須桜は濡らした手ぬぐいを絞り、紫呉の額に置いてやった。紫呉の熱を吸い取り、手ぬぐいはすぐにぬるくなる。
「紫呉が風邪ひくだなんてね」
ぬるくなった手ぬぐいを濡らし、再度額に置いてやる。紫呉は何か言いたげに須桜を見たが、結局何も言わずに目を閉じた。
紫呉は浅い呼吸をせいせいと繰り返していた。胸はせわしなく上下している。苦しげによせられた眉に、浮かんだ汗、乾いた唇。ここまで弱っている彼は久しぶりに見た。
須桜は紫呉の首筋に手を添えた。先程よりも熱が高い。
「暑い?」
須桜の問いに、紫呉が僅かに首を横に振る。
「寒い?」
今度は弱々しく頷いた。
困った。また熱が上がるのかもしれない。
「布団、もう一枚持ってくるわ」
額の手ぬぐいを取り、浮かんだ汗をぬぐってやる。
呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
ふいに、紫呉はすうと寝入った。ほっと息をつく。とりあえずは一安心だ。
汗ではりつく髪をよけ、濡らした手ぬぐいを額に乗せる。押入れからもう一枚掛け布団を取り出し、起こさぬようにそっと被せた。
(……大丈夫、かな)
先程に比べて随分と呼吸は穏やかだ。今のうちに水を替えに行こうと、須桜は桶を手に立ち上がった。
音を立てぬよう気をつけて、ゆっくりと襖を開ける。
「……須桜」
襖に手をかけたまま、須桜は振り向いた。
何だ、と問おうとしたが、紫呉の瞼は下ろされたままだ。
寝言か。
須桜の頬に笑みが浮かぶ。嬉しい寝言ではないか。夢の中でも自分を呼んでくれるなんて。
だが、紫呉の呼吸は荒くなり、声の調子も一転した。
「……須桜、はなせ、はなせ……っ」
紫呉は何かを振り払うような仕草をする。
「はなせ! 生きてる、まだ生きてる。まだ僕を見てる!」
須桜は紫呉のもとへと戻る。
「はなせ須桜! こ
「紫呉!!」
紫呉の言葉を遮り、須桜は叫んだ。紫呉は目を覚まし、荒い呼吸で周囲を見渡した。
そして、固く握った己の手を見やる。不思議そうな顔をした。何故刀を手にしていないのかと、そう思っているようだった。
紫呉はゆっくりと体を起こした。額の手ぬぐいが滑り落ちる。
まだ拳は握ったままだ。汗が頬をつたい、顎先から垂れ、拳に落ちた。
紫呉は目を伏せ、ゆっくりと長く息を吐く。気まずそうに須桜を見て、乾いた唇に苦笑を浮かべた。
「うなされてたわよ」
「……夢に、須桜が出てきました」
「あたしが出てきただけでその反応? 流石にちょっとひどくない?」
冗談めかして笑って、須桜は紫呉の側に膝をついた。強く結ばれた拳に手を重ねる。
拳はかすかに震えていた。汗ばんだ手はひどく冷たい。
須桜は拳を開かせようと、小指からゆっくりと伸ばさせようとする。
だが強く握られた拳は須桜の力に勝り、僅かに指が伸びたと思ったらすぐにまた拳を作る。
紫呉は部屋の隅々を見渡した。須桜以外の誰かを探しているようだった。自分に注がれる視線が無いかと探しているようだった。
他に誰もいない事を確認した紫呉の視線が須桜に定まる。自分の拳に添えられた須桜の手を見て、その手をどかさせた。
最初に左の拳が緩んだ。徐々に、ゆっくりと、指が伸びていく。震えていた。
次に開いた左の手で、紫呉は右の拳を開かせようとした。固く握った拳の隙間に、左の親指を突っ込む。
紫呉はゆっくりと時間をかけて、小指から拳を解いていった。途中、右の手は何度も再度拳を握ろうとした。
ようやく、全ての指が開いた。紫呉は手を閉じたり開いたりした。己の意志通りに動く事に安心したのか、紫呉はほうと息を吐いた。
須桜は紫呉の肩を押し、布団に寝かしつけた。手のひらで目元を覆い、瞼を下ろさせる。
「寝てて。水替えてくるから」
瞼を下ろした紫呉が頷いた。
須桜は肩口まで掛け布団を被せ、体を冷やさぬようにする。滑り落ちた手ぬぐいを拾い、滲んだ汗を拭った。
手ぬぐいを桶の縁にかけ、須桜は懐から紙に包まれた薬を取りだした。零さぬように紙を開ける。
細粒の薬を、手で扇いで空気中に送ってやる。それを吸い込んだ紫呉の呼吸が、深くゆっくりとしたものになった。
睡眠薬だ。軽いものだが、弱った体には充分効くだろう。
眠った事を確認して、須桜は桶を抱えて部屋を後にした。
己の爪先を見つめながら、ぼんやりと廊下を歩く。
『はなせ!』
『生きてる、まだ生きてる』
『まだ僕を見てる!』
『はなせ須桜!』
須桜は足を止めた。
「……殺してやる」
そう言おうとしたに違いない。
桶の縁にかけていた手ぬぐいが、ぽちゃりと水の中に落ちる。
波紋の広がる水面に、己の顔が映っていた。二つの目がこちらを見ている。
須桜は肩越しに紫呉の部屋を見やって、歩を進めた。
ゆっくりと眠ってくれれば良い。
今度は、夢も見ぬほどに。