まほらに候 6
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二
目を覚ました雪斗が最初に見たものは、深い瑠璃紺に染まった空だ。
明り取りの四角い格子窓から覗くその色が、今まさに夜が明けようとしているのだと、雪斗のぼんやりとした頭に知らせてくれる。
(格子窓?)
そんなものは、雪斗の住まう長屋には無い。
ここはどこだ。
妙に天井が近い。それもそのはずだ。雪斗は寝台に寝かされていた。
(寝台)
それも、雪斗の長屋には無いものだ。よく見れば天井も、見覚えの無いものだった。
慌てて身を起こそうとしたが、頭が痛んで無理だった。痛みに漏らした声が引き金となり、体中の痛みを思い出す。
中でも腕が、ひどく痛んだ。
腕。
両の腕が、じくじくと痛む。
持ち上げようとしたが、叶わなかった。痛い。痛い。どうして。
痛い。怖い。何故動かせない。
そうだ、何者かに襲われた。背後から。頭を殴られた。そして腕を斬られた。
斬られたのだ。この腕は。だから動かせない。
ひゅ、と喉が鳴った。
(まさか、ずっとこのまま)
嘘だろう。そんな。
この先も動かない。動かせない。
二度と、傀儡舞なんてできない。
嘘だ。
オレから傀儡を取ったら、何も残らないのに。そんな。
呑んだ息に、雪斗は咳き込んだ。涙が滲む。嫌だ。怖い。痛い。苦しい。
苦しい。
ようやくその咳も止まった頃、雪斗はこの部屋にもう一人いることに気がついた。その人物は荒い呼吸を繰り返す雪斗の手を握り、大丈夫よと優しい声で何度も繰り返していた。
「……須桜」
「大丈夫。落ち着いて。あたしが治すから。絶対に治す。誰にも、悲しい想いなんてさせない」
大丈夫よ、と須桜は握った雪斗の手を、更に強く握り締める。
その手から体温が伝わってくる。雪斗はすがりつくように、震える手で須桜の手を握り返した。
「動いた……」
「今ちゃんと動かせないのは、体が痛いのを怖がってるからよ。大丈夫、絶対に治るから」
雪斗はゆっくりと首を巡らせた。
須桜の着物はやけに汚れていた。血と、よくわからないが、何らかの薬品によるものだろう、くすんだ色。
頬にもその色がついている。柔らかそうな白い頬に跳んだその色は擦ったのか、耳の下の辺りまで伸びていた。
くっきりとした二重瞼は重たげだ。長く濃い睫毛に縁取られた大きな目の下には、よく見ずとも隈ができていた。
雪斗の視線を受けて、須桜は唇に笑みを刻む。形良い唇だ。薄桃色のその唇が、大丈夫よ、と愛らしい声を落とす。
改めて、整った顔立ちをした少女だと雪斗は思った。まるで傀儡の
ああ、そうだ。初めて会った時も同じ事を考えた。まるで傀儡の頭のような顔をしている、と、そう思った。
その完璧な愛らしさは、雪斗の思う理想の傀儡の
だが彼女は傀儡ではない。自らの意志で動くし笑う。話す。体温もある。
(体温)
はた、と雪斗は手を繋いでいるのだと思い至った。やけに恥ずかしくなって手を払おうとするのだが、傷が痛んで出来なかった。
ゆるゆると指をほどく。顔を背けた。
「……その、さ」
「何?」
「須桜が、助けてくれたのか?」
傷を負った時の事は、あまり覚えていない。その時の痛みだけが鮮烈に焼きついている。
「あたしじゃないわ。あたしは手当てをしただけ。助けたのは紫呉よ」
「そう、なのか?」
須桜が首肯する気配がした。
そうだったのか。言われてみれば、そうだったかもしれない。ほぼ無いに等しい意識の中で、彼が呆然と雪斗を呼んだのを聞いたような気がする。
助けてくれたのが紫呉ならば、彼にも礼を言いたい。少しばかり、いや、だいぶと恥ずかしいような気もするが。
でも、ありがとうと一声かけたかった。おかげで、まだ傀儡を操れる体で在れるのだから。
「……なあ、その、……紫呉は? どこにいるんだ?」
「仕事。多分、しばらくは戻らないわ」
「そっか……」
まあ、どうせまたそのうち紫呉は性懲りも無く雪斗の長屋にやってくるだろう。礼なら、その時に言えば良い。照れずに上手く言える自信は無いのだが。
雪斗は恐る恐る指先を動かした。走る痛みに息を呑む。
だが、同時に安堵した。痛みを感じるという事は、まだ神経が繋がっているという事だ。
この腕はまだ動く。動かせる。また傀儡を操れる。絶対に治ると須桜は言った。須桜がそういうのならばきっと、いや、絶対に治る。
何故自分がこんな目に遭っているのかは分からない。物盗りの類にでも襲われたのだろうか。貧相な想像力では、それくらいの理由しか思い当たらない。
盗るものなんて何もない家だ。それで逆上して、雪斗を襲ったのかもしれない。
正直に言えば、腹は立つ。治るまで傀儡舞はできないのだから。叶うのならば犯人をぶん殴りたいくらいだ。
でも、須桜が以前言ってくれたから。闘技場で、腕を傷つけられて我を忘れた雪斗をとめて、大事な手でしょ、と。
だから、この痛みも怒りも不安も、舞の糧とできるのならば。また、動くのならば。動かせるのならば。
