珍しい事もあるものだ。
「……おやまあ」
須桜は夜衣の襟元を掻き合わせつつ、もう片方の手を影虎の傷に伸ばした。
「触んな」
鋭くその手を払われた。睨まれる。須桜は呆れ顔で溜息をついた。
忍装束に身を包んだ影虎の肩口は、血で濡れていた。指先から滴る雫が床を汚す。
影虎が怪我を負うなど珍しい。それに、ここまで気が立っているのも。
「自分で出来る」
影虎の呼吸は荒い。額には汗が滲んでいる。
見たところ、外傷は肩以外に見当たらない。見えぬところに他に傷でもあるのか、それとも、刃に毒でも塗られていたか。
「……頼んのに慣れたくないんだよ」
搾り出すように言う。
須桜は、自室へと向かう影虎の袖を掴んだ。さも厭わしげに歪められた顔を平手で打つ。ぱん、と高い音がした。
反射的に繰り出された影虎の拳を、須桜は掌で受け止めた。
「ちょっとむかついたから。……でも声出さないのは流石ね」
揶揄の声で言えば、影虎は鋭く舌を打って須桜に背を向けた。
拳を受けた手が痺れている。掌をさすりつつ、須桜は廊下に点々と落ちた影虎の血を目で追った。
(拭いておいたら怒るんでしょうね)
自分で出来ると言った手前、影虎はどこまでも人の手を借りないだろう。妙なところで自尊心の高い男だから。
きっと影虎は、怪我など負っていないフリをするだろう。
紫呉も、影虎の怪我に気付いても、気付いていないフリをするのだろう。そして影虎は、気付かれた事に気付いていないフリをする。
(ほんと馬鹿)
もう一つ大きな溜息をつき、須桜は雑巾の置き場を考えた。
怒られても構わない。影虎には療養に努めてもらおう。こんな事で傷が悪化したら面倒だ。そうなれば、紫呉に無用な気を使わせる事になる。
(あーあ、めんどくさ)
厠に行こうと思っただけなのに。
心中で文句を述べつつ、須桜はまずは当初の目的を果たそうと厠に向かった。