物見櫓の縁に腕を乗せ、舞台を見おろす。舞台へと続く石畳の両脇には石灯籠が立ち並び、その中を蝶灯がゆらゆらと舞っていた。
舞台の前、石畳の上にひしめく群衆は夜闇に塗りつぶされて黒い。輪郭のみが蝶灯の薄灯りにぼうっと浮かび上がっている。
「もうそろそろか」
隣に立つ影鷹がひとり言のように呟いた。由月は頷き、弓懸を挿す。
群衆の顔こそまでは見えないが、全体を見渡せるここに立っていれば、怪しげな挙動の者が目にとまるのは間違いなかった。
馬鹿げた文をくれた愚か者が、この群衆のどこかにいる。そう思えば心が躍るようだった。
矢筒から矢を抜き取った由月は、そんな自分に苦笑した。
紫呉に自分の代わりを務めるように命じたのは、身を守るためだ。その事に間違いはない。
だがそれだけでは無かったのかもしれないな、と由月は思った。
自らの手で、愚か者達を断罪してやりたかったのかもしれない。
(断罪)
なるほど、良い響きだ。
まるで神にでもなったかのような言葉ではないか。
く、と喉を鳴らした由月を、影鷹は不思議そうな顔で見てくる。それに軽く首を振り、言外に何でもないと示した。
やがて鈴の音と共に、紫呉が舞台へと現れた。楽隊の奏でる楽に合わせた舞は、そこそこの出来と言ってよかった。
まあ、由月が懇切丁寧に指導したのだ。そこそこの出来にでもなってもらわなければ困る。不器用な弟からすれば、最高の出来なのかもしれないが。
ふいに、紫呉が動きを止めた。じっと群衆に視線を落としている。
その異変に、楽隊の音が乱れ始める。群衆もざわざわとどよめきを生み出していた。
「何だ?」
影鷹の声は緊張を孕んでいた。彼はぶらさげていた銃を構えた。由月もまた矢をつがえ、いつでも放てるように弓を引く。
そして響いた、爆竹の音。
群衆は悲鳴をあげ、あちらこちらへと逃げ惑う。壱班の警笛が高く響いた。
また爆竹が爆ぜ、群衆は方々へと散る。その中、じっと動かない者が二人いた。
そのうちの一人が、何かを取り出す。蝶灯の薄灯りが男の持つ刃をぬらりと光らせた。
男は小刀を振りかぶった。狙いは舞台上の紫呉だ。今から男を射たとて間に合わない。
風の流れ、舞台までの距離、男が小刀を投げる速さ。瞬時に読み、由月は矢を放った。
放たれた矢はひょうと鋭く風を切り、小刀を弾き飛ばす。
転がる小刀の金属質な音が、こちらにまで届くようだった。
それを楽隊の一人が拾い上げる。おそらくは須桜だ。
紫呉はまだじっと群衆に視線を注いでいた。が、やがて舞台の裏手へと駆け出した。
どこへ行くつもりだ。騒ぎが起きた今となれば、由月の代わりも何もないが不審に思う。
まあ良い。須桜も追った事だ。何のつもりかは知らないが、生きて帰るならそれで良い。
由月は逃げ惑う群衆へと視線を注いだ。まだ破天の者はいるはずだ。
「その矢」
銃を構え、群衆へと視線をやったまま影鷹が言った。
「鏃ゆるめてあるのか」
えげつねえな、と唇を歪ませる。
彼が発した弾丸は、見るまでもなく命中したに違いない。由月は彼の背後に回り、下方を見下ろした。
「情けをかける必要もないだろう」
狙撃手に気がついたのだろう。二人がこちらに向かってきていた。
由月は矢を二本、手に取った。一本は矢羽を噛み千切り、二本をまとめてつがえる。
男たちはこちらに向かい駆けてきている。一人はもう真下まで来ていた。
真下の男と目が合った。男の目は己の勝利を疑っていない。
二本の矢を放つ。風を切って飛んだ矢は、遅れてきた男の肩を射た。
真下にいた男が振り返り、同胞の名を叫ぶ。そして恨みがましい目でこちらを見上げた。
だがすぐに、その目は驚愕に見開かれた。大きく旋回したもう一本の矢が、男の喉を横様から射たのだ。
男は、ぐ、と呻き、喉に刺さる矢を抜こうともがいた。震える指先が千切れた矢羽に触れる。
どっと倒れた男の元に、肩を射られた男が駆け寄った。事切れた男の名を、叫ぶように繰り返している。
男はやがて、肩の矢を抜いてこちらを見上げた。しかしぐらりと体が傾ぎ、その場に膝をつき、無様に伏した。
倒れた男は抜いた矢を手にしていた。その矢の先に鏃は無い。男の体内に残ったままである。
男の肩からどくどくと血が溢れていた。助けがこない限り、男はここでじわりじわりと死に追い詰められる。
仮に助けがきたとしても、体内に残った鏃を抜き出すのは困難だ。身体の奥深くに残った鏃はやがて肉を腐らせる。
鏃をゆるめておいたのはその為だ。簡単に死なせては芸が無い。
如月に――由月に叛いたのだ。苦しみ、のたうち、そして死ねば良い。
男は伏しながらも尚こちらを見上げていた。
ふ、と由月は唇をほころばせる。
「あ、おい。どこ行くんだ」
櫓を下りる由月を、影鷹が慌てて追ってくる。
男はまだ息があった。肩口を赤く染めながら、荒い呼吸で由月を睨みつけてくる。
湿気た風が由月の長い夜色の髪を揺らす。由月は秀麗な面に笑みを滲ませ、男の前に立った。
「私の名を、教えてやろうか?」
男の目に疑問符が浮かんだ。笑みを深め、由月は血に染まる男の肩口を踏みつけた。声にならぬ悲鳴をあげ、男はもだえる。
「第十二代如月桔梗雅由が長男、如月由月という。やがて、この里を統べる者だ」
男の体ががくがくと痙攣していた。おや、と由月は声を上げる。
「もう、聞こえていないか」
存外にあっけない。恨み憎んだ如月の者を前にすれば、吠えかかってくるかと思ったのだが。
(味気のないものだな)
神の如く破天を裁ける事に高揚を覚えていた。しかしこうして手を下した今、特に感じるものは無い。
つまり結局のところ、やはり己は人であるのだろう。
低い位置を羽虫が飛んでいた。それを払い、由月は踵を返す。支暁殿へと戻るつもりだった。
そのうち汚れた姿で帰ってくるだろう弟を、迎えてやらねばなるまい。
重い雨雲が頭上に垂れ籠めていた。