それで構わない。
「……また、動くん、だよな?」
「必ず」
あたしが治すわと、言い切る須桜の声が頼もしかった。
「……分かった。……その、頼むぜ?」
可能な限りふざけた物言いを繕いたかったのだが、情けない事に声が震えてしまった。
「任せて」
誰にも、悲しい想いなんてさせない。信じて。
強いその声に、雪斗はただ黙って頷いた。
手当てをしただけと須桜は言うが、その手当てをしてくれなければ自分の腕はどうなっていたのか分からない。この傷がどれほどのものか門外漢の雪斗には分からないが、とにかく大量に出血はしていた。
ゆっくりと指を動かす。痛みはあるが、確かに動く。動かせる。
大丈夫。
大丈夫だ。
息を大きく吐く。怒りや不安を全て外に押し出すようにして。
数回繰り返せば、ずいぶんと気持ちも落ち着いてきた。
「……ありがとな」
今度は、須桜を見上げて言った。須桜はぱち、と瞬いた後、目を伏せてどこか気まずげに笑ってみせた。
「お礼を言われるようなことじゃないわ。だって、雪斗を治療したのは、あたしの為でもあるんだから」
疑問符を浮かべる雪斗だ。須桜は自嘲するように鼻を鳴らした。
「そりゃ、もちろんあたしだって雪斗の事は好きよ。助けられて良かったわ。でも、それ以上にあたしは、あの子が泣くのは嫌だったの」
好きの二文字に鼓動が跳ねたが、それよりも、須桜が自嘲するように言うその意味が気になった。
「……泣かせたくないのよ。良かったわ、本当に。あなたを助けられて」
しばし落ちた沈黙の後に、須桜はごめんねと小さく呟いた。
「あたし、嫌な奴ね」
唇を曲げて、須桜は嗤う。
須桜の言う『あの子』とは、紫呉の事なのだろう。どうして紫呉の名が出てくるのか不思議に思ったが、それ以上に雪斗は、己を嘲るように笑う須桜の笑顔を悲しく思った。
「……知ってるよ。あ、違う! その、お前が嫌な奴って言いたいんじゃなくて!」
取り繕って、雪斗は早口に言った。
「その、……須桜が、一番大切に思ってるのは紫呉だって、知ってる」
それで良いんだよ、と雪斗は不器用に笑みを刻んだ。そんなお前に惹かれてんだよとは、流石に口に出せなかったが。
ふ、と須桜は息を漏らした。やがて肩を揺らし、くすくすと笑い出す。
優しい笑顔だった。まるで、慈母を思わせるような。愛しげな。
だが彼女が抱くものは恋情では無い事も、雪斗は知っている。
彼女が抱くもの。
それは愛だ。饐える程に濃厚な、愛に近似した歪みだ。雪斗が傀儡に寄せるものと類を同じくするものだ。
そうか。きっと、だから惹かれた。同じ香を放つ彼女に。もしも彼女がこの香を纏わなくなったのならば、おそらく己は彼女に惹かれはしないだろう。
あの、熟れた眼差しを己に向ける彼女を欲してはいない。あの眼差しは、ただ一人だけに向けられていれば良い。そんな彼女に、己は惹かれてやまないのだから。
これは叶えるつもりのない慕情だ。
だから、それで良い。
雪斗はまたも顔を背けた。どうにも直視していられなかった。
「なあ、その……。そういや、ここどこなんだ?」
何となく気まずく思う心をごまかすように、雪斗は話題を変えた。
「壱班の保護舎よ。傷が治ってきたら家に帰れるわ」
「そっか」
ふいに差し込んだ朝日に、雪斗は目を細めた。
ねえ、と須桜が声を低めた。
「……あのね」
「ん?」
「多分、ね。雪斗は、雪斗が思ってる以上に、あの子にとって、大切なの」
「な、何だよいきなり」
気持ち悪い、と正直思った。が、須桜の声は真剣で、茶化せるような雰囲気ではなかった。
「だから今、雪斗が怪我して、すごく苦しいって、思ってると、思うの」
ぽつぽつと、細切れに須桜は言った。
「……ようやく、手を伸ばそうとしたのよ。友達だった相手に、傷つけられて。傷ついて。刀を手にして。色んなものを、遠ざけるみたいになって。……それでもようやく、手を伸ばそうと、してくれたのよ」
須桜の語尾が震えたのは、怒りの為か涙の為か。
「だから、……。あたしが言うのは、おこがましいって分かってるけど」
こくん、と唾を飲む音がした。
「あの子の手を、払わないであげてね」
懇願の響きを持ったその声に、首を振れるはずもなかった。
それにそもそも、振るつもりもなかった。不本意ながら、情など、既に湧いてしまっているのだ。
目を瞑る。そういえばあいつはまた怪我をしていた。痩せて、やつれて。
無茶をするなと告げたのに。はいと答えたくせに。なのにまた仕事か。どうせ今度も、危ない事をしているのだろう。
バカな奴だ。
「……ごめん、疲れさせちゃったわね。まだつらいでしょ?」
否定しようと思ったのだが、目を瞑った途端に眠気が押し寄せてきて、雪斗は力なく首を振るだけしか出来なかった。
おやすみ、と須桜が掛け布を肩まで上げてくれる。
軽い足音が部屋の外へと向かうのを、雪斗は眠りに落ちる寸前に聞いた。
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