虚の蛹 3
あれから二年が経つ。相も変わらず兄弟の暮らしは貧しかったが、どれだけ高額の報酬を示されようとも警護の日雇い仕事をする事はなかった。
今日は河川の整備の仕事だった。曇天であった事が幸いし、あまり日に焼けずに済んだ(将太は日に焼けるとすぐに赤くなる質で、痛んで難儀しているのだ)。
将太は今、茶屋の軒先にいた。別の日雇い仕事に出ている大悟と待ち合わせをしているのだった。
雨が降りそうだ。降り出す前に大悟も辿りつければ良いのだが。
そう思っていた矢先、曇天は雨を零し始めた。地面にぽつぽつと小さな染みを作っていく。雨はやがて土砂降りの雨に変わった。
「将兄!」
大悟が手を振りながら軒に逃げ込んでくる。
「災難だったな」
「ほんとに。あと少し待ってくれても良いのにさ」
頭を振って雨粒を散らしながら大悟がぼやく。周囲では、大悟と同じく雨に降られた人々が不満を零していた。
茶屋の女主人は軒先の人々を客に変えようと、客引きに忙しい。将太はそれをやんわりと断った。金銭的に甘味を楽しむ余裕は無い。
将太の隣の少女も、同じく客引きにあっていた。
「ほら、お嬢ちゃんも雨が止むまでゆっくりしておいき!」
「いや、でも、夕立みたいだし多分すぐやむと思うので……。すみません」
赤銅色の髪をした少女は、濡れた服を巾で拭きながらちらりとこちらを見やった。同病を憐れむような、少しばかり悪戯な視線だった。それに将太は親しみを込めて苦笑を返す。
雨足は激しさを増している。これでは中々帰れそうにない。せめてもう少し小雨になってくれればと、将太は思わず嘆息した。早く帰って、繕い物の仕事をせねばならないというのに。
降りしきる雨の中、壱班が見回りをしているのが見えた。その制服に反射的に体が強張る。
それは大悟も同じだったようで、その気まずさを誤魔化すかのように、ご苦労なこったなぁと普段とはかけ離れた乱暴な口調で囁いた。
ふいに、店内のざわめきが耳についた。
「なあ、おい……あれ、見ろよ……」
誰かがそう呟いたのを皮切りに、周囲に不安が広がっていく。
「遊民よ! 聞け!」
斜向かいの両替屋の前で、男が叫んでいる。男の腕の中には幼い少女がいた。まだ十にもなっていない幼い少女だ。
「金は悪である! その金を多く有する者もまた悪である! 金を生み出す如月もまた悪である!」
羽交い絞めにされた少女が泣き叫んでいる。その側には膝をついた女性がいた。きっと母親だ。やめて、助けて、お願い、お願い、と悲痛な叫びを上げている。
「誰もその場を動いてはならない! 動くとこの幼女の命は保証しない!」
破天の過激派だ。
胸が悪い。
以前自分が組みしたことのある破天党がどのような組だったのかは知らないが、一瞬なりともあんな卑劣な輩に組していたのかと思うと自分が情けない。
「何だか……最近多いな……」
溜息混じりに将太は呟いた。大悟が頷く。
少女は更に声高く泣き叫んでいる。
少女もその母親も心配だが、先程壱班の姿を見かけた。だからきっと平気だろうと将太は考えていた。
「如月は悪である如月は悪である如月は悪である如月は悪である! よって、我はその如月の所有する金を、それを有する遊民と共に我もろとも消し去るのである!」
男は何かを手にしていた。
爆弾だ。
誰かがそう叫んだ。悲鳴が上がる。その場の誰もが駆け出した。
だが兄弟は動かずにいた。きっと騒ぎは無事に収束すると思っていた。
両替屋の二階に、壱班の制服が見えた。
「愚かだな」
その人影は二階から飛び降り、手にした打刀で男の腕を薙ぎ払った。
男が叫ぶ。爆弾を手にしていた男の腕は、べちゃりと音を立てて、濡れた地面に落下した。
そして人影は切っ先で導火線を斬り、蹲る男の背を踏みつけた。
「そんなに金が嫌いなら、真っ裸で暮らしてみてはどうですか? その服もまた金で買ったものでしょうに」
壱班の濃灰色の制服は雨に濡れ、黒く色を変えていた。
あたりはまだ混乱に渦巻いている。破天が捕まった事を知らずにいるようだ。
少年が転んだ。だが人々は止まらない。このままでは危ない。反射的に将太は駆け出そうとした。
「鎮まれ! 確保した!」
その声に、しん、と静寂が落ちた。少年は立ち上がり、親の元へと駆けていく。
ほら、やはり。
何事もなく終わった。
声を発した本人は、どことなくばつが悪そうに咳払いをしていた。その表情は二年の昔よりも、何だか幼く見えた。
壱班が男の周辺に集まる。男の腕から逃れた少女は、今は母親の腕の中にいた。将太はほっと息を吐いた。
奴は頭を叩きながら(あの頃より髪が短くなっていた)、何かを探していた。制帽を探しているのだろうか。
やがて奴は制帽を見つけ、二階へ向かう為か店内へと足を向けた。
将太は大悟と何とは無しに顔を合わせた。
「……帰るか」
「うん」
両替屋の二階に、奴の姿が見えた。制帽を拾い上げ、こちらを窺っている。
「紫呉ー、何やってんだ。検分始めるってよー」
「すぐ行きます」
踵を返す前、奴はこちらに目礼した。その背が仲間と合流するのを見届け、将太は家路についた。
奴はもう、がらんどうの目をしてはいなかった。
顔にも声にも表情は薄いままだったが、それでも感情が窺えた。男を嘲る声には冷徹さが窺えた。見下す目は一見静謐なようでいて、同時にひどく凶暴だった。まるで黒い炎のようだった。
虚の蛹は孵らなかったか。
それとも、孵化した蛹が尚も変態したか。
知る由も無いが、それは兄弟の関知するところではない。
雨足は弱まり始めている。
- 【了】
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