銀色と黄金宮 4
2
くうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。ああそうだ、陽がいるんだった、とみづ穂は寝起きでぼんやりとした頭で思った。
陽は床に敷いたタオルケットの上に体を丸めて眠っている。窓からうすらと差し込む朝の光に金の髪がきらりと光った。
(……顔と、髪だけはきれいなのよね……)
口を開けばあんなのだが。黙って普通に背筋を正していれば、言い寄る女性はそれなりに多いだろう。言い寄られてそして挙動不審になって、それを見て立ち去っていく女性はおそらく同等数だ。
寝台の上で身を起こし、うんと背伸びをする。首を回すとごきりと鳴った。
枕元に用意しておいた着替えを掴み、シャワー室へと向かう。まだ寝ているとはいえ(そしてそれが陽だとはいえ)異性の前で着替えをするほど、はしたなくはない。
着替えをすませ、身支度も済ませる。昨夜のうちに皮を剥いて砂糖漬けにしておいたオレンジを口にほうり込んだ。その甘酸っぱさに、まだ半分眠っていた頭が回りだす。
「陽ー。起きなさいって陽ー」
足でぐりぐりと腰の辺りをつついてみるが、陽はむぐむぐと意味を成さない唸り声をあげるだけで起きる気配を見せない。
「もう……っ。あたし朝ごはん食べに行くけど陽はどうする?」
聞いても無意味だとは分かっているが、一応聞いてみる。
「……むー……。おれ、は……良い、れす……」
おや、起きていたのかと目を瞠る。
「まだ……風呂は……」
「……お風呂の話はしてないわよ……」
寝ぼけていただけか。力が抜ける。
とりあえず、と行き先の住所と、朝ご飯は好きにそこらへんの物を食べて良いというメモを残し、みづ穂は部屋を出た。
アパートの出入り口に立って、もう一度うんと伸びをする。
朝の空気は好きだ。朝の白っぽい光も好きだ。ミルクの味がしそうだ。
大きく息を吸って、長く吐く。何の味もしない。けれどおいしい。
町のあちらこちらに点在する屋台は、もうほとんど準備を終えている。まだ気温は低いが、太陽の位置は高い。いつもより少し眠りすぎてしまった。
屋台から買ったりんごを齧りながら歩く青年とすれ違う。ぐるりと腹が鳴った。みづ穂も倣ってりんごを買おうかと思ったが、まあ良いやと思い直して、足早に目的地へ向かった。
「ぅはよ。みづ穂ちゃんが一番乗りだ」
扉を開けるなり、甘い笑顔で蜜蜂は出迎えた。あいさつを返し、いつもの位置に腰を下ろす。
「そうなの? でもそんなに早いってわけでもないのに」
「やあ、ちょっくら店開ける時間が遅くなっちゃってねえ。来てくれてたお客さんがいたかもしんないのに。すみません」
と、蜜蜂は架空の『来てくれてたお客さん』にぺこりと頭を下げた。
「で、どうする? いつもので良い?」
「うん、お願い」
「飲みもんは? 紅茶?」
「んー……。ホットミルク。蜂蜜いれたやつ」
「了解」
敬礼の仕草を見せ、蜜蜂は料理に取り掛かった。
厚切りのトーストをトースターに入れ、鍋でミルクを温める。水につけておいた野菜を手早く千切りにする。トントンと軽やかな音が響いた。
誰かが料理をしているのを見るのが好きだ。温かく柔らかく、懐かしい気持ちになる。父と母と暮らしていた頃を思い出す。それほど昔の話では無いのに、何故だか遠い過去の出来事のような気がした。
カタンという音と共に、トースターから良く焼けたトーストが飛び出してくる。バターの香りに、また腹がぐるりと鳴った。聞こえやしなかったかと腹を押さえた。
トーストとサラダを一皿に盛り付け、蜜蜂はテーブルに皿を置いた。いただきます、と手を合わせる。ふうわりとしたトーストの味と食感に腹も心も満たされる。
誰かと食事をするのが好きだ。一人で食事をしていてもただ「食べる」だけになってしまって楽しくない。誰かと話しながら食事をするのが好きだ。
だからほとんど毎日、蜜蜂の喫茶店に通ってきている。蜜蜂の料理はおいしいし、蜜蜂自身の事も好きだ。
だが恋ではない。恋というよりも、もっと穏やかな気持ちだ。兄がいたとすればこんな感じだろうかと思う。
ミルクに蜂蜜をたらし、スプーンでかき混ぜる。いつもは紅茶を好んで飲むのだが、今日は何となく別のものを頼みたくなったのだ。
そういえば、母が寝る前によくホットミルクを作ってくれた。懐かしく思う。
(いけない。何かやけに感傷的になっちゃってるわね)
おそらく陽が部屋に来たからだ。この町に越してきて、初めて部屋に他人をあげた。
誰かを起こすのも、人の目を気にしながら着替えるのも初めてだった。何だかドキドキして楽しかった。
もう陽は起きただろうか?
今頃朝ご飯を食べている頃だろうか?
