今宵は新月。空に光るのは星ばかりだ。
夜の森に闇が立ち込めている。自身と闇の境界すら曖昧だ。
紫呉は木立に身を潜め、息を殺した。敵の気配は無い。
呼吸が常より浅い。
鼓動が常より速い。
(落ち着け)
恐怖に呑まれるな。
己に言い聞かせ、細く長く、ゆっくりと息を吐く。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
吸って、――息を止めた。
気配がする。こちらを窺っている。
紫呉は懐の小刀を取り出した。鞘を払う。
空気が揺れた。土を踏む音がする。
小刀を投げた。ぎゃ、と声がした。
黒器を刀に変じさせ距離を詰める。
「…………猫」
腹に小刀が刺さっている。四肢がびくりびくりと痙攣していた。
夜闇に猫の瞳が光る。視線に射られる。
やがて、光を失った。
紫呉は黒器を数珠に変じ、猫の傍らに膝をつく。
手を触れる。ぬるりとした感触が指先を濡らした。猫の体はまだ温かい。
小刀を猫から抜く。袷の袖で血を拭った。
猫の体が冷たくなっていく。完璧な死が猫を包み込んでいく。
紫呉は穴を掘った。右手の小刀と、何も持たぬ左手で穴を掘った。
土のにおいが鼻腔を突く。このにおいは以前どこかで嗅いだ。そうだ、以前、屯所の菜園を耕した時の、あのにおいと同じだ。
爪に入り込んだ土が不快だ。乾いてこびりつく血が不快だ。
猫を穴に埋める。
土を被せて均した。
これで元通り。
最初から猫などいなかった。
紫呉は薄く笑みを浮かべている自分に気付き、小さく笑い声を漏らした。
背後で、がさりと音がした。明確な敵意が肌を刺す。
振り返る。男の持つ刀が夜闇に光る。
荒い呼吸と戦意敵意殺意。自分に向けられるそれに、紫呉は確かに安心を感じていた。
男は刀を振りかぶりこちらに駆け寄る。
紫呉は猫を殺したその小刀で、男の腹を裂いた。
男の目から光が消えていく。どさりと重い音をたて、男は地に倒れた。
穴は掘らなかった。