寒い日の事だった。
女が一人死んだのだ。
女は渡り廊下から飛び降りて、ひしゃげて死んだ。
雪が降った夜の事だった。
雪は朝になっても降りやまず、女の死体を白く染めた。
女を見つけたのは禿だった。
生前、女の世話をしていた禿だった。
禿は雪の中からはみ出した、女の髪を見つけたのだ。
女の髪は美しい橙色をしていた。
まるで金木犀を思わせるような、匂い立つような橙色をしていた。
女の名は金桂といった。
透蜜園の、華の一人だった。
浅葱は窓の側に座り込んで、ぼうっと外を眺めていた。雪は昼を過ぎても降りやまず、音もなく外界を白く染めている。
部屋には火鉢も何もないからひどく寒い。指先がじんと痛むほど体は冷え切っていた。
それでも浅葱は窓べりから動こうとしなかった。積もるほどに雪が降るのが珍しかったからかもしれないし、感傷じみた湿っぽい感情に酔っていたかったのかもしれない。自分自身、意味は分かっていなかった。
今朝、女の死体が発見された。
金桂という名を与えられた、透蜜園の華の一人だ。
金桂は二十を少し過ぎるほどで、華としての盛りは少しばかり過ぎていた。
それでも彼女の美しさは衰えず、むしろ、彼女の美しさは内々の才気に因るところが大きかったから、しとやかな美しさは年々増していた。
金桂は、三階の渡り廊下から飛び降りたのだ。
渡り廊下とは華や色の住まう居住区と店を繋ぐ廊下の事だ。その渡り廊下の高い欄干を乗り越えて、金桂は外の世界へ飛び出した。
理由は知らない。情報を売り物にして生きる浅葱といえども、彼女が欄干を乗り越えた理由は知らなかった。
ただ、金桂は日ごろ言っていた。
あの人はいつ迎えにきてくれるのかしら。
今日もあの人は来てくれなかったわ。
私はあの人と外で生きたいの。
ねえ私を迎えにきて。
はやく、はやく。
お願いよ。
ねえ。
金桂の言う『あの人』の名を浅葱は知っている。『あの人』が金桂を迎えにいくなどと、約束をしたことは無い事も。
金桂はいつからか、虚構の中で生き始めていた。『あの人』と手を取り合って店を出て、外の世界で生きる夢を見て生きていた。
『あの人』との架空の思い出を語る金桂は美しかった。幸せそうな彼女はとても綺麗だった。
だからきっと、外へと飛んだ金桂は、美しくて幸せで綺麗だったんだろう。
つらつらとそんな事を考えていたら、突然襖が無遠慮に開かれた。
「どこにいるかと思ったら……、こんなとこでてめえは何をしてんだ」
紺は見るからに不機嫌そうな顔で浅葱を見おろしてくる。
「別に、何をしてるってわけでもないけど」
つらっと答えた浅葱の答えに満足できなかったのか、紺は眉を顰めて舌を打った。
紺は透蜜園の色頭だ。三十半ばほどになるだろうか。短く刈った固い黒い髪に、鋭い目つき。屈強な体躯と併せもって、見るからに威圧感を与える容姿をしている。
十年ほど前、店の前に捨てられていた浅葱を拾ってくれたのは紺だ。拾い『浅葱』と名を与え、色として生きる術を一から仕込んだのも。
浅葱にとって彼は恩人、というものなのかもしれない。あまりそれを意識した事は無いけれど。
「薄気味悪い真似しやがって」
部屋へ入ってきた紺は、浅葱を足蹴にした。彼にひどくされるのはいつもの事なので、浅葱は特に気にも留めない。
浅葱の今日の召し物は、小さな橙の花の散る紅の袷に、お太鼓に結んだ濃灰の帯。長い橙色の鬘をかぶり、薄く化粧をほどこしていた。
金桂の姿を真似たものだった。
そしてこの部屋は金桂の部屋。紺が薄気味悪いと言ったのも無理は無い。
「ねえ」
微笑みながら浅葱は立ち上がり、すいと紺の首に手を伸ばす。
「どうして私を迎えにきてくれなかったの」
両の腕を紺の首に回し、浅葱は紺にしがみつくようにして抱きついた。
「私はあなたと外で生きたかったのに」
紺は何も言わない。
首筋に唇を押し当てる。露出した皮膚の中で一番薄いその部位を、相手に触れさせるこの行為が、どうして愛を伝えることになるのだろうか。
軽く歯を立てながら考えるも、答えは出ないままだった。
ゆっくりと舌先でなぞり上げても紺の呼吸は規則正しいままで、熱も変わらず、鼓動も変わらずだ。
「何がしたい?」
低い声も、震えもしない。
「さあね」
理由なんて浅葱自身も知らない。
体を離す。途端にすうと体が冷えるようで、彼の体温はぬくくて単純に心地良かったのだなあとか、人事のように考える。
浅葱は紺を見上げた。
「で、ぼくに何の用さ。探してたんだろ?」
「仕事だ」
短く答え、紺は店の方角を顎先で示した。
「はいはい。りょうかーい」
ひらりと手を振って、浅葱は部屋を後にする。
紺が金桂の気持ちに気付いていたのか否かも、浅葱は知らない。ただどちらにせよ、あの男にとっては些末なことなのだという事は理解していた。
歩きながら浅葱は鬘をむしりとった。帯をほどき、袷も脱ぎ捨てる。
金桂の装束を捨て去りながら、浅葱は渡り廊下を目指した。襦袢一枚の身に冬の寒さが突き刺さるが、どうだって良かった。
袂から浅葱は紙を取り出す。金木犀の花絵が描かれた、橙の紙だ。客が金桂を指名するのに使われていたものだった。
それを小さく小さく、細切れに千切る。渡り廊下の欄干から腕を伸ばし、浅葱はそれを捨てた。
風に舞ったそれが、まるで金の雪のようだと思った。
ひらひら舞って落ちて、それはいつしか雪に埋もれた。
白く白く、染まっていく。
その様は美しくて綺麗で、浅葱は幸せな気持ちになったような気がした。
寒い日の事だった。