確かにうどんが食べたいと言ったのは自分だ。
だが正直飽きた。
紫呉は抱えたどんぶりをじっと見おろし、こっそりと溜息をついた。
支暁殿の紫呉の自室だ。日生との会合の後、痛みのぶり返した紫呉は見事にぶっ倒れた。痛みに加え、張り詰めていた糸が切れてしまったのもあるだろう。
目を覚ましたら布団の上だった。さらりとした敷布の感触と、視界を埋める敷布の白色で、紫呉は倒れたと自覚したのだった。
小鳥の囀りに、射しこむ朝日。一昼夜、気を飛ばしていたのだろうと知る。己の不甲斐なさに、紫呉は思わず頭を抱えたくなった。
そして目覚めるなり、うどんの波状攻撃だ。
朝も昼も晩もうどん。一日経ち、今日の朝もやはりうどん。
素うどんだったりきつねうどんだったり月見うどんだったりとろろうどんだったり、一応の味付けは変えてくれているのだが、それでもやはり飽きた。もっと濃い味のものが食べたい。
じっと視線で訴えてみるも、枕元に座した影虎は素知らぬ顔だ。全く何も察していません、という顔をして首を傾げてみせたりする。憎たらしい。
怒っているのだろうと、思う。
それも仕方がない。隙を見せ、重傷を負ったのは己の未熟さに因るものだ。
だが紫呉だって影虎には一言二言、言ってやりたいと思っているのだ。
祭までには帰ると言ったくせに。約束を破ったくせに。そのくせ己ばかり責められるのは、何だか釈然としない。
それにこの怪我だって、影虎がいれば負わずにすんだかもしれないのだ。主を護るのが影の務めだろうに。
と、そこまで考えて紫呉は自分の馬鹿さ加減に吐き気がした。
護るなと言ったのは自分だ。護らなくて良い、だから死ぬなと。お前達が僕を護らなくて良いくらいに強くなるから、と。何を甘えているのだ。
結局、約束を反故にしたのは自分だろうに。何が強くなるから、だ。護るなと言っておきながら、やっぱりまた護られた。須桜にも、影虎にも。
強くなりたい。なりたいのに。誰にも護られずにすむくらい。誰も、己を護って命を落とさずにすむくらい。
翔太の首から噴出す血飛沫がちらついて、紫呉は固く目を瞑った。目を閉じれば今度は、加羅の紅い紅い目の色がちらつく。まるで血のような。燃え盛る炎のような。
あの目は嫌いだ。何を考えているのか分からない。何がうそで何がまことか。何も分からない。
奪うと、加羅は言った。
何がしたい。
何が目的だ。
考えても、答えは出ない。
漠とした不安が臓物を食い破る。
「食欲ねえの?」
心配げな影虎の声に、紫呉ははっとした。反射的に首を振って、もそもそとうどんを啜る。
しかし一口を含んだところで、どうにも気持ちが悪くなってしまった。何とか口に入れた分は飲み下したが、次を口に運ぶ気にはなれない。
ここ数日、食が細っているのは自覚していた。暑さと怪我の所為だ。心労の所為もあるのだろうが、それが加羅の言葉に因るものだと思うと癪に障るので、知って知らないふりをしていた。
ほれ、と気の抜けたような声で影虎はこちらに手を差し伸べた。何だと視線で問うと、影虎は紫呉の手からどんぶりを奪った。
「無理して食うな」
「……先日は食えと言ったくせに」
食わなきゃ体力戻らねえぞ、と無理からうどんを食わせてきたくせに。
「うどんに飽きただけですよ。何かもっと、他のものが良い。他のだったら食べれます」
「んじゃ昼は粥にすっかな」
「……そういう薄いのは嫌です」
「胃を大事にしてあげなさいよお前は。普通の食ったら吐くだろ。こんなんでも吐くくせに」
ばれていたのか。影虎がいない間を、一応は狙っていたのだが。
「……吐いていません」
「何でそういう意味ねえ嘘つくよ」
「嘘じゃないです」
「……お前嘘つく時さあ、微妙に目ぇ伏せる癖あんだよね。知ってた?」
「……嘘でしょう」
「うん、嘘。普通に無表情だよ、いつも通り」
「何でそういう意味のない嘘をつくんですか」
「心配してんだろうが」
奪ったうどんをずるずると啜って、影虎は目を合わせずに言った。伸びてる、と不服そうに呟く。
そういう風に言われると、紫呉は何も言えなくなってしまう。
しばし沈黙が落ちた。影虎がもそもそとうどんを食らう音だけが響く。
影虎から感じる怒気が気詰まりで、紫呉はごまかすように身を横たえた。影虎に背を向けて、蒲団を引き寄せる。
心配をかけている自覚はもちろんある。けれど、心配されている自分が嫌で、尖った態度を取ってしまう。
多分甘えているのだろうと、客観的に思ったりもする。いつも通り当たり前みたいに側に在る彼の気配や体温に、安堵を覚えてしまっているのだ。
だからといってそれが、彼の怒りを煽って良い理由にはならないだろうと思う。
ので。
「…………ごめんなさい」
ず、と啜る音が止んだ。
何だか腹が立つ、ような気がする。
背後で笑っているみたいな気配がするのが、何とも恥ずかしいような照れくさいような。
「何なんですか」
「別にー」
肩越しに睨んでみても、影虎はひょうひょうと笑うばかりだ。むかつく。紫呉はすぐにまた背を向けた。
どんぶりを置いた音がした。次いで、く、と喉を鳴らす音も聞こえる。
「お前も、心配した?」
「してません。しません」
帰還を、ちらとも疑わなかったと言えば嘘になる。一瞬とはいえ、もしや帰らぬのではと思いはした。
でも心配したと告げるのは嫌だった。彼の帰還を疑った自分を認めるみたいで、嫌だった。
だから否定する。帰ると信じていたと、言葉の裏に含ませて。
真っ向からは言ってやらない。嬉しがらせるだけだ。そうしたらどうせ、自分は腹を立てる破目になるのだ。
「ふぅん?」
笑みを含んだ声が腹立たしい。
側へと膝行してきた影虎が、ぽんと紫呉の頭を叩いた。
「ま、今は食えねえでも良いから。とりあえずは寝とけよ。寝て体力戻せ」
わしわしと髪を乱される。
「嫌な夢見たら起こしてやるから」
乱した髪を整えるように軽く梳いてから、影虎は手のひらで紫呉の目元を覆った。強制的に暗闇を与えられ、ほどなくして眠気が押し寄せてくる。
隅まで満ちる安堵に、紫呉は反吐が出る思いだった。
嫌いだ、こんな弱い自分。