泥靴下
しゃがみこんでバドミントンのラケットをケースに直しながら息を吸い込む。体育館に篭った生暖かな熱気が肺を満たした。
頼子は束ねていた髪をほどきながら、周りを見回す。入り口付近に陣取ったバドミントン部は、後輩達が片付けをしている。体育館の前方の舞台では、数少ない女子卓球部が素振りをしていた。
吊るされた緑色のネットが、体育館を丁度半分に分ける。入り口側と、舞台側。舞台側では、男子バスケット部が活動していた。今日は試合形式で練習を行っている。学校指定の、決して洒落ているとは言えない緑色のジャージの上にビブスをつけていた。靴底と床が擦れあって、キュキュっと高い音が忙しなくあがる。試合に参加できない一、二年生達が、別段おもしろくもなさげに隅の方で座り込んで、目の上のたんこぶが走り回るのを見ていた。
四番を背負った同じクラスの川口が放ったボールが、ぱすりと軽い音をたててリングをすり抜けた。
広がる歓声。
飲み込んだ息が、頼子の頬を熱くする。
頼子は目を細めて川口を見た。短く切った髪をワックスで尖らせた頭を、同じチームの仲間に叩かれながら笑っている。笑うと、目が三日月の形になって、目尻に皺が寄る。顎先と、眉間に大きなニキビができていた。夏の間に焼けた肌が剥けてきて痛そうだ。鼻の頭や腕の皮膚がところどころ粉をふいている。捲くりあげたTシャツの袖、そこから伸びる腕は、見事に二色に分かれていた。丁度色の分かれ目、右の肘の僅かに上のあたりに絆創膏を貼っている。
その淵の黒ずみを拭ってやりたいと思った。
頼子は頬に血が上るのを感じた。ゆっくりと、息を搾り出す。
「頼ちゃんっ、早く着替えてきなよ」
後ろから肩を叩かれて頼子は振り向く。セーラー服姿の真希がいた。束ねられていた柔らかな茶色の髪はおろされ、艶やかな顔には薄く化粧をしている。もとから大きな目はマスカラを塗った睫毛に縁取られて、より大きく見えた。
「ごめん、ちょっと待ってて」
立ち上がると同時に、ホイッスルが鳴った。試合終了、だ。
マネージャーに渡されたタオルで、川口が汗を拭っている。ちらりとこちらを見た。
頼子は俯いて、結び目の跡のついた髪を指で梳く。お詫びに飴あとでちょうだいね、と真希がふざけて笑う。ガムしか無いよ、と笑い返して頼子は更衣室に駆けた。
りりぃ、りりぃ、と虫が鳴いている。ついこの前まで蝉がうるさすぎて鬱陶しいほどだったのに、今では何となくそれが懐かしい。
日が暮れるのも早くなった。部活終了の時間は前と変わらない。けど、以前は体育館から出た時はまだ明るかった空が、今は暗い。昼間はまだしも、夏のスカートでは朝晩は肌寒い。セーラー服も、冬服には早すぎるし、夏服だけでは寒い。カーディガンは手放せない。
「ねえ、さっき何見てたの?」
真希が大きな目でくるりと見上げてくる。小柄で、茶色の長い髪が似合う真希。自分とは大違いだ。
「……バスケ部。何か、人が動き回ってるの見るの、楽しくない?」
「んー、バスケ、ルール分かんないからなぁ」
ピンと伸ばした人差指を唇にあて、眉間に皺を寄せる。そんな仕草がごく自然に似合う真希が羨ましい。
真希とは、中学に入ってからの付き合いだ。一年の時に同じクラスになって以来二年と半分、一、二、三年と、ずっと同じクラスだ。クラスも、部活も、帰り道も一緒。学校生活で、一番長く側にいる相手だ。
学校から家まで徒歩で約二十分。分岐点となる、坂の上の酒屋が見えてきた。
「そういえば、何かあんまし人いないねえ。やっぱし、あのせいかなあ」
「そうだろうね。真希も気をつけなよ」
「平気だって。マキみたいな不細工狙ったりしないよ」
真希が顔の前でぶんぶんと手を振って笑う。頼子はそれを、目を眇めて見下ろした。
最近、この辺りで変質者が出るらしい。見せてくるだけでも性質が悪いというのに、さらに性質悪く、触らせてくるらしい。あくまで、らしい、だ。頼子達の中学の女子生徒が何人か被害に遭ったそうだ。終わりのホームルームで、担任が毎日やる気なさげに、言いにくげに注意するだけなので、何となく実感が沸かない。それに、自分はまず狙われはしないだろう。
「……まあ、気をつけなよ? ほんと。あんたの家の辺り、人通り少ないし」
