銀色と黄金宮 8
ゆっくりと意識が浮上してくる。
狭い視界に明度も彩度も落とした緑の葉と、その向こう側の薄闇の空が映った。
まだ眠りを欲しがる目をごしごしとこすって無理に開かせる。と、木の幹に背をもたせかけて眠る陽の姿が目に映った。
みづ穂が眠る前に彼が手入れをしていた諸々の武具は、ベルトにしっかりと挟まれている。
先程の射撃の腕前や先日の応急手当の適格さから見るに、陽はずいぶんと戦闘慣れしている。そのスキルをいったいいつ身につけたのだろうか。
と、唐突に陽が目を開いた。面食らってみづ穂は少しばかり身を引く。
「び、びっくりした。どうしたの?」
陽は無表情のままあたりを見回す。みづ穂は体が強張るのを感じた。陽の緊張が伝わってくる。
「……移動した」
ゆっくりと立ち上がった。軽く目を伏せ、陽はじっと地面を見つめている。
「…………北だ……!」
言うなり陽は駆け出した。後を追う。
林を抜け、間道を走る。林の中を駆ける銀が目に映った。
銀獅子が木々の中から飛び出す。だが二人には目もくれず、間道をひた走っていく。
「待て!」
ぐん、と陽が加速する。
どんどん差が開いていく。だが待てとは言えない。
みづ穂は必死で追いかけた。
心臓が激しく鳴る。
喉もひゅうひゅうと嫌な音を立てている。
それでも足を止めない。ひたすらに陽の背を追った。その向こう側の銀獅子を追った。
銀獅子が合成獣だというのなら、凶行を止めねばならない。
父の企みを止めなければ。
北区と言えば繁華街だ。夜を迎えようとする今、色を求める人々が大勢集い始めているだろう。そんなところに銀獅子が向かえば……。
あっと悲鳴をあげる。
躓いた。
地面に体をぶつける。手の平が剥けた。膝も。
立ち上がろうとするが、疲弊した体は言う事を聞いてくれない。
肺が痛む。
胸元を押さえ、みづ穂は何とか上半身を起こした。呼吸を落ち着ける。
土にまみれた体を払った。
手の平と膝から血が滲んでいる。傷の中に入り込んだ砂粒をかきだす。
ままならない体を叱咤し、汗を拭う。こんなところでへたり込んでいる場合ではない。
銀獅子を止めてみせる。
父の企みは止めてみせる。必ずだ。
再びみづ穂は走り出した。
陽の姿はもう見えない。
それでも行けば分かる。悲鳴の起こった場所に向かえば、銀獅子はいるはずだ。
そう思った途端、悲鳴が耳にとび込んできた。
色とりどりのネオンの中、眩い銀が見えた。口に何かを咥えている。
人だ。動かない。
町に悲鳴が溢れている。人々は恐慌して屋内に逃げ込んでいる。
銀の瞳がこちらを向いた。
銀獅子は口から餌を落とす。
鈍い音を立てて人であったそれは地面に跳ねた。灰色のコンクリートの上を赤い赤い血が流れていく。
のっそりと銀獅子がこちらに向かってくる。
じりっと後退した。嫌な汗が噴きだす。背が冷えた。
銃を取り出して構える。
陽の言葉を思い出す。
殺すつもりなら、徹底的に絶対的な怪我をさせなければいけない。そうでないと防衛プログラムが働いて凶暴化する。そうすると止めるのはすごく難しい。
だとすれば、チャンスは一瞬だ。
餌を喰らおうと大口を開けた瞬間。
口腔内に弾丸を撃ち込んでやれば、さすがの銀獅子と言えど平気な顔をしていられないだろう。
銀獅子は頭を下げて低い唸り声を上げている。血で汚れた口の周りを舌で拭った。
じりじりとみづ穂は後退する。どん、と背中を壁にぶつけた。
その時だ。
銀獅子の向こう側に自警団の姿が見えた。
数は五名。片手に盾を、もう片方にはライフルを構えている。
放て、と隊長だろう男が叫んだ。
よせ、と陽の声が聞こえた。
銃声が耳を貫く。銃弾が銀獅子の体にめりこんだ。
銀の体が見る間に赤く染まっていく。
自警団が歓喜の声をあげる。
銀獅子は吼えた。怒り狂って自警団に跳びかかった。
一人、二人。
見る間に人からものへと姿を変えていく。