買い置きしていたパンとミルク、それから例のオレンジくらいしか無いが。
やっぱり無理やりに起こしてでも、陽も連れて来れば良かったかなと思う。あんな素っ気無いものより、蜜蜂の作るご飯の方がずっとおいしい。
「何か良い事あった? 機嫌良いね」
「そう? んー……でも、良い事……なのかしら? まあ、けっこう楽しくはあるわね」
「ふうん? ま、楽しいってのは良い事だよ」
カウンターを挟んだ向こう側で蜜蜂は腰をおろし、にこにこと笑った。
「あ、そうだ。これ昨日のお釣り」
「別に良いのに。小銭だし」
「駄目。お金に関してはきっちりしなきゃ」
几帳面ね、と半ば揶揄の声音で言いながら、手の平の小銭をもてあそぶ。
ああそうだ、と今度は先程よりもずっと硬い声で蜜蜂は眉を寄せた。
「昨日の夜にさ、来てたお客さんの話なんだけど。最近すんごい強い妖獣いるらしくて」
「強い……」
こくりと一口ミルクを飲み込んでから、カップをソーサーに戻した。聞く姿勢をとる。
「そう。そりゃもうべらぼうに。で、種族も分からない。新種の珍種だとお客さんはその妖獣に目をつけた。これを狩ればぼろ儲けだってね。けどそいつを狩ろうとすれば、いっつも他の奴に邪魔される。まあ、よっぽどでかい獲物なんだろうな、他の奴らも狙ってるってわけ。それで、まあいろいろあってようやっとお客さんはそいつを仕留めた。結構な大怪我と引き換えにね。けれど、やっとの事で倒したってのに、何か妖水晶がおかしいんだ」
「……おかしい?」
「ああ。何か、濁ってる。とにかく、今までに見たことないようなものだったらしい。鑑定士に見せてもこれは贋物だろうって相手にしてもらえない。そのお客さんはまあ、結局は好事家んところ行って引き取ってもらって、それなりのお金貰ったらしいんだけど」
新種の強い妖獣。
狩人の邪魔をする者。
妙な妖水晶。
明らかに顔色の変わったみづ穂に、慌てて蜜蜂は言った。
「ぅお、ごめん。朝から辛気臭い話して」
「ううん、違うの。……ちょっと、何か、ふらふらしただけ。寝不足かしらね」
「……平気?」
「うん、ありがと」
にこりと笑って、平気だと言うように手をひらひらと振る。
「寝不足は美容の大敵よ?」
「そうね。気をつけるわ」
重くなりかけた空気は、蜜蜂のゆるい物言いで霧散した。あえてとったのであろう蜜蜂の態度に感謝する。
それからはいつものようにとりとめのない話が続いた。朝食を口に運びながら相槌をうつ。いつもの朝の空気に戻った。
と、ギィと扉が遠慮がちに開いた。
「お、いらっしゃい。初めての顔だね?」
「ぅあ、……えと、おれは……」
扉から半分だけ顔を覗かせた状態で、陽はちらちらとこちらを窺い見ている。手招きをすると、おずおずと蜜蜂の様子を窺いながらもこちらにやってきた。
「えと、失礼、……しま、す」
みづ穂と蜜蜂にへこりと頭を下げ、どこまでも遠慮がちにちょっこりと腰を下ろした。
「みづ穂ちゃんの知り合い?」
「うん、昨日からうちに居候してるの。陽って言うのよ。――陽、この人は蜜蜂さん。この店のご主人よ」
「あぅ、よ、よろ……しく……」
テーブルに額がつくほどに陽は頭を下げた。
こちらこそ、と蜜蜂は軽く頭を下げる。
ちらりと蜜蜂を見上げ、目が合うと、すみません、と消え入りそうな声で陽は首を竦めた。
「色っぽい関係とかそんなんじゃないんだけどね」
「うーん……。でもまあ、男は皆オオカミだからなあ。気をつけんといかんよ?」
茶化す調子で言って、蜜蜂は陽の前にメニューを広げた。
「う、お、おれは……朝は……えぇと……」
だらだらと汗を流しながら、陽はメニューとみづ穂と蜜蜂とに、順番にぐるぐると視線をやる。結局テーブルに視線を落とし、お決まりの「すみません」だ。
「何に謝ってんのよ。ちゃんと食べたの?」
「うあ、ごめ……いや……はい。ご、ちそう、……さまで、す」
いいえ何のお構いも無く、とぺこりと頭を下げ返す。
笑いながら、蜜蜂は二人の前にレモン水を置いた。
「陽くん、だっけ? これはタダだから。遠慮せずにどうぞ」
「あ、あっ、ありがっ……! 良い人……!」
「んー。そうでもないよ?」
「っていうかまあ、喫茶店じゃフツーに出すもんだからね」
呆れた声でみづ穂は言う。おいしいです、と目を輝かせる陽に、蜜蜂は笑ってはたはたと手を振った。
「はは、変わった子だなあ。何ていうか君はアレだね、オオカミって言うか獅子の赤ん坊? うん、そんな感じだ」
「うお、……う、し、獅子……」
「髪の色とか雰囲気とかがさ」
「そんなすごいもんじゃないでしょ。ヒヨコとか何かそんな感じじゃない?」
「ヒヨっ、……こ……っ」
「ああ、うん。それもそうかもしれないなぁ」
オロオロとみづ穂と蜜蜂を見る陽に、蜜蜂は苦笑した。
「ところで、どうして陽くんがみづ穂ちゃんのところにいるのか聞かせてもらっても良いかな?」
何でとみづ穂は首を傾げる。
「やあまあ、オジサンのヤキモチですよ」
わざとらしくしょぼくれる蜜蜂に、みづ穂もまたわざとらしくため息をついてから言った。
「狩りに協力してもらおうと思って。これで結構すごそうなところあるし」
これで、と大人しく水を飲んでいる陽を顎で示す。
「なるほど。じゃあ照れ隠しでなく本当にそういう関係ではないんだ?」
「こんなへよっとした男なんてお断りよ。ま、陽もあたしみたいな女なんて嫌だろうけど」
半眼で陽を窺う。
陽はコップを両手に包み、じっと俯いている。視線は一点を見つめたまま動かない。表情が無かった。
その反応は何なんだと、むっとして口を開こうとした時だ。陽はがたりと大きく椅子を蹴り上げて立ち上がった。