私塾を終えた帰りである。少しばかり居残りをして課題を半分まで終わらせてから、紗雪は帰途についた。外に出るなり冷えた風にびょうと晒され、紗雪は思わず吐く息で指先をあたためた。既に暗さに包まれた空は冬の気配が濃厚で、つい先日までは暑い暑いと不平を漏らしていたのが、まるで嘘のようである。
やがて辿り着いた乾弐班の屯所には、明かりが灯っていた。不在ならばそのまま帰ろうと思っていたが、その灯りに紗雪はほっと息を吐く。皆に会うのが楽しみという思いももちろんあったが、これでこの寒さから逃れられるのかという安堵の方が、実際のところは勝っていた。
玄関に鍵はかかっていない。お邪魔しますよー、と声を投げかけると、どうぞ、とどことなく抑えた調子の影虎の声が返ってきた。その声に従い、紗雪は閉ざされた襖の隙間から漏れる明かりを目指し、薄暗がりの落ちた廊下を歩む。
そっと襖戸を開けると、あたたかな空気に包まれた。炬燵に足を突っ込み暖を取っていた影虎が、紗雪の顔を見て破顔する。
「紗雪ちゃん鼻赤くなってる。外寒ぃ?」
「すっごい寒いわよ。耳痛いったら無いわ」
指摘された鼻を少しばかり恥ずかしく思いつつ、紗雪は両手で冷えた耳を包む。
「はは。まあどうぞ。紗雪ちゃんも炬燵入って入って」
いつもよりもずっと気の抜けた影虎の声は、炬燵のぬくさで眠気に襲われているからだろう。お言葉に甘えて影虎の向かい側に陣取ろうとした紗雪だったが、そこからにゅっと生えた黒い尻尾にはたと気づく。どうやら黒豆が中にいるらしい。
「……というか、何なのソレは」
ソレ、と紗雪はやや呆れた面持ちで影虎に視線を送る。部屋に入ってきた時から思ってはいたが、やはり変だ。
影虎の正面、というか懐には紫呉がいる。そしてその紫呉の正面、というか懐には須桜がいる。須桜を紫呉が後ろから抱きかかえ、その紫呉を影虎が後ろから抱きかかえている状況だ。
「いや寒いし」
だらりとした影虎の声は、何かおかしいところでもあるかと言いたげだ。となると、この状況は彼らの冬の日常の一景なのだろう。
「……まあ、寒いけど」
だから紗雪も、とりあえず同意を返すばかりしかできない。
部屋には二人分の健やかな寝息が響いている。起きているのは影虎だけで、紫呉も須桜も間抜け面と言っても良いくらいの毒気の無い顔で、すやすやと眠っていた。一応意識のある影虎もどうにも眠たげで、桃色の瞳は今にも瞼の向こうに隠されてしまいそうだ。
少しばかり、紗雪は不満を覚える。不満、というよりも寂しさだろうか。それとも、疎外感というやつだろうか。
彼らの結びつきの強さは知っているつもりである。そこに自分は入れない事も。別の形でしか繋がれない事も。
友愛だとか友情だとか、そういう類のもので彼らと繋がっていられる事に対しては、紗雪は至極素直に嬉しく思っている。彼らと過ごす時間を楽しく感じている。しかしこういう姿を目にすると、何となく自分は蚊帳の外の存在なのだ、という風に思えてしまうのだ。
ふいに思い出す。いつの日だったか、一人きりで屯所で眠る紫呉に近づいて、刃を突きつけられた事がある。警戒と敵意を顕に睨まれた。相手が紗雪だと認識するなり瞳からその色は消えたが、あれはやはり、紗雪はまだまだ警戒心を抱いてしまう相手なのだ、という事なのだろう。
その紫呉が、警戒心なんて欠片も無い間抜け面を晒してぐーすかと眠っている。紗雪の訪問にも気づかずに熟睡してしまっている。須桜もだ。
面白くない、と紗雪は頬を膨らませて、影虎の背後に近づいた。腰を落ち着けて、影虎の背に己の背を預ける。
「あれ、入んなくて良いの? そこじゃ寒いだろ」
「良いの」
何となく、横側も向かい側も嫌だったのだ。
「悪いなあ、お茶も何も出せなくて。俺今動けねえし」
「良いわよ別に」
己の声が照れくささに尖る。しかし影虎は気にした様子も無く、眠たげにうんと一つ頷いた。
冷えた体に、背から伝わるぬくもりが心地良い。足先は確かに寒いままではあるが、紗雪は満足していた。鞄から取り出した教本に視線を滑らせるものの、満ちるぬくもりに眠気が訪れ、手にした教本はそのうちにぱたんと畳に落ちた。
ひそめた声が背中越しに聞こえる。
「……あっつい……」
「さっきまで寒い寒い言ってたくせに」
「んー……」
「お前汗かいてんぞ」
「……んー……」
ぼやく紫呉に、影虎が背中の紗雪に気遣ってか、ひそやかに笑う。
「あつーい……」
「須桜、紗雪ちゃん寝てるから。声」
「あれ、紗雪来てるの……?」
「うん、寝てる」
「そっかあ……」
とろとろと眠気を乗せた須桜の声は、すぐに寝息にとけていった。
「……ねむい」
「まだ寝んの?」
「寝る……」
「そうかよ」
眠さの所為かどことなく幼い紫呉の声に、影虎は呆れたように息を漏らす。
背中側の紗雪を振り返る気配がした。起こしてはいないか、と慮るような様子でしばらくこちらを窺っていた影虎だが、しばらくの後に首を戻し、ほうと息を吐いた。
「……影虎さん」
「あれ、起きてたんだ?」
「晩御飯、食べていっても良い?」
未だ眠る二人を起こさぬように、ひそやかに声を交わす。
「そりゃ全然構わねえけど、時間とか平気? こいつら起きてから作るから、わりと遅くなるかもだぜ?」
「平気」
もう少し、一緒の空間にいたいと思ったのだ。皆で卓を囲んで、言葉を交わして、笑いあえばきっと楽しい。
背を預けた影虎の背中から伝わる鼓動と体温とが、紗雪にも同じく眠気を運んでくる。手から落ちた教本を閉じ、紗雪は眠気に身を任せた。
隙間から吹き込む冬の風は冷たいけれども、部屋に満ちたぬくもりは途切れない。ふわふわとした心地で、紗雪は膝を抱えて瞼を閉じた。