泥靴下2
体育館を出て、裏に回る。足をだらりと投げ出して座り込んで壁にもたれ、テニス部が壁打ちをしているのをぼんやり見ていた。
空は、青とも紺ともつかない微妙な色をしている。山際の、端っこのあたりが少し赤かった。山鳩がどこかで鳴いている。
部活動の、休憩時間だ。頼子はいつも、休憩中はここでぼんやりと過ごしていた。休憩中まで運動するのはしんどいし、誰かと話しているのもしんどい。
ふと、声が聞こえた。顧問かつ副担任の声と、川口の声だ。公立の、と聞こえた。進路の事で相談しているらしい。頼子のいる位置からは二人は見えない。声だけが聞こえる。二人も頼子には気がついていないようだ。頼子は手の平についた砂を、音をたてないように注意してゆっくりと払った。
頼子の伸ばした足元に、二人分の影が伸びている。あれ、と川口が声をあげた。足音が近づいてくる。
「何してんのお前」
「……休憩」
頼子は足を抱え込み、背を丸めた。遅れて、顧問もこちらにやって来た。
「おお、田村か。さっきから足のさきっぽ見えるなあ誰だろうなあと思ってたんだ」
腰に手をあてて、何が楽しいのか顧問は笑った。ああそうだ、と前置きして、
「さっき知らせがあったんだがな、また出たそうだぞ」
「出たって……、変態さんですか」
「ああそうだ。お前も気をつけろよ」
「別に……、あたしには、関係無いですから」
顧問と川口が顔を見合わせた。
「まあ……、そう拗ねた事を言うんじゃない」
「そうだって物好きもいるし」
「川口、それは慰めになってないぞ」
二人は声を合わせて笑った。
「まあ、今までの被害者は皆小柄な子だからなあ。確かに、お前には関係無いかもなあ
ははは、と手を振りながら顧問が笑う。
これは、ただの悪意の無い悪ふざけだ。そう、分かっては、いる。頼子は右の手の親指を、汗ばんだ手の平の中にぎゅっと収めた。
抱え込んだ足の、汚れた体育館シューズの先に落とした視線を上げると、川口と目が合った。三日月の形をしている。顎先のニキビは治りかけていた。今日は、バスケ部は部活の無い日だ。黒い学生服を着ている。二つ三つ外したボタン。その中の白いカッターシャツの襟ぐりが、ぼろぼろにほつれている。
ふん、と鼻から息を抜いて、川口が笑った。
握りこんだ親指が、ぱきりと鳴った。
ピイっと高く、休憩時間の終わりを告げる笛が鳴る。頼子はゆっくりと立ち上がった。
二人の間を縫って、体育館に戻る。
川口の頭は、頼子の手の平一つ分下にあった。
「あれ、頼ちゃん。もう着替えちゃったんだ?ちょっと待ってて、すぐ着替えてくるから」
体育館の外、エントランス、半分だけ閉じた扉に背をもたせ掛ける。ほこりの詰まった緑色のマットをじっと見下ろした。中を覗き込むと、ニスの塗られた木の床が眩しい。ぱたりぱたりと真希が駆けてくるのが見えた。
お待たせです、と真希が笑う。その胸元に手を伸ばした。
「え、何なに」
「リボン曲がってる」
赤いリボンの、形を整えてやる。真希の不思議な癖だ。ちょうちょ結びをすると必ず、縦結びになってしまう。ありがとう、と動く頼子の手を見つめて真希が笑った。
ふと真希が顔を上げて、あ、と声をあげた。頼子の後方を指差す。
「森下さん」
「なぁに?」
川口はワックスで立てた髪に手をやって俯いた。その、さ、と言いにくそうに、ちらりと頼子に目をやった。頼子は首を元に戻して、俯いた。
「今日さ、一緒にさ、……帰らねえ?」
え、と真希が声をあげた。
「や、何かほら、最近物騒だし……」
え、え、とうろたえる真希の声。もう一度後ろを向くと、川口と目が合った。上目遣いに頼子を見ている。ゆっくりと、頼子は息を吐き出した。この目に、頬を染めながら見下ろされることは、無いのだろう。
「え、と、川口くん?頼ちゃんも一緒に三人で
「二人で帰りなよ」