一人、二人。
喰らうごとに銀獅子の傷は癒えていく。
自警団の最後の一人が尿を漏らしながら悲鳴をあげている。
その前に陽が立ちはだかった。
よせ、と哀願の声音で叫んだ。
「もうやめろ!」
背後に男を庇って両手を広げる。薄茶の瞳から涙が零れ落ちた。
そろりとみづ穂は歩みを進める。
腰を抜かした自警団の男の腕を掴んで、ずるずると近場の屋内に引きずりこんだ。
酒の臭いが立ち込めている。砕けたグラス、散らばった酒瓶。人々の恐怖が立ち込めている。それが伝染してしまう前に、みづ穂は手早く男の装備品を奪い、もう一度外に出た。
「……おれが、分から、ない……?」
陽は震える声で言いながら、銃を取りだした。
構える。手が震えている。
「なあ、こんな事、望んじゃいないだろう……? こんな、……人を殺すのは、もう、嫌だって……」
銀獅子は空を仰いだ。
はっと陽は目を瞠って、耳を塞ぐ。
「みづ穂さん、耳塞いで!」
咆哮が轟く。
耳を塞いでいても、それでも尚、鼓膜が痛んだ。
地面が揺れる。ばらばらと建物の切片が降ってきた。
振動が止んだ。
陽は頬の涙を肩口で拭った。
「……もう、やめろ」
銃を構える。
銀獅子が跳びかかる。
「目を覚ませ!」
銃声が響いた。
鳴いて銀獅子は後ずさる。左の目から血が流れていた。
立て続けに陽は発砲する。
銀の体に血の花が咲く。その度に銀獅子は鳴いて後ずさる。
カチン、と陽の構えた銃が鳴る。
弾切れだ。
それでも陽は何度も引き金を引いた。泣きながら。
弾切れに気付くと、陽は舌を打ってナイフを取り出した。背後にみづ穂を庇う。
銀獅子はよろめきながら陽に跳びかかった。
陽は構えたナイフを薙ぐ。前足を斬られながらも銀獅子は陽に組みついた。肩口に牙を立てる。
陽の呻く声が聞こえた。
陽は泣きながら、銀獅子の首に腕を回した。鬣に顔を埋める。
「……目、覚ましてくれ、よ。頼むから……」
そう呼んだ。
銀獅子の牙が陽の肩に食い込む。血が溢れだす。
みづ穂は引き金を引いた。銀獅子の耳を貫通する。
銀獅子は体を離した。
陽がその場に崩れる。陽は肩を押さえ、みづ穂の手から銃を奪った。
撃つ。銀獅子は後退する。距離が開いた。
陽は肩にみづ穂を担ぎ上げた。みづ穂が驚きに悲鳴をあげる間もなく、走り出す。手近な屋内に逃げこんだ。
逃げた獲物を探して銀獅子が吼えている。ガタガタと窓が揺れている。
床には色とりどりのビリヤードの玉が転がっている。陽はビリヤード台にみづ穂を下ろし、自分は床に大の字に寝転がった。
陽の呼吸が荒い。大きく胸が上下している。血は止まらない。みづ穂はさあっと血の気が引くのを感じた。
「ねえ……大丈夫?」
大丈夫じゃないだろう。顔色が悪い。陽はひらりと手を振った。
「ほんと? ほんとに平気よね?」
怖い。
みづ穂は台から降りて陽の手を握った。冷たい。
「えと……ごめん、なさい。心配、させちゃって……。おれは、ほんと、平気……」
言って陽は微笑を浮かべた。汗で張り付いた金の髪を煩わしげに払う。動作が緩慢だ。
「……あ、あんたって強いの、ね。強いっていうか、慣れてるっていうか……」
背を這う恐ろしさから逃れようと、みづ穂は努めて明るい声で笑って言った。だが上擦って震えている。
陽はゆっくりと首を振った。
「そういう、プログラムが組まれてる……から……。みづ穂さんみたいに、努力の賜物ってわけでは……なくて……その……」
陽は目を逸らして唇を噛んだ。また謝ろうとしたんだろう。みづ穂はくすりと笑った。
「褒めてるんだから素直に受け取りなさいよ。……待った。謝らなくても良いってば」
陽は呻く。みづ穂は笑って、手を握る指に力を込めた。陽の呼吸はまだ荒い。
「あ、あの……みづ穂さん。……その辺りに、何か、食べるものある、かな……」
辺りを見回すが、それらしいものは無い。あるのは酒くらいだ。そう告げると、陽は頷いて体を起こした。