「頼ちゃんも気ぃつけなよ? 近道しちゃダメだよ?」
しないよ、と、とりあえず苦笑しておく。
頼子の家は、微妙に不便な位置にある。途中に公園があるのだ。公園内を通らず大回りをすると、何となく損をした気分になるくらいの物だ。ビミョウに、不便な位置にある。
まあ、近道しようがしまいが、どっちだって変わらないだろう。ほんと、自分には関係無い事だ。
それじゃあね、と酒屋の前で別れた。携帯で電話をするふりをしながら帰ると良い、と真希がアドバイスをくれた。
酒屋の前の横断歩道を渡って左に曲がる。公園が見えた。キィ、キィと手摺の錆びたブランコが揺れている。藤棚の側の水飲み場の蛇口は締まりが悪く、水がちょろりちょろりと出っ放しになっている為、野良猫の溜まり場になっていた。茶トラと、キジ。それに白黒の斑がいつもいる。
ブランコの横を通り、にゃあと鳴き真似をして、入り口付近の、蜂に注意の看板の立てられた茂みの横を通り抜ける。
頼子はふうっと息を吐いた。
ほら、やっぱり、平気だ。
公園を抜けて右に曲がる。住宅街をしばらくまっすぐに進む。田村の標識を通り過ぎて数歩、ヒステリックな女の喚き声が聞こえた。
声を後ろに数十歩、吉田の標識の前で止まった。玄関からではなく、庭先から家に上がりこむ。
上がったすぐその部屋が、夏生の部屋だ。
「なっちゃん」
呼びかけても、部屋の主は現れない。机の電気も点けっぱなしだし、音楽もかけっぱなしだ。すぐ戻ってくるだろう。頼子は、パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツが脱ぎ散らかしてあるベッドに勢いよく座った。スプリングがぎしりと音をたてる。何となく、ベッドの下を覗き込んだ。
その矢先、ドアが開いた。遠くに水を流す音がする。
「ぅお、頼子。おま……っ、いつ来たんだよ」
「なっちゃんがトイレに行ってる間」
覗き込んだ姿勢のまま答える。捨てたのと尋ねると、飽きたんだよと返ってきた。
「新しいの買ってきてあげようか、浪人生」
体を起こして揶揄すると、大きなお世話だと夏生は舌を突き出して、後ろ手にドアを閉めた。
夏生は頼子の、いわゆる幼馴染というやつだ。学年で言えば四つ年上の夏生は、幼い頃から兄のような存在だった。まだ二人とも幼い頃、公園の藤棚に上って、親にこっぴどく叱られた事もある。
夏生はうんと伸びをしてから机に向かった。机はベッドの向かいにある為、夏生の後姿しか見えない。
ずっとカットに行っていない、伸びっぱなしになった黒い、強い髪。コンタクトは合わなかったとかで、最近は眼鏡に戻った。以前の、まあそれなりに身だしなみに気をつかっていた夏生ならともかく、今のこの状態での眼鏡着用は、知らない人が見たら怪しい人に見えるだろう。夜中にうろついていたら捕まりかねない。しかも家にいる時は常に高校のジャージだ。3−1吉田。背中の、手作りのゼッケンが目に眩しい。
「お前、こっちじゃなくて家帰れよ」
ぱらりぱらりと、問題集のページを捲りながら夏生が言う。
「嫌だよ。家、うるさいし」
父はこのまま高等部にあがれと言う。母は今の中高一貫の私立よりも、もっとレベルの高い公立高校に行けと言う。お互い、頼子の為だと主張していた口論は、そのうちに父の浮気についての口論に変わる。
やかましく吼える家に帰るよりはずっと、夏生の家の方が居心地が良い。最近は、毎日のように夏生の家に帰ってくる。
ページを繰る夏生の手が止まった。
「うち、夜俺だけなんだし、お前そのへん考えろよ」
「……女だなんて思ってないくせに」
窓に映る自分の姿を見る。
中途半端に伸びた黒すぎる髪。ツリ気味の一重瞼は睫毛が短く、いつも怒っているように見える。低い鼻に、そばかすの散った頬。無駄に高い身長。肩幅は平均より広い。
女だなんて思えないくせに。
頼子と夏生、二人の溜息が重なった。
「……お前、晩御飯は?」
「いらない」
「…………残りもん、後で持ってきてやるよ」
頼子は仰向けに寝転がる。
「ちょっと寝るから。そのうち、起こしてね」
目の上で手の平を重ね、明かりを遠ざける。夏生が何か言ったが、聞こえないふりをした。