真希の声を遮って、頼子は言った。真希が眉を下げて、こちらを見上げる。頬が僅かに赤い。頼子は僅かに口の端を持ち上げた。上手く出来たかどうかは分からないが。
「二人で、帰りなよ」
あたしは良いからさ。言って、鞄を持ち直す。ペンケースがガジャリとやかましく鳴った。
でも、と何かを言いかける真希は見ずに、それじゃあ、と二人に背を向けた。
走り去ったりなんて、しなかった。
夏生の部屋に庭から上がると、椅子の背もたれに反り返って、夏生がよぉと片手を挙げた。
「……髪、」
「ああうん、今日切ってきた」
いい加減鬱陶しかったし、と短くなった前髪を一房摘んで上目遣いに見上げる。何で、今、その髪型なんだろう。柄でもない、ワックスなんか使ったりして。重い鞄を、ぶつけてやりたくなった。
しかしまあ何でかな、と夏生は気恥ずかしそうに後頭部に手をやった。
「失恋でもしたんですか、だってさ。何で髪切る=失恋、なんだかね」
頼子は夏生の机に近寄った。お前今日はちゃんと家帰れよ、と呟く夏生の前、手を伸ばしてペン立て代わりの小さなバケツに立てられたはさみを手に取る。机の上には数学の問題集が広げられていた。紙と紙の間に、消しゴムのカスが詰まっている。
それはね、なっちゃん。
「……後ろ髪、引かれないようにする為だよ」
じゃくり、と鈍く刃が鳴った。
「ちょ、おま……っ、何やってんだよ!」
声を荒げて、夏生がはさみを奪った。肩をつかまれる。思いの他に強い力に驚いた。身を捩って、夏生の手を外す。
フローリングの床に散らばる黒い髪。何やってんだよ、と力無く夏生が言った。
「なっちゃんには関係無い」
「無いことねえだろ!」
「無いよ!」
あたしの事なんかどうとも思って無いくせに。思えないくせに。
「あたしがどうしようとなっちゃんには関係無いじゃない」
窓に、背を向けていて良かった。きっと今自分は、醜い顔をしている。不揃いな髪に、赤くなった目、赤くなった顔。見たくも無い。理不尽に、やつあたりなんかして。いつもよりもずっと、醜い顔をしている。
「関係無いかもしんないけどさ……」
夏生の指先が頼子の髪に触れた。
「……もったいない事しやがって」
喉が、詰まった。夏生の指先に圧迫された心臓が膨れ上がって、喉の奥、鼻の奥をズンと刺激する。
頼子は、手を振り払って、外に飛び出した。靴も履かぬまま走り出す。背に夏生の声が聞こえた。
さっき、歩いた道を駆け抜ける。川口と真希に浴びせる罵倒の言葉を考えようとしていたのに、何故か音楽の授業で習った歌なんて思い出して、唇を噛んだ道だ。翼よりもずっと、欲しいものがあるのに(それは決して手に入らない)。
頼子は公園に足を踏み入れた。さっき通った時も、怖いともなんとも感じなかった。ブランコに腰を下ろす。錆びた鎖が、汗ばんだ手の平にひやりと心地良かった。
帰り道、襲ってくれやしないかと思った。そうしたら、あの二人は後悔するだろう。頼子をひとりで帰らせた、自分達を責めるだろう。良い気味だ、と。
けれども、そんな事はあるはずも無かった。体よく襲ってもらおうなんて、馬鹿な考えだった。自分なんかを、女として見れるわけ、無いじゃないか。
夏生の指先を思い出す。頼子はぶるりと頭を振った。
あんなのいらない。あんなのは、只の哀れみだ。
汚れた靴下で、土をなぞった。土に混ざった小石が足の裏にこそばゆい。
自分が、みじめだった。
いっそ男に生まれてくれば良かったのに、もっと綺麗な顔に生まれてくれば良かったのに、そんな馬鹿げた事を思ってしまう、自分がみじめだった。
夜気に混ざって、金木犀の甘い香りがする。自分の名を呼ぶ、夏生の声が聞こえた。
がさり、と、音がした。顔を上げる。
蜂注意、の看板の側、茂みの中に、人の頭が見えた。荒い息遣いが聞こえる。
にぃ、と男の口が歪められた。スカートから伸びる、頼子の足を見ている。
男が立ち上がった。