「……まだ、銀、……獅子は近くにいる。たぶん、今夜中は、ここに。再生が、追いつかない程度には、痛めたから……。遠くには、いけない。……仕留めるなら今だ」
陽はみづ穂に向きなおり、だがすぐに視線を逸らし、俯いた。
「ええと……これは、その……ほんとに、謝らなきゃいけないと、思う、から……。ごめん、なさい」
「は? 何がよ」
「うう……。え、と。首は、その……何か緊張、するんで……、腕、で」
すいません、と陽はみづ穂の腕を取った。白のシャツを捲り、二の腕に顔を近づける。
「ちょ……な、何?」
痛みが走った。
歯の感触と舌の感触。
血を啜る音に眩暈がした。
「な……ん、ちょ、ちょっと、何なのよ!」
ものの見事にどもった。まるで陽みたいだ。陽はみづ穂の腕に顔を寄せたまま、わずかにぺこりと頭を下げた。
痛みと何やら恥ずかしいとので、頭がぐらぐらする。みづ穂はなるべく腕以外の体を陽から遠ざけ、目を逸らした。
陽の体温が離れる。みづ穂は安堵して陽を見た。陽は口元を拭っている。
みづ穂は目を瞠った。陽の肩口の傷が癒えていく。
陽はみづ穂の腕を放し、べたりと額を床に擦り付けた。
「ご、ごめん、なさい! あの、この形状なら、ほんとは普通の食べ物でも、へ、平気なんだけど……その……」
ごめんなさいと何回も謝る。みづ穂は噛まれた腕を押さえ、震える声で聞いた。
「……あんたは、いったい何者なの? 何で傷が……。それに、さっき言ってたプログラムって……?」
陽は体を起こした。シャツを引き裂き、謝りながらみづ穂の腕に巻きつける。
「……みづ穂さん、は……。自分が何者か知ってる?」
「は? 何者……って……人間、だけど」
「じゃあ、……その、人間ってのは……えっと……。みづ穂さんは、自分が、何でできてるか、知ってる?」
「……知らないわ……」
「おれも知らない。……自分が、何でできてる、なんて……知ら、ない。構成材料なんて、知らない」
みづ穂の腕を放して陽は顔をあげた。目を伏せて笑みを浮かべる。
「……けど、生きてる。嬉しいも、悲しいも、ちゃんと有る。……好き、も、……大好きも、知ってる」
言って、陽はみづ穂の背後に回った。振り向こうとするみづ穂を押し留める。
「宗方が、おれ達を覚醒させたのはたぶん、単純にコストの問題。新しく造るより、今あるものを使った方が、安上がりだって、……思ったん……だ、と思う。違ったら……その……」
すみません、と消え入りそうな声で陽は呟いた。
「でも……指令回路とか、何かそういう、いろいろをちゃんと研究、できてないうちに、銀色を……ぅあ、えと……銀、獅子を、……使った所為、で……。暴走、したん、だろうね……。当時の研究資料はもう、無いし、止め方も、分からない」
ぱさ、と音がした。衣擦れの音だ。
何をしているのだと振り向こうとすると、がっと頭を押さえられてしまった。
「今こっち見ちゃ、……駄目で、……す。……おれ、行くね。警察が来る前に。銀色を、止めなきゃ。これ以上、人を殺させるわけにはいかない。研究所の破壊とか、研究員の殺害とかも、……考えた。でも、できなかった。それでもし、銀色が元に戻らなかったらって、思うと……。それでも……」
衣擦れの音に続いて、ベルトを外す音が聞こえた。
「ちょ、ちょっと、陽? 何して……」
がっしりと頭を押さえられる。
「おれは、……弟を助けたい。……救いたい。これ以上、殺させたくは、ない。それで……もし、おれが……、おれも、暴走しちゃったら……。勝手、な、お願いだってわかってるけど……。みづ穂さんが、とめて」
額を項に押し付けられる。
「……自分で、解放するから、……たぶん平気だろうけども。……もしもの時は、とめてほしい」
体温を感じた。
「いろいろ、ありがとう」
そして、息遣いも。
「おれのほんとの名前は、