?」
「そんな事ないわよ! 冷ましてただけ」
須桜はそう微笑んで、一気に茶を飲み干した。しかし、茶請けも手を付けられていない。試作品なんだぜ、と崇が出してくれた、金魚の泳ぐ涼しげな羊羹だ。
差し出された湯のみに茶を注ぐ崇も、須桜の暗い表情を気にかけている様子だ。ありがとう、と須桜はあたたかい茶に口をつけたが、唇を湿しただけで、すぐに卓上に湯のみは戻された。
じ、と紗雪は須桜を覗う。しかしその視線に気付いているのかいないのか、須桜の視線は組まれた指先に落とされたまま動かない。
羊羹の最後の一切れを、紗雪は口に放り込む。が、品の有るその甘さもどこか味気ない。
須桜は嘘をつくのが上手い。怪我をしている時だって、紗雪には悟らせない。僅かな薬の香りで紗雪は須桜の怪我に気付いたが、須桜の様子は常のままで、まるで怪我などしていないように思えた。怪我をしているだろう、と聞いても、そんな事無いと笑うだけだ。あまりの常態に、自分の勘違いかと思ったほどだ。
その須桜が、だ。分かりやすく思い悩んでいる。となると、悩みの原因はきっと紫呉だ。きっと、じゃない。絶対、か。須桜の中心はいつだって彼なのだから。
お茶を冷ましながら、洋は呆れた面持ちで須桜を見やった。
「あなたが思い悩む必要は無いでしょう。話を聞く限り、悪いのは全てアレです」
「洋」
咎めるように名を呼んで、崇は何かを塔ように須桜を窺う。
「アレって……?」
紗雪は首を傾げた。やや間を置いてから、須桜は指先に視線を落としたまま言う。
「……紫呉、今ね、――謹慎中なの。ちょっと、色々あって。監舎に繋がれてる」
え、と思わず声をあげた紗雪の驚きをかき消すように、洋が大きく溜息をついた。
「全く、馬鹿にも程があるというものです。自覚というものをアレは持ち合わせているのですか。己の行動が、周囲にどれほどの影響を及ぼすのか分かっているのですか? 全く、愚かしい。馬鹿ですよ、馬鹿。馬鹿につける薬は無いのですか」
「ふふ、ほんとにね」
疲れた顔で、須桜は微笑んだ。
監舎。その言葉を聞いて紗雪が思い浮かべたのは、罪の一字だ。何があったのだ、と聞いてしまいたいけれども、疲れた顔をした須桜にそれを聞くのは躊躇われた。
落ちた沈黙が気詰まりだ。洋ばかりが素知らぬ顔で、いまだお茶を冷ましている。
沈黙を裂いたのは悲鳴だった。
「な、何?」
店の外で、何か騒ぎが起きているようだ。壱班の警笛が聞こえる。物取りの類か、それとも破天か誇天だろうか。
「見てくるんだぜ」
戸口に向かう崇の後ろを、須桜が追う。洋はちらと視線を上げただけで、座ったままだ。紗雪はただ、まごまごとするばかりである。
戸を僅かに開けて、外を見ていた須桜が振り返った。視線が鋭い。
「すぐ戻る。待ってて」
崇の肩を叩き、須桜は飛び出していった。その背を見送る崇が、小さく高く口笛を吹く。その音に遅れて、羽ばたきが連なった。
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