こんな夜中の公園で、スーツを着た男が茂みから現れる。明らかに、異質だ。その手がぬらりと汚れているのも、チャックが下ろされているのも、異質だ。
頼子は息を呑んだ。ふぅっと足から力が抜けるのを感じた。渇いた喉に叫びが張り付いて、なかなか声が出せない。
ざり、ざり、と男が歩を進めるたび、音が鳴る。
脳裏に、川口と真希の笑顔が過ぎった(夏生の名を呼びたかった)。
男はもうすぐそこだ。下着の柄がはっきりと見えた。風が吹く。運ぶのは、金木犀の香りだけじゃない。
髪、どうしたのと男が汚れた手を伸ばす。
ずざりと音がした。
入り口で、夏生が突っ伏している。
「おま……っ、携帯持って歩けよアホ頼子!」
走りまわったよ俺もう! と体を起こして夏生が叫ぶ。ごそごそとジャージのポケットから自分の携帯を取り出して、ぱちりと開いた。
固まっていた男が、はと息を飲んだ。夏生が携帯電話を耳にあてがうのを見てようやく手をズボンで拭い、チャックを引き上げる。あ、もしもしと夏生が言うのと男が去るのとが同時だった。
頼子は、夏生が電話をしているのを、ぼうっと見ていた。ジャージのあちこちが土で汚れている。
ぱちり、と夏生が携帯を閉じた。頼子は俯く。
夏生は、頼子の前に背を向けて座った。体中に付いた土を払っている。
項に黒子が三つ。その上を、汗が一筋つたった。
「……何で」
「何でも糞もあるかぼけ頼子」
心配しただろう馬鹿。不貞腐れた声で言う。アホにぼけに馬鹿に、散々な言われ様だ。じわりじわりと、頼子の胸の内を満たしていくものがある。
頼子は地面に膝をつき、汚れたジャージの上から夏生の右の肘の少し上の辺りに、そっと触れた。そこには、赤く盛り上がった傷痕がある。
(無理だよなっちゃん、怖いよ)
(大丈夫だって、飛び降りろよ)
(やだ、無理だよ)
(平気だって、俺が、うけとめるから)
藤棚の側、幼い頃二人が転がったのは、あの辺りだ。昼間、子供たちが描いたのか、様々な大きさの円がある。
頼子は夏生の湿った背中に額を押し付けた。汗のにおいがする。
じわり、じわりと、何かが腹のそこから、胸を喉を通って、目に湧き上がってくる。
汚い頼子。
醜い頼子。
醜い自分を更に醜くしていたのは、自分の心だ。友人を羨んで、眇で人の言葉を見て。
ツぅと、頼子の頬を、涙がつたった。
洗い流してしまえ。汚い自分の想いを。自分の顔に、心に塗りたくられた厚い醜い泥を。洗い流してしまえ。
女だろうがそうでなかろうが、関係あろうが無かろうが、何だって良い。自分を想っていてくれているのは、本当だから。
それはちゃんと受け取って、大事に、しまっておこう。
大事に、大事に、しまっておこう。
りりぃ、りりぃ、と虫の声がする。水が僅かに漏れ出る音がする。
夏生の汗の匂い。は金木犀の香りと混ざって鼻腔の奥に甘く響く。
頼子は、擦りむけた夏生の手に手を重ね、声を殺して、涙を流した。
擦りむけた手の平に消毒液をかけると、声を飲み込んで、夏生が眉を顰めた。垂れる透明の液をティッシュで拭ってやる。夏生は手の平に息を吹きかけた。
よいしょ、と何となく気まずい空気を誤魔化すように声をかけて夏生が立ち上がった。靴下脱いどけよ、とベッドに腰掛ける頼子に言い残して、夏生は部屋を出る。消毒液を戻しに行くのだろう。
頼子は自分の足を見る。靴を履かずに外を走ったせいで、靴下は砂埃にまみれている。早く脱いでしまわないと更に部屋を汚すだろう。
泥にまみれた頼子の靴下。
これを、ひとりで脱ぎきるには、力がいる。
だから。
「ねえなっちゃん」
部屋に戻ってきた夏生は、頼子の呼びかけに顔を上げた。
「…………脱がして?」
両手を後ろについて、右の足をぴんと伸ばす。頬が熱い。下腹の、子宮のあたりがじくりと疼いた。
夏生は伸ばされた頼子の汚れた足をじっと見ている。こくりと上下する喉仏を見ると、シーツを掴む指先に、やんわりと、力が入った。